26「決裂」
地獄だと思った。恒輔の拳を受け止めたまま、怜はほんのわずかに眉根を寄せた。この空間はどこも黒い。仲間を包む空気も、彼らの目の色も、吐き出された声も。怒りを通り越した――もう二度と何色にも染まることのできない、憎悪の黒色。それが今、怜の前に立ちはだかっている。肩の上のニャー太も、その空気に少し毛を逆立てている。
怜がそっと恒輔から手を離せば、涙で濡れた顔のまま、桜子が枯れた声で訊いてきた。
「......今、戻って、きたの?」
怜は首を振った。嘘を吐くつもりは毛頭なかった。
「梓くんが林太郎くんに怒鳴った辺りから、ずっといた。喧嘩の声が聞こえたから呼びかけていたんだけど、みんな聞こえていなかったみたいで。ヒートアップしだしたから止めようと扉を開いたら、ちょうどそのタイミングで恒輔くんが......」
怜はいたって冷静に、事務的に答える。少しだけ感情というものに触れたからこその答え方だった。
外から聞いていて理解した。今の彼らに自分の感情をぶつけるとさらに悪化してしまう。これ以上悪化すればもう元には戻らない。そう思えるぐらいには、彼らの関係にひびが入ってしまっていた。
だが怜にはその修復方法がわからない。できるのは、彼らを繋ぎ止めようとする努力のみだった。
「とりあえず、一度拠点に帰ろうよ。ここにいても危ないだけだ。校門前のやつらは俺が倒すから、何とかしてここから出よう。そうだ、これ」
「さっき見つけてきたんだ」とポケットから小瓶を取り出し、陽介に渡そうとした。陽介は怜を避けてその傍をすり抜けると、出口の方へ向かっていった。
「陽介くん? どこへ行くの、一人で外へ出たら......」
「すみません頼むから一人にさせてください!」
怜の言葉を遮って早口で言った陽介は、振り返ると疲れ切った笑みを浮かべた。
「もう、俺も糸が切れちゃったんですよ」
その意味がわからず、問おうとしたが陽介はさっさと外へ姿を消してしまった。
追いかけようとすれば、「オレも糸が切れたって感じだなー」と呑気な声が隣で聞こえた。
「オレ、少なくともみんなのことを仲間として接していたつもりなんだけど、イイコちゃんぶってただけかな。もう、誰がどうなろうとどうでもよくなっちゃった」
そう言って梓は乾いた笑みを貼りつけて、不自然に軽い足取りで出て行った。誰よりも仲間というものを大事にしていた梓のものとは思えない発言に、怜は呆然となった。
「思えば最初から向いてなかったんだよな、俺がグループのリーダーだなんて。面倒臭がりで何をやっても無意味な人間が、何馬鹿なことをしてんだか」
去っていく空の背中が目の前に現れる。ハッとなった怜は、「そんなことない」と声を張った。
「空さんはたしかに面倒臭がりでしたが、何をやっても無意味だなんてことはありませんでした。行ったらダメです。ここでみんなバラバラになったら、もう――」
「今更おせえよ。てかさ、」
怜は何のために俺らを繋ぎ止めようとしてるんだ?
振り返らない空にそう問われ、怜の心臓が凍りつく。
「何の、ため......」
「たしかに、脱出方法を見つけることに関しては一人じゃ難しい。だが不可能じゃない。俺たちが集っていた理由の一番は、複数で危険に立ち向かうためだ。......怜、おまえは一人でも強いくせに、どうしてまだ仲間を求め続けるんだ?」
空は再度そう問うたものの答えを聞く気はないようで、そのまま視界からいなくなった。
「あんたがオレたちを繋ぎ止めようとしている理由って、システム的なモンですよね? 自分たちは仲間で、仲間とはみんなでいるもので、だからバラバラになってはならない。そんな固定観念からきている」
怜の代わりに完璧な答えを叩き出した林太郎は入り口に立ち、こちらを振り返る。皮肉げに笑わず、嘲ることもなく、ただまっすぐに怜を見つめて淡々と尋ねた。
「このグループを崩壊に導いたのはオレです。憎いですか?」
「......憎くない。憎いなんて思うわけがない」
「そうですか。オレは憎いとまではいきませんが、あんたのことが羨ましいです。記憶も感情もなくなったら、今よりずっと楽でしょうね」
最早怜は何も言うことができなくなっていた。そんな怜を一瞥し、林太郎もまたこの場から去っていく。
桜子は林太郎を止めようとはしなかった。胸元をギュッと握り締めると、怜に声をかけた。
