20「秘められていた恐怖」

 夕食を終えて少しだけ片づけを手伝ってやった後、林太郎たち三人は部屋に閉じこもった。怜は奥の部屋でニャー太と過ごしており、空と梓は備品のチェック、恒輔は風呂に入っているので、しばらくの間は誰かがやってくる心配はない。


「ったく、昨日今日とずっと巻き込まれっぱなしだ。散々だ」

「まあ、何とかなっただけ良かっただろ」

「つか、れた......」


 その後、二人さえ良ければと怜たちが郷と夏鈴を仲間に誘っていたのだが、二人は引き続き公民館で生活することを選んだ。互いのためにも時間が欲しかったらしい。それから二人からは襲撃者の情報が引き渡された。


『喋り方は演技かもしれねェが、声は怜に似ていたな。身長とかも大差ねェと思う。あとは些細な情報だが服は黒いパーカーで、出会ったときは顔を隠していた。とにかく気をつけろよ。昨日はそいつの気まぐれで俺たちは逃げられたが、多分本気なら瞬殺してくるようなやつだ』


 そのことを思い出し、林太郎は溜め息を吐いた。


「あんなのが二人もいるのかよ......」

「......その人、も、強い......?」

「いや、さすがにあれだけ強い人が近くに二人も存在しないだろ。......さすがに」

「ちょっと自信ないのかよ。責任持て」

「何の責任だよ。......じゃなくて、話し合いだろ。俺たちは明日が過ぎれば出ていくことになっている。......どうする?」


 しんと部屋が静まり返る。何も言えないのが、今この瞬間の結論だった。

 明日で約束の三日目だ。明日が過ぎれば自分たちはここから出ていける。そのときを、待っていたはずなのに。


「......どうする、って、聞いてる、の、おかしい、よ......」

「......ああ、そうだな。じゃあ正直に言うよ」


 陽介は迷いのない瞳ではっきりと言いきった。


「俺は、ここにいてもいいんじゃないかと思っている」


 林太郎も桜子も驚かなかった。何となく陽介の考えていることはわかっていた。


「理由は?」

「......今朝、実は雨宮さんと少しだけ話をしたんだ。俺はあの人に自分に何か思うことはないのかって訊かれたんだ。......俺だけ、二人ほどはっきりと不信感を出していないのが気になったらしい」

「......陽介は、何て、答えたの?」

「仲介役だって素直に答えた。......そしたらさ、いい関係を築いているんだねって、そう雨宮さんが言ったんだ」


 林太郎は目を見開いた。それは今まで誰にも理解されなかったことだった。誰も、自分たち三人の状態を「単なる依存」と認識し、「外を恐れて周囲との交流を拒む甘え」と蔑んだ。

 それを――何を考えているのかわからないようなやつが、簡単に。

 陽介曰く、自分たちの依存を「君たち三人でしかなり得ない唯一無二の共存状態」だと、あの人はそう言ったそうだ。


「けど言うほど深刻な依存状態には見えない、俺たちは雨宮さんたちに協力していて、助けもして、それでもなおその世界が守られているからいい関係だって。むしろ世界内で感情を共有できて合理的じゃないかって。......何というか、人の心を理解できているようでズレている感じするよな、あの人」


 陽介は呆れを滲ませた声で呟く。その表情は柔らかかった。


「俺は雨宮さんの目を見て気づいた。あの人は例えどんなことでも、全部自分の思ったことを口にしているんだ。どんなに馬鹿げた発言でも、あの人からすれば嘘偽りない本心なんだ。だから......自分が居場所になると言ってくれたあの人を、少しだけ信じてみようと思う」


 陽介は一息吐くと、桜子の方に体を向ける。


「桜子は、どうしたい? 今のはあくまで俺の意見だ。気にせずにおまえの意見を言ってほしい」

「えと......私、は......」


 桜子は視線を彷徨わせつつも胸元で手を握り締め、意を決して顔を上げた。


「まだ......まだ、怖いって、思う、けど......少しだけ、信じても、いいっ......。だって、あの人たち、公園の、とき、助けて、くれた。当たり前の、ように、危ない、のに。あのときは、恐怖で、それどころじゃ、なかった、けど、誰かが、助けて、くれるの、本当は、嬉しかった......!」


