23「虹色の記憶」

 さて、彼らにはあずかり知らぬ話ではあるが、先ほど出くわしたのは四階へ向かったBグループだった。四階へ探しに来たのはいいものの、結局誰も見つからず、下へ降りようとした矢先に一行と出くわした。まさにBグループにとってはラッキーな話だった。

 さらに運が良いのは、あのまま四階にいてもある人物と出くわしてはいたのだが、どのみち無意味だったことだ。何せ四階に現れたのは、彼らにとって唯一用無しとされていた人物なのだから。


「......誰にも見つからなくてよかったね」

「ニャーオ」


 ニャー太との会話を交えつつ怜は改めて周囲を確認し、素早く美術室の中へ入り込んだ。自分たちが探索したときと変わっていない、木材と絵の具の匂いが混ざった独特の空間のままだった。


「俺はたしか、こっちの方を探した。だから、こっち側はちゃんと見たつもり。俺が見ていないのは......」


 奥へ目を向ける。開かれたドアは、準備室へ誘っていた。

 迷うことなく怜はそちらへ歩む。覗き込むと、中はこちらと違って圧倒的に狭かったが、棚のデッサン集や配色の本はきちんと整理されていて、奥の机にも余計なものは一切置かれていない、清潔な空間だった。さぞかし調べやすかったことだろうが、それでも何も見つからなかったという。


「そもそも準備室ってことは、絵とかはあまり置くことないよね。他の画材も、基本こっちで固めて置いてあるみたいだし......ニャー太?」


 肩の上にいるのが飽きたのか、ニャー太は自ら飛び降りて床の匂いを嗅ぎ始めた。猫は慣れない場所ではストレスを感じやすいと、林太郎から教えてもらったことがあるのだが、どうやらニャー太はかなり図太い方らしい。「宮重正二郎に似たのかな」と怜は考える。自分自身に似た可能性は全く考えていなかった。


「......あれ」


 そんなニャー太を目で追っていると、たまたま目についたものがあった。

 棚の下、ほんのわずかに下から白い端っこが顔を覗かせている。ゴミだろうか。ただ何となく気になったので、その端っこを掴んで引っ張れば、するりと一枚の紙が出てきた。もしやと思って裏返したが、残念ながら目当ての絵ではなかった。


「改修工事のお知らせ......?」


 ニャー太を抱き上げてから、何となしににその文章に目を通した。日付を確認したが、そこは住所と同じように消されていた。事務的に記された文章には、工事の旨が説明されていた。


「一部の改修......音楽室を作るために、美術室を......移動。もともと四階の南側が美術室だったところを北側へ、そこに音楽室を......。つまり、音楽室は旧美術室」


 「へえ」と怜はこぼした。





 この教室と対になる形で別の教室があるのは、最初に来たときに確認していた。何の部屋かまでは知らなかったが、関係ないとばかり思っていた。

 ガラッと開いた中の様は典型的な音楽室だった。黒板前に置かれたピアノが飾られた肖像画に取り囲まれている。ちょうど一クラス分の椅子が中心に並べられていた。明日も、誰かがここに来るかのように。

 目当ての部屋はその教室の奥にあった。教えてもらわなければ見向きもされないような、ひとりぼっちの扉。その小さな扉へまっすぐ歩く。

 ドアノブに触れれば、チリチリと肌が総毛立つ。逃げ出そうとするニャー太を宥め、呼吸一つ。


「――ハッ」


 吐き出すのに合わせ、思い切ってその扉を開けた。

 それは、たしかに最初の欠片を見つけたときと似ていた。誰かに見られている切り離された世界。そこだけはまだ美術準備室で、奥行きはあるが広くはない部屋の中には、石膏やキャンバスが並べられており、床には絵の具や彫刻刀が散らばっていた。

 その奥、日差しが照らす大きな机の上に、積み重ねられた絵や放置された絵の具セットが無造作に置かれていた。


「……あった」


 怜は静かにその机に近づいた。積み重ねられた絵はどうやら随分豊富にあるようで、目も眩みそうになる色彩はひどく鮮烈で目新しかった。その中の一番上に置かれたハガキサイズの絵。つい先ほど見た、海を見下ろす空と同じだった。

 ツと、指先で短く青を撫で、描いた人物に思いを馳せる。きっと、自分と真逆の人だったのだろう。喜びと悲しみを等しく持ち合わせていて、それを色で素直に描き出せる人。力強く描きながらも、優しさを忘れない筆の跡。

 そんな感想を抱いて絵を手に取ると、ふとその絵の下に、ピタリともう一枚の紙が引っついていることに気がついた。どうやら二枚重ねでのり付けされているらしい。はみ出た端っこを掴み、破れてしまわないよう丁寧に剥がしていく。


