キンミズヒキのせい
~ 八月十九日(月) 来々軒 ~
キンミズヒキの花言葉 感謝の気持ち
秋。
別れの季節。
……には、まだ早い。
台風一過。
本日も、猛暑日なのです。
でも、心はずっと。
冷たいまま。
ぽっかりと開いた隙間を埋めるように。
涙があふれてくるのです。
「てやんでぃこんちくしょう! 店に来るなり塞ぎ込みやがって! そんなに不味いか!? うちのラーメンが気に食わねえってんなら出て行きゃがれ!」
「あ、気に食わないという訳ではないのです。美味しくはないけど」
「なんだとこの野郎!」
だって。
そんなに怒鳴られたら。
どれほど美味しいラーメンだって。
美味しくなくなってしまうのです。
だというのに。
「変な道久君なの。こんなに美味しいのに」
いつものように一本ずつ。
ちゅるちゅると麺をすするのは
軽い色に染めたゆるふわロング髪を。
今日は朝からラーメン気分だったようで、ひっつめにしているのですが。
その結わえ目で鮮やかに輝くのは。
茎に纏う、黄色い小花の群れ。
キンミズヒキなのです。
「……実にめでたい」
「なにがなの?」
このお店に来ると。
終始、幸せ笑顔な穂咲さん。
いつもの通り。
足をパタつかせながら。
美味しそうに。
楽しそうに。
ラーメンをすするのです。
「しばらく来なかったから、幸せいっぱいなの。おじさん、美味しいの」
「けっ! せいぜい卒業するまで思う存分来やがれ!」
穂咲とおばさんのおかげで。
少しは慣れたと思っていたのですが。
実は優しいおじさんの怒鳴り声が。
今日は、俺の心を小さく押しつぶすのです。
……それにしても。
今、気になることをおっしゃいましたね。
卒業するまでとは。
どういう事でしょう。
「なんで? 卒業しても、あたしは思う存分ラーメン食べに来るの」
どうやら穂咲も。
この言葉に違和感を感じたようで。
寂しそうな顔をしながら。
おじさんに訊ねるのですが。
「なにいってやんでい! 嬢ちゃん、家を出ねえ気か? 俺らの頃は、学校出たら一旦自立するのが当然だったもんだ!」
「あ、そういうことなの。でも、あたしは家から通えるガッコに行くの」
そんな返事をした穂咲は。
一本だけ、麺を箸でつまむと。
ちゅるちゅる。
ちゅるちゅる。
幸せそうに。
楽しそうにすするのです。
……おばさんと穂咲の事を。
大昔から知っているおじさんは。
派手に新聞を広げて。
その陰で鼻をすすっていますけど。
「……バカやろうが。そんなんじゃ、おふくろさんが悲しむぞ?」
「そんなことないの。ママは、あたしがいないとメシもろくに喉を通らないの」
「ああ、まあ、そうだろうな」
「だから、まだまだ通うの」
丼に視線を落としたまま。
穂咲がつぶやくと。
たっぷり時間をかけて。
真面目な顔で、新聞紙をテーブルへ置きながら。
おじさんは。
神妙な声音で言いました。
「……嬢ちゃんが卒業したら、もう、店は畳んじまうんだ」
「え? ……なんで?」
「あちこちガタが来てんだ。続けられるはずねえだろ」
いつになく。
力の無いため息をついたおじさん。
その言葉に促されて。
店内を見渡してみましたが。
なんかもう、もともとぼろいので。
いまさらといった気がするのですけど。
でも、おじさんの言葉の意味を。
穂咲だけは、正しく捉えていたのでした。
「……杖とか、持ってみるの」
「そんなで鉄鍋振るえるわけねえだろ、てやんでい」
悪態をつきながら。
椅子から腰を浮かせるおじさんに。
穂咲は慌てて駆け寄って。
辛そうに立つその体を支えるのでした。
「だいじょぶ?」
「いらねえやちきしょうめ! いいからとっとと食って、母ちゃんとこにけえりな!」
そう、おじさんは。
体にガタが来ていると言ったのです。
ならば、お店を畳むのもやむを得ない。
それは理解できるのですけど。
でも、急な別れを知った俺の心は。
さらに小さくすぼんでしまうのです。
……お別れが来るまで。
沢山の思い出を作って。
別れた後も。
ずっと幸せでいられるように。
かつて、俺が穂咲に言った言葉ですが。
自分の事となると、そう簡単には割り切れません。