 「でも......!」と膝の上で両手を握りしめる。


「だから、こそ、私は、ここから、離れる......! 私は、林みたいに、頭良くない、陽介みたいに、強く、ない......! あの人たちに、とって、ただの、足手まとい......! 二人から、離れる、ことに、なっても、私は......!」


 堪えきれずに目尻に涙を滲ませた桜子を陽介は抱きしめた。


「そうだな、助けてもらえて嬉しかったよな。......あのときは、誰も助けてくれなかったもんな」


 そこで陽介は桜子と目を合わせて寂しげに笑った。


「でも離れるのはなしだ。俺も林太郎も、桜子がいたから頑張れたときってたくさんあるんだぞ。できることがなくても、存在そのものが無意味なんてことはない。雨宮さんも言ってただろ? おまえには勇気があるんだよ。昨日襲われたとき、おまえが俺を呼んで真っ先に動いてくれなきゃ、俺も動けなかったよ」


 桜子は陽介の胸元で小さくしゃくり上げ始めた。彼女の背中を優しく叩いて宥めつつ、陽介はいつもの調子でこちらに訊いてきた。


「林太郎、おまえはどう考えている?」


 林太郎の脳裏に今まで彼らにされたことが蘇る。心配された、褒められた、――ここを居場所にしてもいいと言ってくれた。全部初めてのことだ。今まで認めてこなかったけど、本当は......だが......。


「......無理、だろ。明日が過ぎたらここから出た方がいい。わからねえ、なんで、なんで簡単に信じられるようになるんだよ」

「林......」

「だってそうだろ、そうやって信じて裏切られたことあっただろ。オレは無理だ。......信じきれない、二人と同じ考えになれねえよ!」


 もう、この人ならと期待するのも、裏切られるかもと考えるのも疲れた。本当はこうして一緒に過ごしているだけでいつ背を突き飛ばされるか内心怖くて、苦しくて、仕方なかった。それならいっそ三人だけの世界に閉じこもってしまいたい。


「そう思っていたのは陽介も桜も同じだったはずだろ! なんでそっちに行ってしまったんだよ!」


 俯いて体を震わせる林太郎。床に落ちた水滴が染みを作る。そんな林太郎を見て、桜子はそろりと陽介から離れると今度は自分が林太郎を抱きしめる。拒みはしなかった。ただその彼女も自分と進む道が違うのだと思うと、慣れたはずの体温が今までと違う気がした。

 仲間になるかならないか。あの日あのとき、その選択の際に怜に言った言葉を思い出していた。


『そしてまた、オレたちを裏切るのか』


 またそうやって、手を差し伸べて、掴んだ手を払いのけるのか。こちらが掴むことも許されないままに。


『感情のある人間は、そんな器用なこともできるんだね』


 だから、本当はそう言われて少し安心したんだ。この人は「しない」んじゃない。「できない」んだって。

 でも、もしもあの人に感情が戻ったら? いろんな感情を知って、扱い方もわかって――残酷な方に、感情が入れ込んでしまったら?


 ――今度こそ、心が殺される。オレだけならまだいい。陽介と、桜の心まで殺されるのを見るのは耐えられない。


 だから、もう。

 誰もオレたちに手を伸ばさないでくれ。


『おまえらが今まで何をされてきてどんな扱いを受けてきたのかは知らねえ。だが第三者だから言えることだけどな、それがおまえらの世界の全てじゃねえはずだ。世の中には梓みたいなやつもいるってこと、これでわかったんじゃねえの?』


 頼むから、もう。





 湯船に浸かり、恒輔は天井を仰いでいた。入り慣れた実家の風呂と違って庶民的で随分狭いが、こっちの方が落ち着くのはどういうわけだろうか。そして落ち着くと思考の波に呑まれるのは最早性分なのか。

 思い出したのは、探索の際に怜に問われた言葉だった。


『ねえ、恒輔くんはどうして俺に感情を取り戻させようとしたの。人を弱くしてしまうものを、どうして』


 「ハア......」と深い溜め息を吐く。


「そんなん答えられるわけないやろ......」


 じぶんを傀儡にするための口から出まかせだなんて。

 恒輔は生まれたときから孤独だった。幼い頃から父親は自分に英才教育を受けることだけ強いて、一切愛情を注ぐことがなかった。母にさえも愛がなく、愛情のなさに疲れた母は自分を連れて出て行こうとした。

