1-4 大人とは何か

「うわぁっ!」

「しー、みんな起きちゃいますよ」


 僕はレンに言われて、慌てて口を覆った。周囲の音に耳を澄ます。隣の部屋で寝ている両親は起きなかったようだ。

 僕が高校生まで使っていたロフトベッド。その潰れた布団の上に金髪の美少女が体操座りしている。レンは十代前半にしか見えないから、絵面としてはほぼ犯罪である。


 まるであどけない女子中学生を真夜中の寝室に連れ込んだようだ。僕が塾講師なだけに、余計洒落にならない。職業倫理もあったものではない。


「なんでここに……」

「セージローさんと一緒にドラゴランドに行きますので……身辺整理と言っても、整理するものも特にありませんし」


 俯いたレンの顔は、寂しそうだった。僕はキャスター付きの椅子を手繰り寄せて腰掛ける。


「家族は……ほかにいないのか? スイっていう妹以外に」

「はい。私たちは人間のような家族は持ちません。生まれた瞬間から世界のバランスを保つことだけをしてきましたし、妹も仕事のパートナーとして一緒に生まれただけなんです」


「生まれた瞬間から?」

「はい。この姿で生まれて、五十二年間ずっとです」

「ご、五十二年……」


 僕よりも干支一周分は年上だった。下手すれば二周か。親よりも少し年下というくらいだ。

 しかし、身の上話をする彼女の小さな姿は、十四歳程度の幼い少女にしか見えなかった。あの空間から出たことがないと言っていたし、精神的にもその程度かもしれない。


「そうか……じゃあ僕と君がドラゴランドに行くってのは、現実なのか……」

「はい。正確にはあと三時間と四十二分後に出発です」

 僕はちらりと目覚まし時計を見る。蛍光塗料を塗られた針が夜中の三時を指していた。この分だと日の出とともに出発ということになるだろう。


 身辺整理か。僕はやることが多いな、いろいろと。仕事もあるし、家族もあるから。……恋人がいないのは唯一の救いか。悲しませる人間が一人少ない。職場には迷惑をかけるけど、急に退職したからといって悲しむことはないだろう。だから問題は、両親だ。


 僕はデスクの明かりをつけた。眩しさに目がくらむ。

「……ドラゴランドの一日って、こっちの何日になるのかな」

「正確にはわかりません。世界の境界は時空が乱れていて、不安定なので。向こうに一日いただけで地球の百年に相当することもあれば、たった数秒に過ぎないことも」


「つまり、もう僕の知ってる地球に帰ってこれないかもってことか……」

「……本当に、すいません」

 レンの声はまた泣き出しそうになっていた。僕は彼女の肩を叩いて励ます。


「レンさんのせいじゃないよ。少なくともそれは絶対だ」

「……はい」


 僕はデスクの引き出しを開いて、中から便箋を引っ張り出した。大昔に使っていたものだけど、まだ綺麗なまま収められていた。真っ白なそれを一枚剥がすと、罫線に沿って文をしたためていく。


「それは……」

「急に僕がいなくなったら、両親が困るだろう。兄ももう死んでるのに……だからせめて、それっぽい事情をでっちあげないと。それと、お金のことも。口座の暗証番号を記しておけば、貯金が引き出せる。そう多くはないけど、老後の足しになるかも」


 レンが縮こまって、自分の体をぎゅっと抱きしめた。これ以上話したら、彼女は自分を責めすぎてしまうだろう。僕は黙って、作文に集中した。


 とはいえ、失踪して十分な理由で、かつ両親が心配しないで済みそうなものなんてそう簡単に思いつかなかった。結局、僕は偶然出会った金髪美女と恋に落ちたが、向こう側の家族の事情で駆け落ちしないといけなくなったというファンタジーを作り上げることになった。


 あながち、嘘はついていない気がする。金髪美少女のレンと一緒に、彼女の家族の事情で異世界に行くのだから。それに、外国へ逃げるので日本円の貯金はもう使わないという口実も、ちょっと無理があるけど作れた。


