第5話 バテシェバ。運命の出会い
「それが、大変なんだって。」
「ペリシテ人って、そんなに危ない人たちなの?」
「危ないなんてものじゃないわよ。まず、残酷で体が大きい。2メートルから3メートルもあるらしいわ。そして、負けたら男は全員奴隷にされる。死ぬまでボロキレみたいに働かされる。」
「それじゃあ女は…
私は思わず唾を飲む。
「生きている限り性欲のはけ口にされるそうよ。」
「そっそんな。」
「本当だって、今王宮で噂になって、みんなピリピリしてるんだから。」
「負けた国の女は、みんなそうなったんだって。そして、今度はイスラエル軍と戦争をするといっているの。」
「負けたらどうしよう。」
「モーゼ様の時みたいに、ヤーヴェが助けてくれたらいいのだけど。」
私たちは、朝の水くみ場まで、もう少しのところまできた。
「マナさん。隠れて。」
「ええっ。」
水くみ場までもう角一つのところで、ミカルは私の手をぐいっと引っ張り
壁に身を隠す。
「ちょっとミカルどうしたの?」
私は声を押し殺して、ミカルの耳元で尋ねる。
「今、水くみ場にマアサ様がいるのよ。何かお祈りしているみたいだけど。」
「お祈り?」
私とミカルは壁から顔を出し、こっそりとマアサ様を見つめる。
本当はこんなこと好きではないのだけれど、ついつい見入ってしまう……。
マアサ様は手を胸のあたりで組んで、神に祈っているようだ。
「神よ、私に憐れみをおかけください。子を宿せないみに、あなたの祝福をおかけください。」
マアサ様はこんなにもお悩みだったのか。
「これでは、結婚もできません。どうか、あなたの力をお貸しください。」
マアサ様は祈りを終え、涙を拭うと仕事場のほうへ行ってしまった。
鉢合わせしなくて良かった。
「ふう。あぶなかったね。マナ。前にもあそこで祈っていらしたわ。マアサ様は誰かが結婚された後とか、子供ができたという話を聞くとかなり機嫌悪くなるんだよ。」
「そうなんだ。」
「まあ、気持ちはわからなくはないけどさ。私たちに当たるのはやめて欲しいわ。」
私たちは王宮に行き、ヨナタン様の身の回りの世話をする。
「失礼いたします。」
部屋に入ると正規軍の隊長たちとヨナタン様が甲冑に身を包み話し合いをしていた。
部屋の空気がピリピリと張りつめている。
「マナ、そしてミカル。急いで無酵母パンと皮袋の水を10日分用意してくれ。」
「かしこまりました。ヨナタン様。」
私とミカルは急いで水と無酵母パンを厨房に取りに行く。
無酵母パンは、パン種の入っていないパン。簡単に言うと普通は膨らんでいる。それに対して無酵母パンは膨らまない、干からびたパン。
当然おいしくはないのだけれど、日持ちする。だから戦争のときは利用されることが多い。
私は水を10日分ヨナタン様の部屋に運ぶ。皮袋でできた水袋に今日汲んだ水を入れていく。
ミカルさんは無酵母パンを10日分と羊の干し肉を持ってきた。
「パンだけじゃ皆飽きるし、塩辛いものもあったほうがいいと思ってね。」
「ミカル、マナ。支度は済んだか。」
「はい、ヤギの干し肉も用意しておきました。」
「上出来だ。ウリア今すぐ出るぞ。ペリシテが高原まで来ているようだ。」
「はい、仰せのままに。」
屈強なウリア隊長。部下に指示を出し。荷物を運ばせる。
今回の戦争、イスラエルは勝てるのだろうか。
私はこういう時、神に祈ると決めている。
以前も店が上手くいかないときは近くの祭壇で、動物を捧げ祈りをささげていた。
私にできるのはイスラエルの勝利とヨナタン様が無事に帰ることを祈るくらいだ。
私はここに来る前に、持ってきた硬貨でハトを二匹飼って、王宮の祭壇に持っていく。
王宮の祭壇は、町の祭壇より立派なつくりだ。
当たり前といえば、当たり前だけど。
町の祭壇は岩を組み合わせた簡易なものだった。
けれど、王宮の祭壇は高級な石を成型してある。
私は松明の火を薪につける。煙が上がったところで、私は買ってきたハトの、首を割き血を祭壇に振りかける。
血は神聖なもので神に返すのが決まりになっている。
そして、血を抜いたハトを薪の上に乗せハトが焼けて煙になるのを待つ。
煙が黒く空まで上がったところで、私は胸の前で手を組み神に祈りを捧げる。
「神よ。私のささやかな生贄をお受け取りください。日ごろから私たちを守ってくださっていることを感謝いたします。」
ここからが、今回の本題だ。
「私の主人のヨナタン様、そして王サウル様をお守りください。そして、イスラエルをペリシテからお守りください。」
私は目を開き、焼けるハトの煙が空に伸びていくのを眺めていた。
私は願いが神に届くのを祈りつつ、くるりと回って宿舎に戻ろうとする。
そこに立っていたのは……。
バテシェバ様だ。大きな刃物と、縄でつながれたヤギを両手にして立っていた。
「バテシェバ様。こんにちは。」
「あなたは…ヨナタン様の侍女の…。」
「はいマナと申します。」
