4-5 竜の最後
「あっ、フィアさん!」
着岸した船から、フィアが無言で飛び去る。コートを脱ぎ捨てて。レンはコートを拾いながら追いかけようとしたが、船は不安定に揺れていて、僕らのいる甲板から岸へ上陸するのは難儀だった。
「よっしゃ行くぞ!」
船室から兄貴の声が響く。乱暴に扉が開かれ、どたどたと走り出してくる。僕らは慌てて甲板の影に隠れて、兄貴が去るのを待った。
「とう!」
兄貴を追って、レンに似た声が聞こえてくる。少しだけ顔を出して陸地を窺うと、小柄な少女が兄貴を追っていた。
「スイ……」
「妹は? 俺の妹はいるか?」
「いや、いないみたいだ。船に乗ってたのは兄貴とあの二人だけらしい」
「おい、とにかく追うぞ! 見失うわけにはいかない!」
シエが叫ぶ。もう声を抑えていない。僕らは彼女に続いて慎重に甲板から飛び降り、島へと上陸した。
島は大きな岩が所々に転がっていることを除けば、平坦な岩場が広がっているだけの殺風景な場所だった。植物も生えていない。潮の満ち引きによってはほとんど沈んでしまうのかもしれなかった。
僕らは岩の影に隠れながら進んだ。兄貴に気づかれてはまずい。だが、追い付いたとしてどうする? どうやって勝てばいい? 僕らにはチート能力なんてない。
「おい、エンリ」
シエが口を開く。
「ここに『根源の竜』はいないんだろ? 変な老人の妄言だって」
「あぁ、だが古文書によればほかの竜がいる可能性は高い。『根源の竜』でなくとも、竜を殺されるのはまずい」
「竜と繋がっているなにかが、誰かが死んでしまう……」
「あぁ、止めないといけないけど……」
僕の言葉を最後に、全員黙りこくってしまう。どうやって勝てばいいのか、まだわからない。
「セージ。こうなったら奴が能力を使う前に片付けるしかない」
シエが言う。
「竜との戦いに夢中になっている間に、後ろから近づくぞ」
「だが、そううまくいくか? リョーイチローだけじゃなく、レンの妹と竜人も控えているのだろう?」
「フィアさんがさっきみたいに協力してくれるとは限りませんし」
「だが、ほかに手もないだろう? 一気呵成にやるしか」
シエの言葉は野太い叫び声にかき消された。空気を震わせる振動が僕らのところまで届く。
「なんですか……」
「くそっ、竜の声だ! やはりこの島にもいた!」
「おい待てエンリ!」
エンリが駆け出していく。シエが止めようとするが、間に合わなかった。僕とレンはエンリを追って岩場から飛び出した。
顔を出したレンがハッと息を飲む。僕も思わず足を止めて、見上げてしまった。
岩場の間に、真っ白な巨体が立ちふさがっていた。太陽の光を反射して眩しい、雪山のような白だ。表面はごつごつと固く、鱗状の凹凸が波打っている。
竜だ。象三頭分はあろうかという大きさの竜が、兄貴たちの前に立ちはだかっていた。
白い鱗に赤い瞳の竜。翼はすでに右が切断されてしまっていた。セメントのような粘度の血液も白く、傷口からどろどろと流れ出している。思ったより早く戦闘が始まってしまったか。
「待ってください!」
レンが叫んでしまっていた。だがやむを得ない。エンリはすでに兄貴へ向かって突進していたし、彼女がそうしなければ僕かシエが声をあげていただろう。
輝くような赤い瞳。あれを見た瞬間、全員が直感的に、あの竜を殺すのは特にまずいという予感を抱いていた。
「くそっ、また邪魔かよ!」
兄貴は後ろのエンリへ向き直って剣を振るった。小さな竜巻が起こり、エンリは魔法陣の盾を展開しながら後ろへ飛ぶ。
「兄貴、その竜を殺すのはやめろ! 竜の伝説を知らんわけじゃないだろ?」
「うるせえぞ! そんなのはエルフの捏造だろ! 『根源の竜』は俺が殺す!」
この場所を教えてくれたのもエルフであることをもう忘れているらしい。ともあれ、説得が通じる相手ではないのはわかりきっていた。