「あと少し……うん、これで剥がれ――」


 剥がした紙の隠れていた面を見て怜は瞠目した。


『うえにいるのはかみなりぐも』


 あちこちに飛散した跡を残して、その文は赤色で殴り描かれていた。誰かを切りつけて飛び散ったのだと言われても疑わないほど、その色は――

 怜はその紙と絵を手放す。その二枚が落ち始めるより先に、怜は瞬時にその場を飛び退いた。刹那、怜の立っていた場所にズンッと音が沈む。地面が揺れる中、体勢を整え、キュルッと瞳孔を細くして警戒心を高める。

 上から降ってきたバグ霊は蜘蛛の形をしていた。成人男性を軽々と押し倒せてしまえる大きさの、どう見ても八本以上はある脚を持つ蜘蛛。開いた口の中に見える牙はその隙間から青い液体を流し、垂れた箇所の床が、煙と酸性の強い臭いを上げながら溶け落ちた。

 ググッと蜘蛛が体を後ろへ伸ばしたかと思うと、その巨体に合わない瞬発力を発揮して怜に迫った。怜はニャー太をしっかりと抱え、蜘蛛を飛び越える形でかわす。

 蜘蛛はまっすぐ突進してぶつかり、ドアをへこませたが、怯む様子はなかった。クルリと体の向きを変え、カチカチと牙を鳴らしたかと思うと、勢い良く青い液体を吐き出した。咄嗟に近くにあったキャンバスを掴み、盾にする。液体のぶつかった箇所が溶け、穴が開く。隙間から見えた蜘蛛は歯を鳴らして威嚇していた。


「こういうの、恒輔くんなら対処法とかわかったかな」


 恒輔から散々聞かされたゲームのモンスターについて思い出し、冷静にぼやく。だが、いつまでもこの状態では埒が明かない。怜は勝負に出ることにした。

 ゆっくりと、蜘蛛を刺激しないようニャー太を傍に下ろし、足元に落ちていたそれを、緩慢な動作で手に取る――勝負の一瞬。


「ふッ!」


 突進してきた蜘蛛の眉間に、手にしたパレットナイフを振り下ろした。醜く甲高い断末魔がつんざき、鼓膜が破れそうになる。急所を刺された蜘蛛の体はドロドロに溶け、黒い液体に変わっていく。

 黒い液体の中心から現れたのは、青い紐が巻かれた小瓶だった。怜はそれを手に取り、近くの画用紙で適当に拭ってからポケットにしまうと、液体を凪いだ目で見下ろした。


「やっぱり、何も話ができなかった」


 最初のバグ霊と話ができたのは、偶然だったらしい。もうこれ以上は欠片のバグ霊と対話を試みるのは無駄だろう。そもそも――話して一体、何になるのか。

 急に目が覚めた怜は、この場を去ろうと足元のニャー太に手を伸ばした。しかしニャー太はパッと顔を上げたかと思うと、怜の手から離れて机の上に飛び乗った。作品群を踏んで悠々とその匂いを嗅ぎ始めた猫に、飼い主は息を吐いた。


「ダメだよ、ニャー太。それは踏んじゃダメ」


 ニャー太を机から降ろし、絵が汚れていないか確認しようとして、はたと手を止めた。

 一番上の空と雲の絵にしか目に入っていなかったが、全体的に見て気づいたことがある。様々なサイズが並ぶ絵の隙間は同じ模様で繋がっている。一番下に、大きな画用紙に描かれた絵があった。

 怜は重ねられていた絵を一枚手に取ると、それから他の絵を一枚ずつ集めていった。妙に逸る気持ちを抑えつつ、一枚一枚丁寧に回収していく。最後の一枚を手に取り、その絵の全貌を明らかにする。


「............これ、は」


 それ以上、声が出なかった。知らないうちに息が止まっている。ああ、これが――心臓が止まる思い、ということか。

 一体、何種類の色を使っているのだろうか。はっきりわかる色もあるが、その倍は名前のわからない色がある。

 浅瀬の海の青色、スプーンの銀色に反射した蜂蜜の黄色、立ち込める霧の先に見える葉の緑色、提灯に照らされたりんご飴の赤色、少し色褪せ始めた紫陽花のピンクと紫色。

 見た記憶なんてないくせに、そんな景色が頭の中を通り過ぎてはカラフルに爆ぜていく。自分の中の真っ白だったキャンバスを、あっという間に埋め尽くしていく。これは――そう、初めてあの空色と出会ったときとよく似ていた。

 綺麗、眩しい、叫びたがっている、声にならない言葉を、心が、何かに縋りつきたい衝動が止まらない――危険。

 怜は認識していく色の数に比例して、自身の体がどんどん重くなっていくことに危機感を覚え始めていた。引き離そうと一歩、よろめきながら距離を取る。


 ――ダメだ。


 白を埋めていく色より先に、その思考を上塗りさせる。


 ――ダメだ、ダメなんだ。俺が感情なんか持ったら、何もできなくなる。それでみんなの心が理解できなくなっても、俺が弱くなったら誰がみんなを守るんだ!