暫くの、沈黙…。バテシェバ様はヤギと刃物を持ったまま途方に暮れていた。
イスラエル一の美女とヤギと刃物。この不釣り合いな組み合わせに違和感を感じずにはいられなかった。
「どうかなされましたか?」
「ペリシテとの戦いでイスラエルと主人の無事を祈りに来たのだけど、やり方がわからないの。」
確かに、バテシェバ様は箱入り娘という感じで、私みたいに食堂で羊やハトをさばいたりしなさそうだ。
彼女の手は白く細い指をしていて、家事は殆どしていないことが分かった。
殆どは侍女がするのだと思う。
「私でよければお手伝いしましょうか?」
「お願いできるかしら。」
私はヤギと刃物を頂き、神に祈りを捧げてからヤギの首を切り裂いた。
ハトと違いヤギは激しく暴れたけれど、私がしばらく押さえつけると、痙攣した後こと切れた。
バテシェバ様は驚いた様子で見ていたけれど。
「何かできることはあるかしら。」
「私が、祈るところまではやりますのでお待ち下さい。」
私はヤギの血を祭壇に振りかけ、ヤギを薪の上に置き火をつけた。
暫くすると、ヤギを焼いた黒煙が空高く伸びていった。
私のささげたハトと、ヤギの二本の黒煙が空に伸びた。その煙が天に届いたところで、
私たちは祈りを捧げた。
「夫、ウリヤとイスラエルをお守り下さい。」
「では、私はこれで。」
「まって頂戴。あなたの服血まみれじゃない。」
私は自分の服を見ると、ヤギの血がベットリとついていた。
新しい服を貰うしかないな。
「そのまま返したら、あなたがヨナタン様に怒られてしまうわ。是非お礼をさせて頂戴。」
「でも…。」
「うちにいらっしゃい。」
バテシェバ様の家は大きな家で高価な岩と粘土で作られていた。庭には水浴び場もある。
手入れの行き届いた庭には花々がきれいに咲いていた。
家の中も彫刻があったりと、身分の高いお方だということが分かった。
「この服はどうかしら?」
明らかに私がもらっていた服よりも高価な服だった。こんなものを頂いていいのかな。
「こんなに高価なものを。よろしいのですか?」
「もちろんよ。それとこれ。」
彼女は綺麗な白い手で、私の腕に銅の腕輪をつけてくれた。これも結構高そうなものだ。
「これはお礼よ。」
「恐れ入ります。けれど、こんなに高そうなものよろしいのですか?」
「いいのよ。私には他の腕輪があるし、あなたに着けてほしいの。」
「どうして、こんなに良くしてくれるのですか?」
バテシェバ様は私の顔を覗き込み、目を見て微笑みながら
「あなたは、とても綺麗な心をしている。
それに、不思議なくらい構いたくなってしまうのだわ。きっと、あなたが野兎のようで可愛いからだわ。
マナ、何か困ったことがあったら私のところにいらっしゃいな。」
「はっはい。ありがとうございます。」
バテシェバ様は美しすぎて近くで見ていると緊張してしまう。
「では、仕事がありますので私はこれで…。腕輪ありがとうございます。」
私は小走りで邸宅をでると、この数時間で起きたことを思い返していた。
まさか、イスラエル一の美女バテシェバ様と知り合えるなんて。
これは、神から祝福に違いない。
私は胸の前で手を組み、この出会いを神に感謝した。
給仕の仕事をしたのち宿舎に帰る。いつもの庭園に二人の人影がある。
あれは、ミカル様と……。ダビデ様だ。
私は見てはいけないものを見てしまったと思い、ウサギのように茂みに隠れてしまう。
「ダビデさま、今夜は寝付けそうにないの。」
姫様が、ダビデ様と呼んでいるなんて珍しい。
「それでは、姫様が寝付けるように音楽を捧げましょう。」
ダビデ様は竪琴を膝に置き、宴会の席の時のように演奏を始める。今晩の曲は前の曲よりもゆっくりな旋律で、聴いている人の心を癒す、そんな曲だった。
「すばらしいわ。また明日、この広場で。」
「姫様、良い夜を。」
どうしよう、二人の秘密の逢瀬を見てしまった。バテシェバ様の件といい今日は、いろいろなことが起こりすぎだよ。
私は宿舎に帰ると寝床に突っ伏して今日起こったことを、整理した。
「マナさん何かあったの?その綺麗な腕輪どうしたの?」
ルツが聞いてくる。
「まあ色々ね。これは。バテシェバ様にもらった。」
「バテシェバ様に?一体どうして?」
「今日は疲れているから眠っていいかしら。」
彼女はそれ以上何も聞かず、蝋燭の火を吹き消した。月明かりだけが、私たちの部屋を照らす。
今日は、バテシェバ様に服を頂いて、ダビデ様とミカル姫の秘密の逢瀬を見たり色々起こりすぎだよ。
私は今日の出来事を、寝床の中で整理した。ミカル様はきっとダビデ様のことが好きなのだろう。ミカル様は恋する乙女そのものだった。ダビデ様は王族ではないから結婚はできないけれど、姫様は彼を近くに置きたいと思うだろうな。
いいなあ。私も姫様みたいにダビデ様に触れてみたいなあ。
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