「死ね! 『根源の竜』!」
「やめろ!」
剣が竜へ振るわれる。魔力をまとった刀身が左の翼も切り裂く。竜が叫んだ。竜は攻撃に晒されているのになかなか反撃に転じなかった。躊躇っているように二の足を踏み、ただ兄貴に対面しているだけだ。
「リョーイチローさんやっちゃえ!」
スイが拳を振り上げる。一方、フィアは小さな白い手を握りしめて、赤い瞳でじっと竜を見つめていた。
白い鱗。赤い瞳。いや、まさか。
「待て兄貴! このままだとフィアが危ない!」
「なんだよ! どういう意味だ」
僕は思わず叫んだ。兄貴が攻撃の手を止めてこちらを見る。
「これは推測だが、フィアはその竜と繋がってるかもしれない!」
「え?」
レンとスイが同時に言って僕を見る。
「あくまで可能性だが……その竜はフィアの親じゃないのか?」
「お前、なに適当なこといってんだよ。俺を止めるためにデマカセ言ってるだけじゃねぇか」
「いや、可能性はある」
エンリが立ち上がって援護する。
「竜も人と同じで外見を引き継ぐ。もちろん可能性にしか過ぎないが、万が一は否定できんぞ」
全員の視線がフィアへと注がれた。彼女は身を守るように自分を抱き締める。
「兄貴、少なくともそいつは『根源の竜』なんかじゃない。殺す意味はないはずだ。フィアの身に危険が及ぶ可能性があるならとりあえずやめておけ」
兄貴はスイとフィアを交互に見る。スイも不安そうな顔になっていた。
「スイ、あなたからもお願いしてください。もうやめましょう、こんなこと。フィアさんの命を危険に晒してまでやることではないはずです」
「それは……」
スイは視線を泳がせ、もじもじとその場で立ち尽くしていた。どうしていいのかもうわからなくなってしまっているのだ。いままでは一応、いいことをしていると言う大義名分がある行為だった。だけどいまはフィアが死ぬかもしれないことをすると言う、正当化が難しい行為に直面しているのだ。
十四才程度の少女に対処できる事態ではない。
「リョーイチロー。お前も子供を巻き込むのは本意ではないはずだ。卑しくも勇者を名乗るのであれば、賢明な判断をすることだ」
竜が吠えた。何かを急かすような一吠えだった。
「リョーイチローさん……」
フィアが消え入りそうな声で言う。
兄貴は竜へ剣を振るった。
「正気か! てめぇ!」
シエが唸った。棍棒を抜き襲いかかるが、兄貴が一撃を剣で受け止めると、リザードマンの革を巻き付けた棍棒がすっぱりと切断されてしまう。シエは慌ててバックステップで間合いをとり直した。
「フィアが死んでもいいのか!」
「フィアは死なない! 俺を信じろ! フィア!」
兄貴がシエの声をかき消すほどの大声で言った。ここまでの大声は現世では聞いたことがないかもしれない。
「俺はチート能力を持ってるんだぞ! この世界で俺は何でも成し遂げられる! フィアを自由にすることだってな!」
「それは違うぞ兄貴!」
僕も負けじと大声を張る。
「なんの力も持ってなかったときになにもできなかった人間が、大きな力を持っただけでなにかできるようになるわけがないだろ! 自分をよく見てみろ! 現世でうまくいかなかったのは多少同情の余地があったかもしれない。だがこっちでやったことは言い訳が効かんぞ。何でもできる力を持ちながらあのザマだからな!」
「フィアさん」
レンも改めて声をあげる。
「私たちの使命はこの世界に余計な影響をもたらさないことです。勇者になることではありません。あなたにだって、妙な影響を及ぼしたくないんです」
「でも……」
フィアは言いよどんだ。
「私は、この人に助けられた、だから……」
「そんなもん関係あるか!」
シエが叫んで割り込む。