『守る必要なんてないんだよ、怜』



 全てを覆す一言が、ようやく怜の耳に届いた。

 振り返った怜は、いつのまにか大勢の人間に囲まれていた。輪郭のはっきりしない、黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗り潰されたような不気味な姿が、十二人。表情はわからないのに、不思議と敵意がないことは理解できて......それどころか、彼らがみんな笑っているようにも思えた。


『怜、僕たちは君に守ってもらいたいんじゃなくて、同じラインに立ってほしいんだ。君はいつも前へ行って怖いものを倒してくれて、後ろに回って僕たちを見守ってくれている。でも僕たちはそんなことよりも、君が隣にいてくれることを望むよ。君は端っこを選んで、いつのまにかどこかへ行ってしまいそうだから、ちゃんと間に入れてね』


 目の前の少女がそう言えば、「違いない」と周囲が同調の笑い声で包まれる。怜は呆然とその光景を眺めていた。

 これは、デジャヴだ。これに似た空間を、自分は一度体験している。あの日、怪物である自分を改めて受け入れてくれた仲間が作り上げたものが、ちょうどこんな空間だった。


「『どうして』」


 発したのは過去か、今か。


「『どうして、そこまで俺を受け入れてくれるの。わからない。感情を教えようとしたり、曖昧な存在である俺に居場所を与えようとしてくれる君たちの心が、俺にはどうしても。知りたくないと言えば嘘になる。でも知ることは感情を知ることと同じで、そうすれば、俺は......』」

『それは違うよ、怜。感情を手に入れたからといって、人は弱くならない』


 初めて迷いに揺れる怜を導いたのは、先ほどの少女とは違う少年の声だった。どういう意味か問うより先に、声が響き合う。


『たしかに俺たちは苦しい思いをしてきた。それは感情があるせいだと言えた』

『私たちは完全に弱っていたわね。でも、決してそのままじゃなかったのよ』

『そのときは弱くても、それを誰かと共有して、一緒に乗り越えることで一歩強くなれる。そのことに私たちは気づいたのです』

『だから私たちは、過去を笑い飛ばすことができるようになった。モノクロでしかなかった世界が色づいて見えるようになったんだ。大したものだろう?』

『てかさ、レイ、何かカンチガイしてなーい? 感情があるから弱いんじゃなくて、まだ乗りこえられてないから弱いままなんだよ』

『それに......そうだな、感情があるからこそ、今のオレたちは生きているとも言えるな』

『感情があるからこそ誰かを理解することができて、救うこともできるし救われることもできる。あたしはそう考えているわ』

『いやな気持ちも、終わってしまうとなんてことない。いやな気持ちは、うーたちが強くなるために大切なもの。それはきっと、ゆーにとってもそう』

『......怖い気持ちはわかる。おまえが挫けそうになったら、俺たちがおまえを支えてやるよ』

『だから、感情、少しずつ手に入れてみよう。そして一緒に並び立とうぜ!』

『怜は怪物なんかじゃない。ただの不器用な人間だよ』


 幾多の声が怜の心に落ちていく。優しい筆先で、色が塗り広げられていく。


 ――ああ、そうか。


 ようやくわかった、本当の強さ。その強さこそが誰かの心を救える、居場所になれる。俺は、そんな人間になってみんなの居場所になりたい。それが願いなんだ。


『よし、じゃあ、続きをしよっか!』


 少女が号令をかければ、彼らはいそいそと集まって口々に言い出す。


『喜びは陽の光の色かな。夕方を見ていると、ああ明日が来ようとしているんだなって嬉しく思うよ』

『でも夕方は一日の終わりだぜー。俺はあの紫色を見ていると不満を感じる』

『ねえ、希望って何色かな?』

『希望ねえ。明るい色のイメージが強いかしら。あたし、郷愁の色が気になるわ。あれは何色かしら』

「郷愁は、過ぎ去った夏の果てに見える空の色だよ」


 怜は、そう呟いて――夢から覚めた。

 そこはさっきと変わらない美術室の光景で、怜はいつのまにか床に座り込んでいた。「ニャオン」と鳴いたニャー太の声が反響することなく空間に消える。ポケットには小さな重み。何も変わっていない。目に見えるものは、何も。

 怜は立ち上がり、改めて机の上の絵を見た。いろんな色を押し付けたような描き方だ。もしかしたらティッシュに色をつけて叩いたのかもしれない。色の数はゆうに三十を超えるくらい、たくさん使われている。

 それらが形成していたものは――人間だった。人間の輪郭の中に数多の色が詰め込まれている。色が意味しているのは、きっと......。

 怜は窓の外を見た。昼の空は太陽の光で霞んでいる。果てに見える色なんて、ほぼ白色も同然だ。あれが、郷愁の感情なのだ。


「......俺は」


 胸元に手を持っていき、ぎゅっと握り締める。心の中に渦巻く色は、空色。


「本当に、強く、なりたい」


 願いを、胸に。

 怜はニャー太を抱き上げると、教室を飛び出していった。走り去る怜の背中を、色で溢れた空間だけが見送った。





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