19「俺がみんなの居場所になるよ」

 梓の様子はなぜ今まで気づかなかったのかわからないぐらい豹変していた。顔色が青を通り越して白くなるほど悪くなっている。尋常じゃない量の汗も流れ落ち、呼吸は静かだがリズムが早く、かすかにヒューヒューと掠れた音も聞こえる。目は極限まで開ききっており、瞬きしている様子が一切見受けられない。......あまりにも異常な怯え具合だった。


「......梓? おい梓! しっかりしろ、梓!」


 空の怒号がまっすぐ梓に向かって飛んだ。空自身も必死になっているせいか空気を激しく震わせるほどの覇気があり、梓とともに正面から受けた夏鈴は気圧されて手元が狂ってしまった。


「う、わッ......!」


 ブレた手は――赤い線を描いた。梓の呼吸が止まる。どこにも焦点の合っていなかった眼球が、下へ下へと下がっていく。

 気づいてしまった、その首元に真っ赤な線ができていることに。膨れて垂れ落ちていく赤が血であることに、その線から痛みを感じることに。


 ――怜たちにはあずかり知らぬ話だが、それは梓が何よりも恐れていた「怪我」に他ならなかった。


「うああああああああああッ!!」


 半狂乱になった梓は絶叫し、夏鈴の腕を掴んで力任せに放り投げた。怪力は小さな身体を簡単に投げ飛ばしてしまい、――階段へ。


「あっ――」


 呆然とした夏鈴の顔を先頭に、身体が地へ。だがその身体を前のめりになりながら受け止めた者がいた。


「郷っ......」

「チッ......!」


 しかし不安定な足場で不安定な体勢のまま受け止めた郷も踊り場へ転がり落ちようとしていた。郷は咄嗟に夏鈴を抱え込み、衝撃に備えて目を瞑る――その体が強い力で後ろに引っ張られた。

 そして、怜と郷の位置が入れ替わった。


「君、重いよ」


 少しだけ不満げに告げてから、怜は遠慮なく階段を転げ落ちた。段差のたびにいろんな箇所を打ちつけてやや痛い思いをしたが、それも一瞬だった。踊り場に背中を叩きつけ、そのままごろんと仰向けに寝そべる。これで記憶が飛ぶ羽目にならなくてよかったというのが最初に思い浮かんだ感想だった。


「......怜、怜ッ!!」


 ドタドタと足音が聞こえたかと思えば視界に焦った様子の恒輔の顔と、ひょこっと覗き込んできたニャー太の金目と、珍しいことに林太郎と陽介の顔も飛び込んできた。


「怜、大丈夫か!? てか生きとるか!? 自分っ、死に顔まで生前と同じとか冗談やろ!?」

「宇佐美さん、落ち着いてください。雨宮さん生きてます。いつもどおりすぎるぐらいいつもどおりです」


 どうやら恒輔にとんでもない誤解をされているらしい。起き上がろうとすれば「はい動かないでください」と林太郎にやんわりと肩を押さえられた。それを手伝うようにニャー太が遠慮なしに腹の上に乗っかってくる。


「あんたは頑丈すぎて知らないかもしれないですけどね、こういういときは急に動いたらダメなんですよ。頭はもちろん、首は絶対動かさないでください。頭部打つといくらあんたでも多少影響は出ますよ」

「いや、実は頭は打っていない。そこだけは咄嗟に庇った」

「それを早く言えっての!」


 がなり立てる林太郎を陽介が宥めに入る。怜は心配する恒輔をやんわりと押しのけ、ニャー太を抱えて起き上がった。痛みは感じずとも安静にした方がいいのだろうが、そうもいかない。上の様子を見ようと体を向けたところで強烈に鈍くて重い音が響いた。思わず振り向いたところで咆哮が響き渡る。


「いいッ加減にしろやこのクソガキどもッ!! さっきから何度も何度も違うっつってんのに聞く耳持たねえなッ!! 挙句の果てに仲間傷つけて、おまえらの方がよっぽどぶっ飛ばされてえようだなァ!?」


 上は......それはもう、修羅場と呼ぶのに相応しい状況だった。

 火でも噴く勢いでブチ切れる空と、その仁王立ちを前にして頭を押さえてプルプルと震える郷と、郷の腕の中から最早泣き出す寸前の顔で空を見上げる夏鈴。その傍でいくらか落ち着いているがまだ呼吸の荒い梓を、桜子が背をさすって宥めている。


