24「裏切られた日」

 あの日が、地獄の日々の始まりだった。





「先生、さよーならー」

「また明日ねー」


 そんな声が外から聞こえ、林太郎はハアと忌々しげに溜め息を吐いた。


「何だってオレが、こんな呼び出しを受けなきゃいけねえんだ。『放課後、この階の奥にある空き教室で待ってます』って、どうこっぴどく振ってやろうか」

「おい、仮に告白だったとしても、相手を泣かせるような真似はするなよ。相手だってきっと、勇気を振り絞って林太郎の机の中にメモを入れたのだろうから」

「わかってるよ。ちょっとイライラして口が滑っただけ。そのときになったら、ちゃんと丁寧に断るよ」

「......断る、つもり、なんだ」

「当たり前だ。だって付き合ったら、おまえらと過ごす時間が減るじゃねえか。おまえだって、知らないやつにオレを取られたくないだろ?」


 自惚うぬぼれている。自分でもそう思うような発言だったか、それでも桜子は「......うん」と嬉しそうに目を細め、陽介も「やれやれ」と首を振りつつ笑っている。自分はこの二人のことが大好きで信頼していて、いつまでも一緒だと信じて疑っていない。そして相手も同じぐらいの想いを自分に返してくれる。そんな依存的とも呼べる関係が心地良かった。


「よし、さっさと終わらせて、今日は門限ギリギリまで遊ぶか」

「......施設の、門限、もっと、長く、してほしい。三人だけの、時間、もっと、ほしい」

「我儘言うなよ。先生だって俺たちのことを思ってくれているんだから。ほら、教室着いたぞ。ランドセル、持っといてやろうか?」

「あ、サンキュー」


 林太郎は陽介にランドセルを預けると、空き教室へ向かった。陽介と桜子は離れたところで待ってくれている。

 ノックもせず、ただ早く終わらせたい一心で中へ入る。教室内はガランとしていた。全体を見渡すも、誰かが隠れている様子もない。人の気配がしなかった。


「なあー、誰もいねえんだけどー」


 林太郎が外に向かって声を張れば、教室の後ろから二人が入ってきた。


「本当だ、誰もいないな」

「もしかして、騙されたか?」

「かもしれないな。まあ、それはそれで......桜子? 何やってるんだ?」

「......二人とも、ちょっと、来て」


 教卓の下でゴソゴソとしていた桜子に手招きされ、林太郎と陽介が顔を見合わせてからそちらへ向かう。桜子の背後から教卓の下を覗き込めば、そこにあったのは白い大きな袋だった。見る限り、詰め込まれているのは筆箱や鉛筆、消しゴムといったものばかりだった。


「何だこれ、誰かの物......にしては、数が多いな」

「うん......それで、これ......」


 どこか難しい表情のまま桜子が袋から取り出したのは、ウサギ型にデザインされたピンクの消しゴムだった。


「それは?」

「同じクラスの、みなみちゃんの、消しゴム。よく、貸して、もらってた、から、間違い、ない」

「......そういやあいつ、昨日お気に入りの消しゴムを失くしたって騒いでたな。というかうちのクラス、最近相次いで失くし物が......ちょっと待て」


 林太郎は慌てて袋の中に手を突っ込み、中を物色し始めた。


「これは、森田の筆箱......こっちは田辺の鉛筆じゃねえか」

「これ、たしか前島のものだったはず。どういうことだ。つまり、最近失くし物が増えていたのは失くしたんじゃなくて、誰かが盗んで――」

「あなたたち!! そこで何やってるの!!」


 突如第三者の大声が響き、三人揃って肩を跳ねさせた。驚いて振り向けば、入り口に仁王立ちで立っていたのは、吊り目でメガネをかけた中年の女教諭――針田はりただった。

 突然のことに固まってしまった三人の元へ、針田が大股で近づけば、両手を使って三人の手首をぐいっと掴み上げた。


「うあっ!」

「ああっ!」


 針田の手の中で自分と桜子の手首がせめぎ合い、痛みに悲鳴を上げる。針田は加減の知らない強さで三人を引っ張っていった。教室の外で待っていたのか、他の生徒たちが廊下を引きずられる自分たちを見てはやし立てた。


「わーるいんだーわるいんだー。物を盗む子悪人の子―!」

「おまえらがみんなの持ち物を盗んでいたんだろ? いけないことなんだぞー」

「まさか桜ちゃんが犯人だなんて思わなかった。もう今日から桜ちゃんは友達じゃないから、みんなに言いふらすから!」


 そこでようやく林太郎は今の状況を理解した。盗みの犯人が自分たちだと思われている、最悪の状況に。陽介も同じところに辿り着いたのだろう、痛みに顔を歪めながら声を上げた。