「ちきしょうめ。代々受け継がれたこの店を、俺が畳むことになっちまうなんてな……」
おじさんは、急に老け込んでしまったかのように。
喉に引っかかる咳をしばらく続けると。
穂咲に手を引かれて。
俺の正面に腰かけたので。
コップに水を入れてあげると。
それをちびりと口に含み。
そして、震えるようなため息を吐いたのでした。
「この店はな……、随分と昔、戦争があった時に暖簾を出したんだ」
「え? 戦時中に?」
「ああ。……暗い、血なまぐさい話題ばかりの世間様に、明るい太陽をお見せするんだってことでよ。ひい爺さんが始めたそうだ」
おじさんは、割烹着のポケットから煙草を取り出して。
それをぷかあとふかしながら。
昔話を続けます。
「だからうちのラーメンには、お日様が三枚も乗ってんだよ」
「ああ、不思議に思ってたんですよ。乗ってますね、三枚」
ドンブリに目を落とせば。
ピンクの、くるくると渦巻くお日様が。
確かに明るい光を。
俺に運んでくれています。
「……たかがナルト。だが、ウチにとっちゃあ、店を支える一番深い根っこなんだ。だから歴代、どれだけ美味いナルトを作れるか、研究に研究を重ねたんだ」
なんと。
このナルトに、それほどの想いが。
言われてみれば、確かに……。
確かに………………?
いや。
とりたてて美味しいとは思えないですけど?
眉根を寄せる俺に反して。
穂咲は大層感心しているのですが。
なんでしょう。
やっぱり、おれの
全部、爪に行っちゃってるのです??
「それで、お店の横んとこにあるお地蔵様、ナルトを持ってるの」
「はあ!? なに言ってるの!?」
「ふっ……。お嬢ちゃん、大した目を持ってんじゃねえか」
「ほんとなの!?」
なにやらナルトの話が。
大きくなり始めていますけど。
ちょっとバカみたいに感じ始めているのは。
俺だけなのでしょうか。
「じゃあ、あのお地蔵様にはこのお店の想いが詰まってるの?」
「いや、違う。……あれは、この辺りの水害を救ったおナルト様を祀ったものだ」
「まてまて! さすがにちょっと待て!」
神妙な雰囲気で。
なにをバカなこと言ってるの!?
「……おナルト様?」
「正確に言えば、俺のじい様なんだ。じい様は、来る日も来る日も研究を重ねて、山のようにナルトをこさえていたんだが……」
「俺の突っ込みは無視ですか?」
「それがある日、長雨で氾濫した川の水がこの辺りにまで流れ込んできてな……」
「え? ウソなの……。まさか、ナルトで?」
「ホントに待って!? 納得いかないから! 理解に苦しいから!」
水害からこの辺りを守ったナルトって!
どんだけこさえちゃったのです!?
「そして先代、オヤジがまだ若い頃。戦後間もなくの頃だ」
「まだ続きますか」
「この辺りに流行り病があってな、それを……」
「救えませんから! どんだけ万能なんですこの渦巻き!」
呆れて物も言えないホラ話なのですが。
おじさんは大まじめですし。
穂咲は涙ぐんで頷いていますし。
ああもう。
信じないのも気が引けますし。
信じたら信じたで。
バカの仲間入りな気がしますし。
これ。
どうしたらいいのです?
……呆然と。
成り行きを見守っていた俺でしたが。
その、開きっぱなしで塞がらない口が。
さらに大きく開くことになったのです。
「分かったの。おじさんの心! ナルトへの愛! あたしが受け継ぐの!」
「えええええ!? なに言い出しました!?」
「じょ、嬢ちゃん……。まさかこの店を、継ぐ気なのかい?」
涙ぐむおじさんの手を取って。
力強く頷いた穂咲。
自分の夢を捨てて。
他人の夢を引き継ぐ。
そんな人生を。
君が……。
「ほんで。ここを目玉焼きやさんにすんの」
「こら。ナルトへの愛はどうした」
引き継げるはずなど。
微塵もありませんでした。
「とっととけえれ!!!」
そしてお代も払わずに。
俺たちは追い出されたのですが。
最後の大声。
それだけの元気があれば。
もう、十年は平気ですよね。
「……やっぱ、くるくる軒のラーメンは美味しいの」
「そうですね。……また、来ましょうね」
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