22「逃走」

 殺す。その言葉に全員の体に緊張が走る。

 先頭の男が隣にいた鼻ピアスをつけた男に顎で合図すると、指示された彼が手にした包丁を突き出す。切っ先を向けた相手は恒輔だった。


「死ねオルァ!!」


 目の前に迫った包丁を恒輔はしゃがむことで回避した。避けられるとは思わなかったのか「あいええ!?」と鼻ピアスは素っ頓狂な声を上げ、見事恒輔の身体に躓いた。その隙を逃さず梓がそのフードと二の腕を掴み、「オラア!!」と気合いの声とともに力任せに集団に投げ返せば、何人かが巻き添えを食らって倒れこんだ。


「てっめえ!! よくもッ......」

「ニャァン」

「ほえ?」


 金属バットを構えた別の男は、足元から聞こえた癒しの声に目を向ける。下からこちらを見上げる愛くるしい金色の瞳と目が合った。


「あっら~かわいい子だねえ! あれ? でもこの猫ちゃんって......」

「そう、俺の猫だよ」


 男の顎が蹴り飛ばされ、華麗なイナバウワーを決めた。倒れた男には目もくれず、怜は通路側にいた何人かを瞬殺した。


「今のうちに逃げて」


 声を張り上げれば恒輔たちは間隙を縫って活路へ飛び込み、近くの階段から下へ向かった。最後尾にニャー太を拾った怜が続く。


「おい、何あっさり逃がしてんだ!! 追え、追えーッ!!」


 茶髪ピアスの命令に、連中は口々に何かを叫びながら怜たちを追ってきた。

 一行は一気に階段を駆け下り、一階に辿り着くと全速力で正面玄関へと向かった。


「くそっ! 何がどうなってんだよ!!」

「よくわかりませんけど足止めたら殺されますよ!! 絶対!!」

「あんたら呑気に会話してる場合じゃないでしょ!! とにかくさっさと外に出て――」


 林太郎の言葉が途切れる。玄関から外へ飛び出した一行は、門を目の前にして足を止めた。


「あれー、どうしましたー? お外は目の前ですよー?」

「出れるかどうかは別としてなぁ!」


 入ってきた門に別の集団が立ち塞がり、こちらを嘲笑っていた。彼らの手にも凶器がある。


「裏門にッ......」

「多分、同じ......! どう、しよう、出られない......!!」


 咄嗟に向かおうとした梓を桜子が服を掴んで止める。その顔は青ざめていた。背後から怒声が聞こえる。後衛が追いついてきたのだ。

 怜は門へ顔を戻す。門番も最低でも十人はいる。一人一人倒しているうちに背後の連中にやられてしまう。

 初めて足が迷ったそのとき、恒輔が声を上げた。


「オレと怜と陽介くん、空さんと桜子ちゃん、梓くんと林太郎くんに分かれて!」

「え、待ってなんで」

「いいから言うとおりにせえや!! ......生き残りたいんなら逃げた後、音出すなや」


 恒輔は小声で空と梓にそう告げた後、怜と陽介の手を掴んで逃げた。向かった先は体育館だった。


「おい体育館行ったぞ!! 早く行け!!」

「駐輪場の方へ男と女!! 女ならすぐに捕まえってえええええはっや!!!」

「おい、背の低い方のメガネと金髪の女は!?」

「え、あれ!? いねえ、見逃した!!」

「バカヤローーッ!!」


 怒号を背後に、恒輔に引っ張られるまま体育館に逃げ込んだ三人だが、連中はまだ追ってきていた。二階へ上がり、体育館と校舎を繋ぐ通路を渡ったが、その校舎の入り口で怜は足を止めた。


「二人とも、先に行って。俺が足止めする」

「はあ!? 何言ってんねん、怜!!」

「怜さんが残るなら俺も残ります!! あの人数は一人では無茶だ!!」

「大丈夫だから」


 怜はドアを大きく開けると二人を無理矢理中へ突き飛ばし、素早く閉めて鍵をかけた。


「こっちから鍵のかけられるドアでよかったよ」

「怜......!!」


 恒輔が扉に張りつくが、怜は無視してニャー太をその場に降ろし、前を向いた。

 目の前に連中が迫る。一歩踏み出して一人を殴り飛ばし、足元を狙って振り回されたバットをかわすと塀の縁に着地して真上から飛びかかる。倒れても倒れても連中は襲ってくるが、怜は表情を変えぬまま迎え撃った。


 ――だって、これが俺だ。記憶も感情もない俺の存在価値を示せるのがこれだ、これしか、ない。


 再びナイフの男が襲いかかってくるのが見え、咄嗟に腰を低くして拳を握った。だがその拳が唸ることはなかった。


「おい待て、待てッ!! おまえら落ち着け!!」


 互いの動きが止まる。見れば、体育館の方から別の集団が顔を出してきていた。一体何人いるのだとさすがの怜も辟易する思いだったが、よく見ればその集団は門番を務めていた彼らだった。