「......あれ、大丈夫なの」

「全部がやばすぎてどれのことを言っとるんかわからん」


 怜は思わず呆気に取られた。周囲の三人が二度見するぐらいには珍しい表情を見せた。空の怒りの噴火はなおも続く。


「おまえらの勘違いは別にどうだっていい。おまえらの出会ったやつと怜が同一人物だと思うのははた迷惑ではあるが勝手だ。だが梓を人質に取ってまでやり合おうとする必要はあったか!? やり方が気に食わねえッ!! 理屈も気に食わねえッ!! おまえらの言うこと為すこと全部めちゃくちゃなんだよッ!! もううんっっざりだッ!!」


 空はそこまで叫んで一旦説教を止めた。わかりやすいぐらいに肩が上下していた。


「ハアッ、ハアッ、もっ、むり......何千年ぶりかぐらいにキレたから体力が限界だわ......」

「......軟、弱」

「おまえって大人しそうに見えて結構言うよなあ。でも返す言葉もねえわ」


 ハァーーッと長い溜め息を吐く空。怜たちは顔を見合わせ、そろりそろりと静かに階段を上った。空の怒気に恐れてか、ニャー太が怜の腕から逃げ出そうともがいたが、「大丈夫だよ」と軽く顎をくすぐってやればすぐに落ち着いた。


「おう怜、おまえ怪我は?」

「大丈夫です。頭も打ってないし、全然平気」

「ふはっ、ほんとに頑丈だな、おまえは。まあ俺もおまえなら大事にはならねえとは思ってたけど、いざとなったらやっぱ平常心失うわ」


 空は苦笑一つこぼしてから郷と夏鈴と向き直り、その場にしゃがみ込んだ。

 「顔、上げろよ」といつもの口調で告げれば、郷はやや不貞腐れた表情で顔を上げる。夏鈴は空を見つめながらも郷にぴったり寄り添って怯えていた。空の三白眼が少し緩む。


「おまえらははっきりと口にしなかったけど、怜に似ているそいつはおまえらの心を深く傷つけたんだろ。じゃなきゃここまでしねえよな」


 郷はわずかに目を見開き、それから半ば無意識に頷いていた。空が続ける。


「おまえはそいつに『弱い』と言われたことで怒り狂った。そこでそいつそっくりな怜を見つけてリベンジに挑もうとした。そして夏鈴、おまえは役に立ちたい一心で今回のことを提案した。全く、小学生とは思えねえな。そんなことを考える点も、自分を捨て身にするところも」


 空が夏鈴に手を伸ばす。ビクッと震えて目をギュッと瞑った夏鈴だが、頭に手が乗せられたとわかると大きな目をまん丸にして空を見た。


「それはもっと別の方向で活かせよ、こいつのためにもさ。こいつはおまえに許せねえことはしたかもしれないが、こうして体張って助けようとしたんだ。おまえのことを憎からず思っていないはずだ。梓を傷つけたのも......まあ、あれは俺が大声出したのも悪かったよ。柄にもなく焦ってな」


 空の言葉に夏鈴は郷の方を見上げた。郷は「あー......」と頭を掻いて気まずそうであるが、目を逸らす真似はせずに答えた。


「......向こうの世界でいろいろあって、見下されないように必死だった。だからおまえに威圧的な態度を取っちまった。八つ当たりも見下されないようにするためだったんだよ。ただの言い訳に聞こえるかもしれねェけど、許せないなら許さなくていい。けど今回で目が覚めたよ」


 「悪かった」と郷は夏鈴の目をしっかり見て謝った。夏鈴は小さく息を呑み、大きな目を震わせた。みるみるうちに水膜が広がり、溢れたものが頬を伝った。郷の服の胸元を強く握れば「夏鈴も......」と掠れた声を漏らす。


「夏鈴も、今度は邪魔にならないように、捨てられないようにって必死だった......! 郷のこと、ちゃんと止めなきゃいけなかったのに、それで嫌われて離れられるのが怖かった......!!」


 夏鈴は袖でごしごしと目を擦ると郷から離れ、平常心を取り戻し始めた梓に頭を下げた。


「梓さん、ごめんなさい! 怖い思いをさせて、傷つけてしまって。謝って許されることじゃないのはわかってる。夏鈴がバカだった......!」


 泣きそうになるのを堪え、夏鈴は小さな手を握りしめる。憔悴でまだ少し茫洋としていた梓だが、力なく微笑むとおもむろに口を開いた。


「......オレ、ひっでえ取り乱しようだっただろ?」

「あんな目に遭ったら、夏鈴だってそうなるよ」

「うん、けどそうじゃないんだ。実はオレって怪我自体がトラウマでさ、自分か誰かが怪我しているところ、ひどい怪我だと特にパニックになることが多いんだ。というか誰かが怪我をするかもって考えるだけで苦しくなる。......夏鈴ちゃんと同じ、過去から来ているトラウマなんだよ」


