2-3 アルフォタのシエ
全身に激痛が走った。体を起こそうともがくと、それだけで全身がバラバラになりそうだった。
意識を取り戻した僕は、川の浅瀬に打ち上げられていた。川に流されているうちに森から出たのか、視界が開けていた。見た目は平原に近いようだったが、いかんせん川に倒れ伏しながら眺めているのでここがどういう場所なのかはよくわからない。
川底には大きな石が転がっていて、それが体を下から突き刺して痛んだ。だが、骨に響く痛みに比べればあってないようなものだった。全身は当然ずぶ濡れで、服が水を吸って重たかった。
曖昧な記憶が繋ぎ合わされる。崖からダイブした後の記憶はほとんどなかった。ただ、激流にもまれて全身を打ったらしいことはわかる。普通なら死んでいるダメージだが、こうして生きている。グラントに与えられた不死のチートは有効だったというわけだ。
痛みを和らげる能力は一切ないことも分かったが。
「……レンさん……?」
僕は、そばにいるべき存在の不在に気付いた。何とか顔だけ持ち上げて、首を振って周囲を探る。
僕から少し離れたところで、金色に光るものが視界に入った。這うように体の方向を変えて正面から見据える。レンだ。彼女は川の中でうつ伏せになって気を失っていた。
まずい。早く川から引っ張り出さないと窒息してしまう。いや死にはしないんだったか?
とはいえ、放置するわけにもいかない。僕は匍匐前進でレンへ近づき、バシャバシャと水面を鳴らしながら肩を叩いた。反応がない。腕を掴んで浅いほうへ引っ張ろうとするが、痛みで力が入らなかった。
「くそ……なんで回復チートはないんだよ……」
僕は毒づきながら、両腕を使ってレンを引っ張る。わずかに動いたが埒が明かない。
そうやって足掻いていると、静かな平野に低い唸り声が響いた。あまりいい予感はしない。森にゴブリンがいたように、ここにも野蛮な原生生物がいるのかもしれない。早く安全なところに避難しないと、餌になりかねない。
だけど、いまの僕ではレンを川から引き上げることすらままならなかった。無意味な努力をしている間にも唸り声が近づいてくる。焦りばかりが増す。
「レン! 起きろ! 起きてくれ! ここはまずい!」
レンは相変わらず反応しない。僕は気合を入れて体を持ち上げ、なんとか膝立ちになった。レンの脇の下へ腕を差し込み、とりあえず顔を僕の膝の上へ乗せて窒息は避ける。
唸り声は川の上流から聞こえていた。視線を走らせると、何か黒い塊のようなものが蠢きながらこちらへ近づいてくるのが見えた。それがなんなのかはわからないが、ともかくやばそうなことだけがひしひしと伝わってくる。
塊が不意に立ち止まり、突如として上へ伸びあがった。いや、伸びたというのは目の錯覚で、正確には立ち上がっただけだった。黒い巨体が日光に晒されて、その全貌が露わになる。
その塊はワニのようだった。先端がばっくりと二つに割れ、真っ赤な口内が覗く。太い牙が隙間なく並んだ口を開閉しながら、抜け目ない小さな瞳で周囲を見渡しているようだった。
黒い鱗が陽の光を反射してぬらぬらと輝く。ワニの体は熊のように太く、二本の足で安定して立っていた。まるで二足歩行が常であるかのようにしっかりとした足取りでこちらへ近づいてくる。俗にいえば、リザードマンという種類の生き物だろうか。いささか原生的で知性のかけらもないが、普通のワニよりは人に近い形状であることも確かだ。
リザードマンは僕らのそば、あと数歩の距離まで迫った。背丈はレンの二倍ほどあるだろうか。無理だ。ゴブリンにすら勝てない僕が、こんな奴を追い払えるわけがない。
リザードマンは明らかに、僕らを餌とみなしていた。周囲を窺っていたのは、餌を横取りしそうな敵がいないかを確かめるためだろう。大きな口の端から粘ついたよだれが垂れて川へ落ちる。
獣の手がレンへ伸びる。太く、三本しかない指は短かった。彼女のコートを鷲掴みにして持ち上げようとする。僕はレンにしがみついて彼女を引っ張りとどめようとするが、リザードマンの力はすさまじく、一緒に体が持ち上がってしまう。
「おい、やめろ……このっ……」
わずかに残った力で蹴りを入れるが、岩を足蹴にしているような気分だった。固い鱗の中にある肉へダメージを与えられない。
