第1章 異世界の在り方

1-1 兄の三回忌

「熱っ!」

 僕は蛇口から出るお湯に触れた指を慌てて引っ込めた。ほんの少しだけ出すつもりだった流水もとい熱湯は溢れんばかりの勢いでシンクを叩き、跳ね上がって僕の顔にかかる。


「熱いって! もう……」

 水飛沫もといお湯飛沫をかわしながら、慌ててお湯を止める。代わりに水を出して、冷たさに耐えながら皿洗いの続きをした。


 僕の実家は築四十年。もうそこらじゅうガタがきている。大丈夫なところを探すほうが難しいかもしれない。母は先日、屋根から雪と一緒に瓦が降ってきたと言っていた。そろそろ本当に洒落にならないかもしれない。


 僕は洗剤のついた皿を綺麗にゆすいで、カビの目立つ食器かごへ並べていく。僕が独り立ちをする前から使われているボロボロの鍋。修学旅行のお土産に買ってきていまだ現役のマグカップ。懐かしきマイ箸。


 それらに交じって、最近買い足したらしい見知らぬ食器が洗浄を待っている。僕が東京に出てから、ここの暮らしにも少しは変化があったらしい。父の茶碗は一回り小さくなっていた。


 僕は食器を全てゆすいでしまって、皿洗いを終わらせる。タオルで手をふきながらリビングに戻ると、母がソファに座ってテレビを眺めていた。型落ちの薄型テレビは、今朝起こった交通事故を伝えている。老人の車がまた子供の列に突っ込んだ。


「どうして車の事故は無くならないんだろうねぇ」

 僕が戻ったのを察してか、母が呟いた。僕はそんな彼女を、後ろから見下ろす。黒い髪を探すほうが難しい。いつの間にかだ。


「事故も死者も減ってるとは聞くけどね。ゼロにはならないんだろうな」

 僕はそう言って、ソファに腰かけた。クッションが潰れて、合皮は猫の爪とぎのためにボロボロになってしまっている。体重をかけると怪しい軋みをあげた。


「……諒一郎が死ぬまで、こういうニュースは他人事だと思ってたのに」

 母はちらりと、和室の方へ視線を向ける。仏壇の扉は開けっ放しになっていて、位牌がひとつ鎮座していた。白地に家紋が描かれた提灯が左右に突っ立っている。


 今日は兄の三回忌だった。だから僕は実家に戻ってきた。

 兄の諒一郎は交通事故で死んだ。トラックに跳ねられて即死だった。一報を聞いたとき、僕は東京の職場で、塾生たちに講義をしているところだった。


 別に悲しくはなかった。だから、江戸幕府の成り立ちをきっちり最後まで説明してから、田舎へ急行した。


 兄の遺体はミンチになってしまったようで、葬儀屋は見ない方がいいですと言った。僕はその勧めに素直に従った。

 斎場で会った両親の、茫然としたような、どこかほっとしたような、そんな顔をよく覚えている。


「誠二郎も気をつけなさいよ? 歩道歩いてても向こうから突っ込まれちゃあねぇ」

「大丈夫だよ。東京じゃ電車移動だから。それに兄貴は単なる飛び出しだろ? 歩きスマホの。そんな不注意しないよ」


 塾の講師というのは存外、教え子に目撃されがちなのだ。気を抜いてちょっと悪いことをしていると、思春期の彼らに教室ですぐいじられる。

 それに、本当の心配の種は僕ではないところにあった。


「母さんこそ気をつけてよ? もう六十近いんだから、車の運転も控えてさ」

「お母さんは大丈夫よ。たまにしか運転しないから」


 高齢者の事故が無くならないわけだ。いや、母を責めるのも酷な話だろう。この田舎はバスが一時間に一本と無い。帰省も毎回苦労している。


 ふと、母の膝の上を見る。カラー刷りのパンフレットが置かれていた。表紙にはこの近くにある老人ホームの名前がでかでかと印刷されている。


「なに、それ?」

「あぁこれ?」


 母がパンフレットを渡してくる。角が折られているページを開くと、入所の案内が大きな文字で書かれていた。夫婦で入所できる部屋があって、二十四時間専門のヘルパーが常駐するなどと説明がある。


「まだ早くない?」

「早いうちに考えるだけ考えとこうと思って。何かあってからだとバタバタするでしょ?」

「ふうん……」


 僕はページをめくった。入所料金のご案内。夫婦で月額二十二万。入所一時金は百二十万? 想像よりも高い。

 塾講師にしてはいい給料をもらっているとは思う。一人で暮らす分には申し分ない。だけどこの費用を賄うのは到底無理だ。弟もいるが、プータローには頼れない。


「父さんは何て言ってるの? 入りたいって言うと思わないけど」

「そうねぇ。畳の上で死ぬって言い張ってるわ。去年、がんの手術で入院したのが堪えてるんでしょ。でも満足に歩けなくなってきたら、贅沢言ってられないかも」


 親の介護か……。もしそうなったら、僕は東京から戻らないといけないのだろうか。母はそうならないようにと思って老人ホームを考えてくれているのかもしれないが……。


「誠二郎にいい人がいればねぇ」

「残念だけどあてはないよ。孫の顔も諦めてくれ。っていうか、息子の嫁とはいえ見ず知らずの人に介護される方がしんどくないか?」

「そりゃそうだけど……」

「母さんがいい見合い話を持ってきてくれたら話は別なんだけど」


 僕はそう言って大あくびした。瞼が重い。体も少しだるい気がした。疲れが溜まっている感じだ。

 母もそれに気づいてか、言葉をかけてくる。


「眠たいの?」

「少し」

「慣れない法事であれこれ動いて疲れたんでしょ? お風呂沸かすから、それまで少し寝てなさい」

「うん。そうするかな……」


 僕は目を閉じて、体の力を抜いた。思っていたよりも疲れが酷かったのか、あっという間に眠りに落ちてしまった。




 そして、僕は真っ白な部屋で寝ていた。

「…………?」


 夢か? と思って起き上がる。部屋はシミひとつない真っ白で、家具の類は一切置かれていない。六畳間くらいの手狭な空間だ。

 久しく夢を見ていなかった。しかし珍しい夢もあるものだと、胡坐をかいて部屋を見渡す。


 後ろに、誰かの気配があった。床に手をついて体を反転させる。

 少女だった。裾と袖の長い白いワンピースを着た、金髪碧眼の少女。金糸のような髪は腰まで伸び、ふわふわと揺れている。年頃はせいぜい十三か四くらいだろう。


「あなたが、スズキ・セージローですね?」

「はい、まぁ……」

 僕はとりあえず、少女の問いに首肯した。夢相手に嘘をついても仕方がない。


 少女は僕の答えを聞いて、やはりと呟く。彫刻のように整った顔が苦しそうに俯く。

 数秒後、少女は何かを決意したように顔をあげた。小さく息を吸い込む。

 僕は彼女の言葉を待った。


 少女が膝をつく。

「申し訳、ありませんでした!!」

 土下座だった。

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