 だが父はそんな母から自分を奪い取り、奪っておきながらあろうことか秘書との間に子供をつくって産んだ。そこからますます自分は孤独になっていった。

 金持ちの息子という肩書きが気に入られなかったために当然のように友人もできなかったが、小学三年生になって引っ越してきた少年が友達になってくれたことがあった。そのとき初めて友達というものを知り、これまでにないくらい幸せな思いをしたのを覚えている。だが――今思えば、それが自分がここまで歪んだ原因とも呼べるだろう。

 四年生になって彼は引っ越し、またひとりぼっちになってしまった。一度天頂を見た自分は孤独に戻ることを激しく恐れた。そして思いついたのがあの「ゲーム」だった。


 ――懐かしいなあ。口の軽そうな子にあのデブの話を流したんやんな。恥ずかしい部分だけを誇張して、あとはありのままを述べて。あいつがクラス内で居場所を失うのも早かった。


 立場が逆転したのは言うまでもない。恒輔は見事孤独から脱出してみせた。それ以来、恒輔の周囲から人が絶えることはなかった。だが今の今まで周りに群がる連中を友人だと思ったことはない。彼らはみんな、自分の孤独を埋めるための傀儡かいらい。今までのやつらも、これからのやつらもみんなそう。――そう思っていた。


『別人みたい? ごめん、よくわからない。恒輔くんは恒輔くんでしょ? 何も気にする必要なんてないと思うけど』


 彼はいたって当たり前という風にそう言葉にした。自分の怜に対する感情が、傀儡に対するものから全く違うものに塗り替えられていくのを感じた。

 「金持ちの息子」、「跡継ぎ」、そういう肩書きを一切抜きにして「自分」を「自分」として見てくれたのは怜が初めてであり、言われて初めて、その言葉を自分がどれほど求めていたのかよく身に沁みた。怜は今回で自分だけでなく他の仲間にも影響を与えた。自分の感性が誰かの心を鳴らしていることに本人は一切気づいていない。


 ――怜は「オレ」を「オレ」たらしめてくれた恩人。その恩人のためなら、できるだけ何かしてやりたいと思うのは人として当然やろ。


 だから最初に口八丁で出た感情の取り戻しを叶えようとした。だが......それは間違いだった。あのときの問いに恒輔は未だに答えられずにいた。怜はきっと急かしてはこない。その代わり、忘れもしないだろう。


『オレが、怜の感情を取り戻すのを手伝ったろか?』



 ――それで自分も、何かに苦しめばいいのに。

          オレの感情こどくを理解してくれたらいいのに。 



 「我ながら最低やな......」と呟く。正直に答えられないのは、離れられるのが怖いからだ。

 ならばどう答えればいいのかと考えようとしたが、やめにした。後がつかえているのだから、こんなところで長考にふけるのはよくない。髪も体もとっくに洗い終えていた恒輔は勢いよく起き上がって風呂を出た。

 ふとカランと軽い音が落ちる。見下ろせば、風呂の隅に他の物と一緒にまとめられていたはずのカミソリが床に落ちていた。大方風呂の水に押し流されて落ちてしまったのだろう。恒輔は当たり前の行動としてカミソリを拾おうと手を伸ばし、触れた。



 拾う指先に、カミソリと水が触れる。真っ赤に染まった水たまりと、赤の大海に沈みゆく刃。



「ッ!?」


 声にならない悲鳴を上げてカミソリから手を離し、恒輔は風呂の床をまじまじと見つめた。その赤は少し黒くて、排水溝に向かってドロドロと流れている。おそるおそる見やった湯船もバラを溶かしたみたいだ。色合いに、嫌でもその赤の正体を知ってしまう。

 ドク、ドクと重低音が左手首から伝わってきている。恒輔は、ぎこちない動きで首を左手首に向けた。

 自分の腕が、真っ赤だった。可憐な少女の髪の毛を彷彿とさせる気味悪い血がどんどん自分の腕を伝っていく。――ちょうど、手首辺りに大きな真一文字の傷が刻まれている。そこから溢れ出る血が全てを赤く染めていた。

 恐怖に目が眩む。とてつもない吐き気を覚え、口を押さえて体を前のめりに倒した。力が入らない身体がそのまま血の中へ捧げられる。恒輔は自身が血の海に溺れていくのを感じながら、フッとその意識を暗闇に閉ざした。


『恒輔、ごめんね』


 最後に聞こえた、聞き覚えのある少女の声は誰なのだろう。


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