「針田先生、違うんです! 俺たちはたまたまあの場にいただけで、あれは俺たちが盗んだものじゃ――」

「いいえ、私は騙されません! あれを盗んだのはあなたたち!! あなたたちが盗んだものをあそこにしまうところを見たっていう子がいるのよ!!」


 針田は半ばヒステリック気味に喚き散らし、周囲にいた生徒はその剣幕を恐れて散っていった。

 林太郎は内心で舌打ちをした。針田と言えば、一度正しいと信じたら、相手が何を言っても聞く耳を持たないことで有名だ。そして差別的な人物でもあり、親のいない自分たちを軽蔑している節があった。よりよってそんなやつに見つかるなんてと歯ぎしりするが、状況は変わらない。


「これだから、親なしの子供はろくなのがいない!!」


 その暴言を皮切りに、職員室内で一時間立ちっぱなしの説教が始まった。途中で他の先生が止めてくれなければ、もっと続いていたかもしれない。その問題はまた明日から先生の方で調査を始めるということになり、三人は解放された。遊ぶはずの時間は完全に潰れ、桜子にいたっては最早半泣きの状態だった。


「......林太郎?」


 玄関から出たところで聞き覚えのある声が聞こえ、ハッとなって振り返った。目を丸くしてそこに立っていたのは、左目の下に泣き黒子を持つ猫目の少年、自分たちが信頼している相手。


京一郎きょういちろう......」

「今、解放されたとこ? 他のやつらから聞いたよ、盗んだものが隠されてる現場にいたって......」

「違う! たしかにその場にはいたけれど、オレたちは――」

「わーってるって。おまえらがそんなことをするようなやつじゃないって、オレよく知ってっから! オレはおまえらの味方だよ」


 二ッと屈託なく笑うその顔に、ひどく安心した。思えば、京一郎は自分たちが親のいない施設暮らしの子供だと知っても、最初から他の子と分け隔てなく接してくれた。自分たちを馬鹿にしてきたやつらから守ってくれたこともあった。味方がいる。その事実が不安で仕方のない心に安らぎをもたらせ、泣きそうになる。


「あーあー、桜子もひでえ顔じゃん。そんなに泣いたら美人が台無しだって」


 涙をぽろぽろ零す桜子の顔を、ハンカチで拭いてやる京一郎。その表情は慈愛に満ちていて、普段は信じていない神だが、このときばかりは彼を友達にしてくれたことに心底感謝した。


「そうだ、おまえらが盗んだものを見つけたときの状況、詳しく聞かせてくれ。要は他に犯人を見つければいいんだろ? 犯人捜ししようぜ」

「え、でも、そんな簡単に見つかるか......? それに、今日はもう門限が......」

「心配すんなって、陽介! オレがぜってー犯人を見つけてやるから! 門限に関してもオレが良い言い訳考えとくし、一緒に施設の先生に言いに行ってやっから!」


 「とりあえず、目立たない場所に移動しよう」と手を引っ張られる。針田とは違う、優しく自分たちを導いてくれる手。その手に林太郎は身を委ねた。大変なことになったけど、自分たちには信じられる仲間がいる。もう、怖くない。

 絶対に、犯人を捕まえて無実だということを針田に突きつけてやる。大丈夫だ、信じてくれるやつがいる限り、絶対に諦めない。林太郎は決意を固め、先への希望だけを見据えた、希望しか、見ていなかった。



 だから校舎裏に連れていかれ、急に腹に蹴りが飛んできたときは、何が起こったのか理解できなかった。



 腹を押さえてうずくまる林太郎に、陽介と桜子が名を呼びながら駆け寄る。どうにか顔を上げて、目の前の光景を見た。

 自分たちを逃がすまいと取り囲む、十人は超える同級生たち。その中には同じ施設の仲間もいた。その包囲網の少し後ろで、悠々と立ってこちらを見下ろしている、京一郎。猫目が細められ、口元は残酷な笑みをかたどっている。どう見ても、この光景を見て愉しんでいた。


「きょ、いち、ろ......なん、で......ぐっ!」

「ごめん、気安く名前で呼ばないでもらえる? 自分の立場、わかってるよね?」


 集団が開けた道を通ってきた京一郎に頭を足で踏みつけられ、土が口の中に入る。口と地面の隙間から吐き出そうと必死になっているところに、京一郎の靴底がさらに林太郎の顔を地面に押しつける。


「そういえば進級のたびに行われるテスト、あれっておまえが学年一位だったよな? 良かったじゃん、このオレを差し置いて・・・・・・・・・・一位だなんて。おめでとう、で、どんな手を使ったんだ?」