「おまえら、何持ち場を離れてるんだよ!! さっさと......」

「おまえらがそいつを襲ってるのが見えたからだよ!! 忘れたのか!? 取り決め・・・・があっただろ!!」


 その一言に連中が「あっ」という表情を見せる。全員がチラリと怜を見た後、また門番たちの方を向く。


「......やばいかな?」

「大した傷つけられてねえみたいだし、まだセーフじゃねえの?」

「......よし! 残りのやつらを追うぞ! 総員、戻れー!!」


 一人が駆け出すと、残りも謎の雄叫びを上げながら体育館の方へ戻る。

 怜はその場に一人残され、ぱちりと瞬き一つ、背後を振り返る。ドアの先には誰もいない。どうやら恒輔たちは逃げてくれたようだ。

 「ニャゥーン」とニャー太が足元にすり寄ってくる。それを抱き上げ、怜はしばらく留まった後、無言でその場を去っていった。





『愛を込めて、Aグループより。誰か仕留めたか?』

『愛は別にいらないBグループより。ダメだ、逃げられた。あのでけえ野郎と女、マジで足はええよ』

『Cグループ、こっちはもう手遅れだった。どこに逃げたのかもわからねえ』

『Dも逃げられた。てか逃がされた。あの猫野郎に足止めされた』

『様をつけろよ猫は至高だろが』

『うるせえ。なあ、ほんとにあいつに手出しちゃいけねえのか? あいつが一番やばいだろ』

『おいよせ、あいつには手を出すなっていう約束だっただろ。それにこの奇襲はあくまで顔の確認、あわよくば仕留めるだけってボス・・も言ってただろ』

『ああそうだ。とにかく今はあの六人を見つけ出すぞ。特徴は目の細い関西弁、背の高いガキ、目つきの悪い男、ポニテの女、背の低いメガネ、あとは金髪の女か男かわかんねえやつ! 必ず見つけて、目的を果たすぞ!』


 ここでBグループの面々はスマホから顔を上げた。


「結局女か男かどっちなんだ?」

「まあ、捕まえたときに触ってみりゃわかるだろ。野郎なら触って損するだろうがな」

「とにかく四階行ってみるか? あいつら何か探していたみたいだし、また戻ってるかも」


 その意見でBグループはまとまり、上へ向かうべくその場を去っていった。

 その数十秒後、彼らがいた背後の教室がスーと音を立てずに開かれ、中からひょっこりと「女か男かわかんねえやつ」が顔を出した。


「......誰も見当たりませんね。今のうちに行きましょう」


 梓が外に出れば、後から空たち五人が続いて出た。


「......何とかなりましたね」

「全くだな。恒輔が咄嗟にケータイ持ちと持ってないやつと組ませたおかげだな」

「音出すなってのも、メッセージの受信音で相手に気づかれないようにするためなんですよね? もーー、ちゃんと言ってくれないとわかりませんよ! 林太郎が一緒だったから何とかなりましたけど!」

「音出すなっていう指示と組まれた面子で考えたらわかるでしょ。持ち物で音が出そうなのってケータイぐらいですし」

「とりあえずは難を逃れたみたいでよかったで。けど……」


 恒輔は逃げてきた階段の上を心配そうに見やる。その肩を空がポンと叩いた。


「今から探しに行くぞ。ここからどうやって出るかは、合流した後に話し合えばいい。大丈夫だ、あいつはありえねえほど強いんだから」

「……そう、ですね。怜ならきっと、飄々とどこかへ逃げとるはずですわ」

「よし、とにかく固まって周りを警戒しながら移動するぞ。目的は怜の捜索。それでいいな?」


 異論がなかったため、六人は怜の捜索へと乗り出した。六人は互いに密集し、とにかく慎重に行動した。前後左右を確認し、窓の外も警戒して素早く移動する。

 まずは怜とはぐれた体育館へ続く渡り廊下を確認したが、そこにはすでに誰もいなかった。


「まあ、ずっとここに留まっているとは思っちゃいねえが......どうする? 他に当てはあるか?」


 恒輔は空の問いに答える前に扉に近づき、ドアノブを捻る。鍵は開いていた。


 ――てことは、怜はこっちから出て移動したことになる。こっちの方が逃げ道も多いからそれは当然やとして、怜は多分、隠れようとは考えへん気がする。チンピラでもバグ霊でも、遭遇したって切り抜けられると考えて......。


