第5話その人にとっては
口角だけをあげ、バクと名乗る端整な顔立ちの死神は笑っている。
紫煙が意識のある生物のようにぐるぐると二人と一人の間を浮遊する。
「エルザ、見せて上げたらどうだい。趙充国将軍も言っていたではないか、百聞は一見にしかずとね」
その言葉を聞き、むっちりとした足の生えたデニムのショートパンツのポケットからスマホをとりだし、ある動画を再生させた。
そこには三十代ぐらいのまだ若いころの敏夫が写し出されていた。
「仕組みは企業秘密だよ」
やたらと魅力的なウインクをし、スマホの画面を敏夫に顔に近づける。
スマホの小さな画面の中にいる若い敏夫は電気掃除機を手に部屋の掃除をしていた。
当時住んでいたマンションのリビングを掃除しているようだ。
そのマンションは貴子と最初に住み始めた、思い入れのある部屋であった。
きれい好きの彼は、時間をみつけては部屋を掃除し、片付けていた。
ふと、彼はリビングの食卓用テーブルに置かれた一冊の平べったく薄い本を手にとる。
パラパラとめくる。
そこには、かわいらしい女の子のイラストが多数のせられていた。
剣を片手に鎧を着た耳の長い金髪の少女。
セーラー服で腕に包帯をぐるぐるとまいた黒髪の少女。
動物の耳をつけたメイド服姿の少女。
それらはどこかで見たようで、見たことのないイラスト集だった。
何度も読まれたのであろう、ページのはしが折れ曲がり、少し黒く汚れていた。
「汚れているし、いらないだろう。捨てるか……」
画面の中の敏夫は、そう言い、その薄い本をゴミ箱に捨ててしまった。
動画のシーンはきりかわる。
そこには、髪を振り乱し、なにかを探し回っている貴子の姿が写し出されていた。
仕事から帰宅したであろう、敏夫の姿があらわれる。
「ねえ、テーブルの上にあった本知らないかしら」
額の汗をぬぐいながら、貴子は敏夫にきいた。
「あぁ、なんかそんなのあったな。汚れていたから、捨てといたよ」
その声をきいた貴子は冷たい目で床を見て、
「そう……」
と短くこたえた。
それは日常の些末な出来事で、敏夫にとっては記憶にすら残らないどうでもよいことであった。
エルザに見せられた動画はどんなに思い出そうとしてもできない記憶であった。
ふと、これはつくられた偽の動画ではないかという疑問が頭をよぎった。
「そんなめんどうなことは、しないよ。これは過去にあった事実だけを再生したまでだよ」
少し怒ったような口調でエルザは言う。
「他人にとってはごみのようにつまらないものでも、本人にとっては何ものにもかえがたい宝物というものが時としてあるんだ。あの薄いイラスト集、同人誌というのだろう……貴子さんにとっては、あれがそうだったのだ。その同人誌は貴子さんと歩いていたあの男が描いたものだ。あなたと結婚する前に付き合っていた男性のようだ。その男性はイラストレーターを志し、念願かないプロの作家となったものの不幸にも交通事故でこの世を去ってしまう。同人誌は男が残したいわば、遺品のようなものだったのだよ」
そう語るとブラックのアイスコーヒーをうまそうにごくごくとバクは飲んだ。
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