「あなたたちを、信じきれなかった、のは、たしか、だけど、楽しかった、ときが、あったのも、本当。......でも、きっと、私たちは、誰と会っていても、こうなって、いた。今までが、孤独だった、から、孤独であること、以外の、安寧を、知らない」
桜子はそう言って、世界を見下す目で口の端を無理矢理吊り上げる。それは、いつも彼女の隣にいた少年が得意としていた笑い方だった。
「私たちは、この傷を、感情を、抱えている、限り、誰とも、笑い合えない。だから、雨宮さんは、こんな、ボロボロの、人間なんて、忘れて、他の、仲間を、見つけて」
「今まで、ありがとう、ございました」と告げて、桜子は倉庫から飛び出して走り去っていった。一瞬で彼女の姿は見えなくなった。
どうして。そんな思いばかりが思考をグルグルと巡る。考えがまとまらない。心臓は忙しなく脈打っていて苦しい。堪えようと拳をギュッと握り締める。それでもどうしようもない苦しさは治まらなかった。
遅かった。自分がもっと早く感情を取り戻していれば、
――初めてだ、こんなに心が空っぽで苦しいのは。
「ニャン」と肩から下りたニャー太が、トテテテと軽い足取りである場所へ向かう。茫然自失となっていた怜は我に返り、振り返る。ニャー太がその人の足元で再び鳴いてみせれば、優しい手つきで白い身体が抱き上げられた。
黒のストローハットの隙間から見える口は微笑みを携えている。だが怜は知っている。人は口と、声と、目と、手と、心がある。それぞれが語る感情は、違う。
「......恒輔く――」
「なあ、怜。オレが怜に感情を取り戻させようとした本当の理由、教えたろか?」
唐突に、彼の視線が怜を射抜く。薄く開かれた、その中に見える淀んだ水面。歪な暗さを放つ瞳に、怜はじわりと背中に汗が滲むのを感じた。だが恒輔はそんな怜の様子に気づいているのかいないのか、勝手に話し始めた。
「実は、オレは最初、怜のことをオレの
笑いを含んだ声に妙な甘さがまとわりつく。怜の心は無意識のうちに身構えていた。
「親父は仕事でこっちに構わず、母親は親父の浮気を機に家を追い出された。今の母親は弟ばかりにかかりきり、弟はどうしようもないクズで、それでも周りには常に人がおって......オレは、ただ会社を継ぐための道具でしかなくて、好きであの家に生まれたわけやないのに、いじめられて、勝手に孤独にさせられて......ハハ......」
間髪入れずに恒輔が拳で壁を殴る。倉庫内に響いた音に怯んだニャー太が、恒輔の腕から飛び出してこちらに逃げてくる。
「やからオレは、現実をゲームに見立ててプレイヤー側に回ることにしたった。邪魔なやつは排除して、使えるやつは金の力で傀儡にして傍に置いて。そしたらどうや? オレをいじめてくるやつらは消えた。オレの傍には必ず誰かが控えていて一人やない。オレにとって最高の環境。そりゃそうや、
声が引きつるくらい甲高い声で、腹を抱えながら笑いだす恒輔。心底楽しそうと言わんばかりの声で、なのに、目だけが笑っていない。
最初の欠片を見つけた家で「恵まれていたんだね」と言ったときに見せた、冷たい視線。そのことを思い出し、そしてそこに秘められていた恒輔の暗さを、怜は今知った。
「ッハハハハ......はー......すまんすまん、今までオレをコケにしてきよったやつらの間抜け面を思い出して、つい。まあ、つまりオレが傀儡を求めるのはそうゆうこと。ああ、けど安心してや。怜のことはもう傀儡やなんて思ってへんから。怜はオレはオレやって言ってくれた。そう言ってくれたんは怜が初めてや。せやからオレは、怜のことだけは大事にするで」
「............のは」
「ん? すまん、よう聞こえんかった。何て?」
「......」
「おーい、怜?」
言葉とは、果たしてここまで口にするのが怖いものだったか。まだ無表情を保てる顔で、怜はキュッと握り締める拳に力を入れた。バグ霊に郷愁の感情を植えつけられたときのように、誰かの言葉や行動によって出てくる感情に呑まれるのが怖い。呑まれて、そのまま自分が弱くなってしまいそうで、
違う。一度ギュッと力強く握り締め、パッと手のひらを解放させる。
――それを乗り越えなければ、「俺の心」は強くなれない、変われないんだ。
顔を上げた怜は、光宿す強い眼差しでまっすぐ恒輔を見つめ、言葉をぶつけた。
「初めて出会って『契約』をしたとき、記憶も感情もない寂しそうな俺を放っておけないって言ったのは、何だったの?」