 ふと最初の欠片を手に入れたときのことを思い出した。怜の名を呼んだバグ霊、「話をさせて」と珍しく必死になっていた怜。

 くるりと振り返り、笑みを浮かべて空たちに提案した。


「もう一度、美術室に行ってみるとかどうですやろか? そこしか思いつきませんわあ」

「ああ、たしかに美術室なら欠片を探しに行ってそうですよね! それに、こうして閉じ込められてしまったわけですし、余裕があるなら、もう一度欠片を探してみましょうよ!」

「可能性はあるな。じゃあ、もう一度そこへ向かうか。それで見つからなかったらそのときはしらみつぶしだ。よし、美術室へ向かうぞ」


 六人は再び固まった。先頭は梓、最後尾に空がつく。


「林太郎、おまえはここじゃなくて前へ行け。桜子、俺と林太郎の間に入れ」


 陽介は後ろに回ろうとする林太郎の肩を掴んだが、林太郎はそんな陽介の手を払いのけて無言のまま前へ行った。陽介は何か言いたげに林太郎の背を見つめるが、溜息を吐くだけに留まった。


「陽介......」

「......ああ、大丈夫だ。心配かけて悪い」


 陽介はそう言って微笑むが、桜子は苦い表情のままだった。その様子を見ていた梓は口を開きかけたが、途中で思いとどまったのか、ぐっと唇を引き締めて堪えていた。

 一行は教室前を通り、上へと続く階段へ差しかかる。なかなか進むのに時間がかかるが、急いては事を仕損じる。下手して敵に遭遇しないためにも、慎重になるしかなかった。

 昨日は桜子が襲われて、バグ霊と会話どころではなかった。そして、怜自身もあのバグ霊のことを気にしている様子はなかった。もしかしたら、一人になったことで閃いてしまったかもしれない。恒輔は怜のことが気がかりだった。知らず、苦々しげに眉を寄せる。


 ――怜は一昨日のバグ霊と出会ったときから変な感情が絡みつくようになったって言っとった。その感情が何なのかは知らんけど、それで怜に苦しい思いはしてほしくない。


 乾いた自嘲の笑みがこぼれた。

 何だ、最初にした取引と違えているじゃないか。感情を取り戻させるということはすなわち、苦しみを教えることと同義じゃないか。それなのに苦しい思いをしてほしくないとは、契約違反じゃないか。

 そうやって、声に出さずにひとしきり笑って――ふっと、笑みを消す。


 ――ああ、そうや。確かに契約違反やわ。......それでええ・・・・・。感情を取り戻さず、それで怜が苦しい思いをせずに済むんなら。恩人の、あの澄んだ瞳が曇るぐらいなら!


「あいつ、何かに似ているなと思ったんだけど、あれだ、赤ん坊みたいなんだよな」


 背後から声がして、我に返った恒輔が振り返る。目の前に空の顔があって、その口が「怜のことだぞ」と発した。


「怜が、赤ん坊......?」

「似ているってだけだ。だってあいつ、感情が少ない割には、不快なときは割とわかりやすく顔に出るじゃねえか。なんつーか、そういうところがぽいって思ったんだよ。記憶がないところも含めて。あいつは生まれ立てで記憶も感情もまっさらな、デカいガキなんだよ」


 空の説明になるほどと感じた。今でこそほんの少し感情の増えた怜だが、出会った当初は何もなかった。感情も記憶も名前も知らなくて、ただ事実を享受できる達観ぶりはすでに持ち合わせていて。それはきっと、記憶を失う前から根づいているものだったのだろう。


 ――怜は、今まで何を見て、何を感じてきたのか。


 「それは興味あるな」と呟いたそのとき、「あてっ!」と先頭から声が聞こえた。その声に恒輔と空はそちらに目をやり、ピシリと固まった。


「いってて! もー何なんだよ!」

「おい......」

「行き止まりか? まだ最上階じゃねえはずだぞ」

「あの......」

「何にしろ腹立つな! こっちもあまりちんたらしてられないんだよ!」

「工藤、さん......! 上、見て......!」

「上? 何の――あ」


 顔を上げた梓は、こちらを見下ろすチンピラと目が合った。その背後には、何人かのチンピラが続いている。


「あ、あっはははは、あのー......お願い、見逃して......?」


 梓は、このときばかりは自分の容姿をフル活用した。胸の前で手を組み、肩を縮こまらせて上目遣いで相手の顔を窺う。

 長い睫毛を震わせてわずかに瞳を潤ませる梓を、先頭のチンピラはじっと見つめ、やがて仲間の方を振り返った。


「見逃したいんだが?」

「無理に決まってンだろが捕まえるんだよッ!!」

「あ゛ーーやっぱり無理だった!!」

「むしろなんで一瞬いけそうになったんだよさっさと逃げるぞ!!」


 恒輔たちは一目散に階段を駆け下り、チンピラたちは彼らを追った。

 逃走劇第二弾の火蓋が切られた。


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