「子供は守られて当然なんだよ! 恩義に感じる必要も恩返しする義理もねぇ。フィアはフィアが都合のいいことをわがままに言っていいんだよ!」
「くそっ、適当なことを。そんなもん聞くな!」
兄貴が声を張り上げる。フィアは彼の方を一瞬だけ見たが、すぐに僕らの方を向いた。目付きはまだ不安そうだったけど、口元は決意が現れたようにきつく結ばれている。
「リョーイチローさん」
フィアが兄貴へ背を向けたまま、口を開いた。気を付けていないと風や波の音にかき消されてしまいそうな声量だった。
「私は、死にたくないです。もっとこの世界で生きていたい。だから……」
フィアの言葉が竜の咆哮にかき消された。竜が大きな口を開き、雪崩のように真っ白な炎を吐き出した。
炎は壁のように分厚くフィアへ迫った。竜へ背を向けていた彼女は反応が遅れる。
僕は駆け出していた。レンもシエも、エンリも同じだった。
僕はレンの肩を掴んで後ろへ振り投げ、炎から遠ざけた。シエはスイに飛び付いて伏せる。エンリはフィアへ迫ろうとしたが、熱波に遮られて進めなかった。僕はエンリの横を通り抜けて駆ける。
「セージ!」
エンリが叫ぶ。僕はそれを無視してフィアへ飛び、上からのしかかって彼女をかばった。背中へ激痛が走る。炎が服ごと肌を焼いた。
「セージローさん!」
「やろう! よくもフィアを!」
「やめっ……」
シエが立ち上がって兄貴を止めようとしたが、遅かった。兄貴が振るった剣は魔力を帯びて巨大化し、竜の首をばっさりと切断した。
「そんなっ」
レンが叫ぶ。僕のそばに竜の頭部が落ちてきた。エンリが駆け寄って来る。
「セージ、怪我は?」
「背中が……それより」
僕はエンリの手を借りて、フィアのそばから退いた。フィアは立ち上がって、呆然と竜の死骸を眺める。
「ほら見ろ! フィアは死ななかった! 俺の言った通りだ!」
兄貴が勝ち誇ったような声をあげた。だが、なにかを悟ったエンリが首を振る。
「だめだ……」
フィアが兄貴の方へ一歩、二歩と進む。その足取りは弱々しかった。
「リョーイチローさん、なんで……」
がくりとフィアが地面へ膝をつく。エンリが手をさしのべようとしたが、彼の手がフィアを支えることはなかった。エンリの手がフィアの肩を握ったとたん、彼女の体がぼろりと崩れ落ちる。
「い、いや……」
ふらふらと立ち上がったスイが漏らした。目を大きく見開いて震えている。
フィアは何かを言おうと口を開いた。だが彼女が言葉を発する前に、顎が塵になって砕けていく。
足が崩れ、フィアが地面へ倒れ伏す。最後に残ったのは赤い瞳だった。瞳は懇願するように僕を見て、塵になった。
「なんでこんな、こんなつもりじゃ……」
泣きじゃくるスイをシエが抱き締めた。レンも呆然とフィアがいたところを見つめている。
「兄貴」
「あぁぁぁうるせぇうるせぇ! お前らフィアに何をした!」
兄貴は乱暴に剣を振った。剣先から飛び出した斬撃が危うくスイへ当たりそうになり、慌ててシエが彼女を庇って伏せる。
「貴様!」
エンリが叫ぶ。彼は兄貴へ駆け出しそうになるが、僕は腕を掴んで止めた。
「エンリ、ここは僕に」
「だが」
エンリはそう言いかけて、口をつぐんだ。僕に肩を貸して立ち上がらせてくれる。
「兄貴、いい加減もう帰るぞ。わかっただろう、お前がここにいてもなにもできない」
「俺は勇者になるんだよ! 邪魔するなら死ね!」
兄貴は手を掲げる。右手には青い炎が。
「いや、死ぬのはお前だ!」
僕は痛む背中を無視して走り出した。兄貴都の距離を一気に詰める。
兄貴が腕を振るった。青い火の玉が飛ぶ。速い。火の玉はまともに僕の顔面へぶつかった。
熱い。眼球が沸騰してしまったのか、視界が一気にゼロになる。痛い。だが僕は足を止めなかった。兄貴がいる位置はもうわかっている。止まらない。