僕らはそのまま、口のすぐ上へ持ち上げられる。奴が手を離せば、真っ逆さまへ胃の中だ。今度は自分の身を守るためにレンにしがみついた。
幸い、レンより僕のほうが下にいる。このまま落ちても彼女を口の外へ蹴り飛ばすことはできるかもしれない。
ぐらりとレンの体が揺れる。彼女を掴むリザードマンの手から力が抜けつつあった。僕は歯を食いしばって覚悟を決め、落ちた瞬間にレンを蹴りだせるように姿勢を整えようとした。
体が宙へ投げ出される。牙に挟まれてずたずたに切り裂かれる覚悟を決めて、身を縮こまらせる。
だが、落下した先はワニの口ではなかった。僕とレンは再び川の中に落ちた。石が体にぶつかって痛むが、牙に突き刺されることはなかった。
僕らを捨てたリザードマンは直立している。視線はこちらから外れ、正面を睨みつけているよようだった。
その正面には、大きな人影がある。
「ワニ野郎。こっちを向きな」
人影が喋った。低い女性のような声だった。川へ倒れ伏した僕からでは姿ははっきり見えない。ただ、しっかりと筋の通った声から、人間か、あるいは人間並みに知性がある存在だろうと予想できる。少なくともゴブリンの類が餌を奪いに来たという感じではない。
リザードマンが駆け出す。巨体が川の中で動いて波が起こり、僕は全身をその波へ包まれてしまう。視界が泥水に遮られる。
顔を川から持ち上げる。それと同時に、リザードマンの野太い絶叫が響いた。
決着は一瞬でついたようだった。川へうつ伏せにひっくり返ったリザードマンに人影が覆いかぶさり、喉を短刀で切り裂いていた。真っ黒な血が噴水のように飛沫を上げ、川を染める。リザードマンの短い手足はしばらくバタついていたが、やがてその動きも止まり脱力した。
返り血を浴びた人影は、リザードマンの死体から降りると僕らのほうへ歩いてきた。その姿がよく見えるようになる。粗末な木綿の服に身を包んだ、大柄な女性だ。ワンピース状の服のスカートには大きなスリットが入っていて、黒く日焼けした筋肉質な脚が覗いている。平べったく広い足には何も履いていない。
ばさばさとした黒髪は短く、川の水と血に濡れて顔へ張り付いていた。前髪の向こうに、獣のように鋭い目が隠れている。目元から鼻の頭にかけてそばかすが散らばり、唇は乾燥しているのかところどころ皮がめくれあがっていた。
そして、近くに来てようやく気が付いた。彼女には右腕がない。袖のない服から突き出した剛腕は、肘から上でばっさりと切断されていた。
片腕であんなのと戦ったのか……。
女性は僕へ近づくと、無言で左手を差し出してきた。僕が握ると、力強く引っ張って立ち上がらせてくれる。手は節が太く、豆ができてごつごつとしていた。彼女はしゃがみ込んでレンを抱え上げると、黙って川岸へ歩き始める。
「あっと……助かりました。ありがとう……」
「礼を言いたいのはこっちだ」
彼女が呟いた。さっきは気づかなかったが、言葉に強い訛りがあって、飛んだり跳ねたりするように音が上下している。
「いい囮になってくれたおかげで、食いつなげる」
彼女がちらりとリザードマンを見た。もう血は流れ切ってしまっている。
……食べるのか、これ。確かに、食肉として一週間ほどはもつ量ではあるが。
「どうやってこんなのに勝ったんだ……」
「弱いところを突けば楽に勝てる。こいつは仰向けになると起き上がるのに時間がかかるし、腹側の革が柔らかいから、ひっくり返して太い血管を切ってやればいい」
僕の独り言のような疑問にも律義に答えてくれる。ただ、僕が蹴りを入れた感覚では腹側の革も相当固かったし、そもそもこんな巨体をひっくり返すのは簡単ではないだろう。ましてや彼女は隻腕だ。いかに筋力があろうとも、危険な仕事になるはずだ。
「お前ら、この辺の人間じゃないな? どこから来た?」
川岸に上がった彼女が、足を止めて尋ねてきた。僕はどう答えるべきが逡巡し、「川上から流されてきたんだ」とお茶を濁す。
「よく生きてたな」
「運がよかったよ……はは……」
「まぁいいや。うちに来い。ワニ退治の礼に怪我の手当てをしてやる」
「ありがとう……ところであなたは?」
彼女が振り向いて言う。
「シエ……アルフォタ村のシエだ」
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