 梓は桜子に支えてもらいつつ立ち上がると、夏鈴に近づき、軽く頭を撫でた。


「投げ飛ばしちゃってごめん。でもこれで、オレたち似たような傷を抱えてることがわかっただろ? 痛み分けにしよう。誰だって自分のトラウマを刺激されると周りが見えなくなるんだよ」


 泣くまいと堪えていた夏鈴だったが、我慢の限界だった。決壊して涙がとめどなく溢れ出し、たまらず梓に抱きついていた。梓は何も言わず夏鈴を優しく抱きしめ返す。

 その一連の流れを見届けていた郷が、こちらを向いて綺麗に頭を下げた。


「......悪かった。怒りで周りが見えなくなっていた俺が、夏鈴を巻き込んでこんなことになっちまった。俺たちはおまえを散々疑ったてェのに、おまえは助けてくれた。恩に着る。ピンピンしているように見えるが、怪我は......」

「痛くも何ともないよ。俺、柔じゃないから。バグ霊......化物と多少張りあえるぐらいには、俺は強い」

「......最初から無謀な勝負に挑もうとしてたわけか。こんなのだから弱いって言われるんだろな」


 郷は怜の言葉に顔を上げると、自嘲気味に笑う。

 怜は首を傾げた。


「弱いかどうかはともかく、君には魅力があると思うよ」

「は......」

「君は、さっき自分のことを『弱い』と認めていた。本当に君が弱いのかは知らないけど、それを認めることは難しいことじゃないかな。だって、俺も自分の中にある感情を認めるとちょっとだけ苦しくて動けなくなってしまうんだ。......君は激情に駆られていただけで、本当は自分を客観的に見れる人なんじゃないかな」


 「というか」と、怜は振り返って恒輔たちを順番に見やる。


「恒輔くんは俺に感情を教えようとしてくれた」

「うん......?」

「空さんは面倒臭がりだけど、それでも何だかんだ俺たちのことをまとめてくれるし、梓くんはいつも場を明るくしてくれて料理も美味しい」

「お、おう......?」

「え、ありがとう、ございます......?」

「林太郎くんは誰よりも頭が良くて、俺たちの気づけなかったことも自力で気づけてすごい。陽介くんも大事な人を守るために行動できて、桜子ちゃんも昨日みたいに相手に立ち向かえる勇気がある」

「おい、やっぱり頭打ったのかよ」

「打った......のか......?」

「急に、何を......」


 ざわめく彼らを無視して、怜は梓に抱きついたままの夏鈴にも言葉を向けた。


「夏鈴ちゃんの行動は、良く言い換えれば勇敢なことでもあるんだ。その年でそこまで行動できるのは、とてもすごいことなんじゃないかな」

「れ、怜さん? 夏鈴たちを褒めて何が言いたいの?」


 夏鈴は顔を赤くして戸惑い、真意を尋ねる。怜はあっさりと核心を吐いた。


「君たちが何を言われようとも何を抱えていようとも、そんなに気にしなくていいんじゃないかな。だって君たちには十分魅力がある。そのことを周りの人が知らなくても、俺と互いが知っていればいい。それだけでここが居場所であり、逃げ場所になる。俺がみんなの居場所になるよ」


 嫌になったら逃げてもいいと思うよ。君たちは俺と違って感情があるんだから、そんなものずっと持ってたら重いでしょ。

 澄んだ目で言った後、「まあ、記憶喪失で存在が曖昧な俺に言われても何も思わないかな」と締めくくる。

 本心だった。今の自分ではまだ、彼らの秘めた感情を理解できない。わかっている。ただ、伸ばし返しただけだ。怪物である自分を仲間にしようと伸ばした手に、今度は自分から重ねにいった、ただそれだけだ。

 自分はいつも思ったままを口にし、今回もまた思ったままを告げた。そういうときは大概誰かしらに呆れられながらツッコミを入れてられてしまう。それは仕方のないことなので、誰かが口を開くのをじっと待っていたのだが、誰も何も言わなかった。誰も彼も、青天の霹靂と言わんばかりの目で自分を見つめてくる。怜はぱちりと目を瞬いた。


「......どうしたの、みんな」


 内心軽く引いて尋ねれば、近くで「ぶはっ」と噴き出す声が聞こえた。全員の視線がそちらに集まる。


「はは、薄々気づいていたけど今のおまえを見て確信したよ」


 郷は屈託なく笑って怜の方を向き、トントンと目を指で示した。


「おまえの......怜の方が人を見る目してるよな。あの野郎は顔を見せようとしなかったから目なんて見たことねェけど、そんな綺麗な目をしてるやつがあんなこと言えるわけねェわ」


 終わった終わったと言わんばかりにニャー太が鳴き声付きであくびする。

 怜の身の潔白が証明された瞬間だった。




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