空気がうねる。もう一発来た。僕は避けることすらしなかった。炎はあくまで熱の塊。熱いし痛いが、それさえ耐えれば歩みを止める力はない。そして僕には、高温に耐えるための能力がある。
死ななければ勝てる。
「止まれよこの!」
兄貴が苛立った声で叫んだ。それで位置がはっきりする。僕は腕を伸ばした。拳が兄貴の顔へぶち当たる。
僕は地面へ倒れた。沸騰した眼球が回復し視界が戻ってくる。
兄貴は竜の血溜まりのなかで転がり、もんどりかえっていた。
「誠二郎。邪魔を、するな……」
兄貴は立ち上がろうとする。だが真っ白な血にまみれた兄貴は膝立ちのまま動かない。エンリが目を見開く。
「なんだ……体が固まって」
「まさか、竜の血が固まって、枷になったのか」
エンリの言う通り、竜の首から流れ落ちていた血液は既に固まり、つららのようになっていた。兄貴の体にまとわりつく血液も同様に固まり、蝋燭のようになって兄貴を束縛していた。
「おい兄貴、チート能力には餓死しないってのもあるのか?」
「あぁ? 不老不死は標準装備だ!」
「じゃあ都合がいい。一生そこで固まってろ……」
「くそっ! おいっ!」
兄貴はその場で体を揺するが、凝固した血液は金属並みの高度になっているのか、ぴくりともしなかった。手は剣に届いていない。青い炎で血液を焼こうとするが、血の枷はそれこそ金属のように赤くなるだけで溶けることはなかった。
かえって、熱された枷が兄貴を体を焼くようで、ジュウジュウと痛々しい音が響くだけだった。
「ぎゃぁっ! 熱い! おい、誠二郎! 助けろ!」
「ははっ! こりゃいい。チート能力も形無しだな。」
「スイ! おいスイ! 助けろ!」
兄貴は喚いてスイへ助けを乞う。だがスイはシエの後ろに隠れたまま出てこなかった。
「こいつは……これでいいのか?」
エンリが固まった兄貴へ蹴りを入れながら言う。
「あぁ、このまま反省させておこう。偶然とはいえ、都合がいいことになったな」
「きっと竜の思し召しだ、セージ。こうなることを世界も望んだんだろう」
シエがしみじみと言った。
「スイ」
「お姉ちゃん……」
レンが妹へ近づく。スイはすっかりシエを頼みにするようになってしまったのか、彼女にしがみついて離れなかった。シエもそんな少女を優しく抱き寄せている。
「ごめんなさい……まさか、あんなことになるなんて。フィアが……私はただ、外に出てみたくて……だから」
「わかってるよ」
レンの言葉に、スイが顔を上げる。
「私も、正直言って外に出れて楽しかった。大変なことも多かった……というか、大変なことのほうが多かった気もするけど、でも、あなたの気持ちもわかる」
「お姉ちゃん」
「だからといって、無茶をしたりほかの人を巻き込んじゃだめだよ、スイ」
「うん……」
シエがスイの背中を押した。彼女は促されて、レンへ近づく。
「ごめんなさい、お姉ちゃん……私、フィアのことも……」
「それはお前のせいではないだろう」
エンリが穏やかな声で割り込む。
「竜人の少女を守れなかったのはあのリョーイチローと、間に合わなかった我々の責任だ。帰ったらせめて、彼女を弔うための儀式をしてやろう」
「スイも、手伝ってね」
「うん。わかった」
スイが小さく頷いて、ようやくわずかに笑った。それを見ていた僕とシエも笑う。
「さて……帰るか。レンさん」
「えぇ。そうですね。セージローさん」
僕の言葉に、レンが応じた。重荷を下ろした清々しい声だった。僕の声もきっと同じだろう。
「って、待てぇい!!」
しかし、僕らの爽やかなやり取りは大声で遮られた。全員で声のした方向を振り返ると、そこには金髪の女性が仁王立ちしていた。
「あなたは……」
「グラント!」
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