 前髪を鷲掴みされ、無理矢理上を向かされる。獲物を甚振ろうと光るギラギラした瞳が、こちらを捉えていた。


「オレは家で専属の家庭教師をつけて勉強した。結構手厳しい人でさー、オレも必死に努力して食らいついていたわけよ。けどさ、おまえはなんで? ――だって、教えてくれる親なんていないでしょ?」


 燃えカス同然の黒い部分が残っていた頭が、今度こそ真っ白に吹き飛んだ。いっそ二重人格じゃないかと思えるほど、それは今までの京一郎とはあまりにもかけ離れていた。

 あまりの物言いに、ついに陽介が激昂した。


「親がいないから何だ!! 林太郎は一人でここまで頑張ったんだ!! 何を勝手、にッ......!?」

「陽介ッ!!」


 近くにいた男子が陽介の脇腹を蹴り飛ばす。恐怖に震える手で桜子が倒れた陽介を抱き起こし、蹴り飛ばした人物を見てを目を見開いた。彼は同い年で仲の良かった施設の仲間だった。


「どう、してッ......」

「......恨むなら林太郎を恨めよ。林太郎ごときが京一郎くんより良い点を取るから、盗みの犯人としてはめられるんだよ」


 気まずい表情で告げられた衝撃の事実に、三人とも愕然とするほかなかった。「あ、おい!」と京一郎が口を尖らせる。


「それは、オレの口からバラしてこそ一番効果があるんだよ! 美味しいとこ奪うなって!」

「......ごめん」

「あーあ......ま、そういうわけ。これ、オレとこいつらで仕組んだ茶番なんだよ。ご丁寧に、あのババアが大声でおまえらのことを広めてくれたから、根回しは楽だったよ。明日からおまえらに泥棒のレッテルが貼られるから。他のやつらも無力なおまえらよりオレの方を信じてるから、残念、おまえらは今日から孤立しまーす。けど大丈夫! オレたちはこれからも一緒にいてやるから!」


 「毎日構ってもらえば、親も友達もいなくても寂しくないでしょ?」と、京一郎は人好きのする笑みで、悪魔の言葉を吐いた。

 地獄だと思った。親がいないことで馬鹿にされがちだったから、林太郎は勉強で優位に立ってやろうと頑張った。なのに、その努力の果てがこんなことだなんて、あんまりじゃないか。大切な存在まで一緒に突き落として、こんなのって。じわじわと、林太郎の目に涙が溜まっていった。


「あれ? 林太郎のやつ、泣いてんのかぁー?」

「えー、男の子なのにダッサー! 泣き虫なんだー!」


 嘲笑いが何重にも重なり、ぐわんぐわんと脳を揺らす。施設の仲間は合わせて無理矢理笑っているようだが、どのみち手を差し伸べてくれるやつはいなかった。


「さて、と。で、ちゃんと施設の先公への言い訳は考えてるんだよね?」

「うん。『喧嘩に巻き込まれた三人を介抱していたら、遅くなった』。これでどう?」

「まあ、いいんじゃね? じゃあ、場所移動しようか!」


 言葉の意味を理解するより先に、陽介と桜子が他の生徒によって羽交い絞めにされた。


「いやッ......!」

「おい、離せッ!」

「陽介ッ!! 桜子ッ!!」


 二人を助けようともがくが、京一郎に髪を掴まれているままのせいで動けなかった。京一郎が顔を近づけ、林太郎の耳元で囁いた。


「いいお仲間だよねえ。いつ見ても三人でくっついてて、オレにとってはそれが余計に惨めで哀れに見えて、だからますます追い詰めたくなるんだよ。ところで、おまえが動けない状況で目の前で二人を甚振ったら、おまえ、どんな顔すっかな?」


 サアッと血の気が引く。悪魔だなんて生ぬるい例えをした自分が馬鹿に思えた。


「なんッ......やめッ、頼むから、頼むからあの二人だけは!! オレは何してもいいからッ!!」

「おーおー、美しい友情だねえ。けど、やめてって懇願されるものほどやりたくなるときってない?」


 何を言っても届かない。そのことが嫌でも理解でき、林太郎は光を失った目で涙を流すだけの人形になった。他の仲間に無理矢理立たされ、陽介と桜子とともに引きずられていく。


 ――助けて、誰でもいいから助けて、助けて助けて助けて、助けてください、助けてくれよ、なあ誰かッ!!!!


 必死に願った。何度も何度も、思い浮かぶ限りの相手に助けを請うた。

 ついぞ誰も、三人を助けるために現れなかった。


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