恒輔は一瞬わかりやすく顔をしかめたが、すぐにいつもの笑みに戻した。
「怜が感情を取り戻せばオレの孤独......苦しみを理解してくれるかもって思ったんや。それが怜に感情を取り戻させようとした理由、昨日の探索のときに訊いてきた問いの答えや。記憶はついで。ハハ、我ながら最低やな」
「最低だとは思わない。むしろ他の人なら理解できたかもしれないところを、俺という貧乏くじを引かせてしまったことに申し訳なく思っているくらい」
「......ほんまに、怜は優しいな」
恒輔の
「せやから、もうやめてしまおうや。感情の取り戻しも、誰かを守るのも、全部。どのみち怜が傷つくだけや。なあ怜、最初に戻ってオレと二人だけで行動しよう。そんでここから脱出して、友達になろう。そしたら今度はオレが怜を守るから。怜を怪物や何や言うやつ、全部オレが排除したるから」
「それはできない」と怜は即答した。はっきりと強い意志のこもった返答に恒輔は驚いた顔をしてみせたが、一瞬で表情が剣呑なものへと変わる。
「......何で。オレのこと、信用できひんのか」
「俺は『仲間全員』で脱出したいんだ。空さん、梓くん、林太郎くんに陽介くん、桜子ちゃん。みんな繋ぎ止めたい、手放したくないんだ。だから、君と二人だけは、無理だ」
「怜の傍から離れたやつらなんてどうだってええやん。あの人らはもう戻ってこうへんよ。それに、怜も聞いたやろ? 戻ってきたところで、また怜に暴言ぶつけるだけや」
「気にしていない。本当は良い人たちばかりだから、あれは本心じゃないと俺は思っている。それに、恒輔くんの想いは嬉しいけど、俺は感情を取り戻すって決めたんだ。取り戻さなきゃいけないんだ」
「それはちゃう。怜は感情を取り戻さん方がええんや。怪物と言われようが、怜はそのままでいた方がええ。聞いたやろ、感情を持つ者同士の醜い争い。今のままの方が怜は幸せになれる」
「そうしたら俺はみんなの居場所になれない。感情を理解して乗り越えられるようにならないと、俺はいつまでも君たちの本当の心を理解できない」
「できんくてええよ。理解したところで、怜にオレたちは救えへん。救わんくてええねん」
「救うんじゃない、寄り添いたい。みんなが与えてくれたものを、俺は返したい」
「だからこんな傷まみれの人間の心に綺麗なやつが触れるなっちゅーねん!! もうこれ以上何も言わずに傍におれや!!」
悲痛な声でそう叫んで、恒輔はハッとした表情になる。自分の言葉の矛盾に気づいたのだ。
「......君が俺を傍にと願うなら、俺は君の心に触れざるを得ない。一人でうずくまっている君を、俺はもう放っておけない」
恒輔に手を伸ばす。出会ったときに伸ばされた手を、ようやく伸ばし返すことができた。
だが恒輔は、その手を取ろうとしなかった。
「......オレらと離れた短時間の間に何があったか知らんけど、変わったな、怜」
祝う言葉、浮かんだ表情は――
その顔を見た怜が固まっている隙に、スッとその傍を通り抜ける恒輔。走り去っていく音だけが聞こえてくる。恒輔の後ろ姿を見つめていたニャー太が「追いかけないの?」と訊きたげに飼い主を見上げる。彼の飼い主は、いつまで経ってもそこから動けなかった。
危うい終わりからこんにちは、作者の融解犯です。
このたびは「忘れられたJ28、色とりどりの傷痕」の最新話をお読みいただき、ありがとうございます。今回はお知らせがあるため、こうしてあとがきに顔を出させていただきました。
単刀直入に言えば、週二投稿だったこの作品を、しばらくの間、またもとの週一(日曜)投稿に戻させてほしいのです。理由は、今私はリアルで多忙な時期を迎えており、執筆に割く時間がなかなか取れない状態になっているからです。二章の部分もまだ書いては消しての繰り返しであまり進んでおらず、このままだと間に合いそうにないです。
現実の多忙な時期は、おそらく長くて半年は続きそうです。なので、落ち着くまで来週からは日曜のみの投稿に戻したいと思います。多忙な時期が過ぎ、話のストックも溜まり次第、また週二投稿にします。ややこしくてすみません。ご理解のほどよろしくお願いします。(更新を止めるという考えは今のところありませんので、そこは安心してください)
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