 手紙を書き終わったときには、もう五時になろうとしていた。あと一時間少々。レンはベッドの上で丸まったまま、僕の作業を眺めていた。


「……レンさんの妹は、どんな子だったの?」

「スイですか?」

 振り返って話を向けると、彼女は顔を上げた。


「我が儘でした。仕事はできないし、そのくせ我は強くて……後片づけはいつも私の仕事。だから一人っ子がよかったっていつも思ってました」

「そうか。僕も似たようなもんだな」


 レンが小さく首を傾げた。

「うちも三人兄弟だから、ほら、そんなに裕福ってわけじゃないし。だから一人っ子が羨ましかったな……おやつの林檎も、三等分しないで済む」


「姉だからって小さい方を選ばなくて済みますしね」

「うちは兄貴が大きい方取ってたぞ」

 レンが笑った。僕もつられて笑う。


「……セージローさんのお兄さんは、どんな人でしたか?」

「おいで。見たほうが早い」

 僕は部屋を出て、廊下を歩いた。奥に兄の部屋と弟の部屋が並んでいる。


 兄の部屋は、主の死から時間が止まっていた。床に散乱していたゴミや物は母が片づけたが、それ以外はそのままだ。棚に飾られたロボットは何シーズンも前のものらしいし、ポスターも今年のアニメではない。机の上には作りかけのプラモデルが放置されていた。


「この部屋が?」

「あぁ。まるで中学生の部屋みたいだろ? ……二つ上だから、生きてれば三十六歳か。プラモの雑誌じゃなくて、子育て専門誌が本棚にあってもいい年齢だ」


「子育てはよくわかりませんけど、部屋が子供みたいだというのはその通りですね。仕事で地球の様子も観察するのですが、こういうおもちゃは普通子供の部屋にあるものです」

「普通じゃないってことさ」


「じゃあ、リョーイチローさんは子供っぽい大人だったんですね」

「大人かぁ……いや、大人ではなかったかもな」


 兄は仕事が長続きしない人だった。いつもすぐに問題があるとか言ってやめてしまうのだった。本当に問題があったのか、些細なことを針小棒大に言っているのかは最後までわからなかったし、実のところどうでもよかった。


 どういう理由であれ、僕にとっては仕事をしないで親のすねを齧る厄介な兄でしかなかったのだから。


 冷たいと思われるかもしれないし、僕もこれが他人の話だったらそう思うだろう。ただこれは家族の問題だ。家族の問題なら、過程よりもその結果がどうしようもなく重要なことだってある。


「セージローさんは、お兄さんのことが好きでしたか?」

「いや全然」

 その質問には即答できた。


「じゃあ」

 レンは大きく息を吸った。

「殺せますか?」


 僕はその質問に、答えられなかった。




 夜が明けた。冷たい大気を朝日が照らしていく。

 出発の準備を終えた僕はレンと一緒に、玄関を出たところでグラントが門を開くのを待った。田舎なので周りには民家すらない。朝っぱらから犬の散歩をする老人とか、気まぐれに畑の様子を見に行こうとする人にさえ気を付ければ妙なことをしていても目撃されないだろう。


「あの、最後にご両親に会っていかなくてもいいんですか?」

 レンが遠慮がちに尋ねた。僕は首を横へ振る。

「別にいいよ。昨日会ったし、手紙のシナリオに従うなら、突然いなくならないと」


 レンは僕の答えを聞きながら、黙って正面を見つめる。氷が割れるような音が響いて、何もない空間へひびが入る。ぽろぽろと表面が崩れ落ちて、穴が開いた。その先は真っ暗だった。何もない。


「……開きましたね」

「思ってたより、危うい見た目だな……」

「セージローさんが夢で私と会ったあの空間だともっと安定するんですけど……地球では難しくて」

「そうか」


 レンが緊張したように大きく息を吐く。歯が小さく音を立てているのは、何も寒さのせいばかりではないだろう。

 彼女は両手をすり合わせた。


「あの、手を……繋いでもらってもいいですか? 決して変な意味ではなく、転生中にはぐれるとまずいので」

「あぁ、いいよ」


 レンが僕へ手を伸ばした。右手で掴む。ガラス細工のように小さくて冷たかった。震えている。

 せめてと思い、手をしっかりと握った。


「行こう」

「はいっ」

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