17「豹変」
その日は風に涼しさが乗っていて、夏の終わりの匂いがしていたことをよく覚えている。
小学生最後の夏の思い出作りとして、梓は近所の山へ虫捕りに出かけていた。首に下げられている虫かごにはすでにそれなりの大物が数匹収められており、この時点で梓はだいぶ満足していたのだ。
満足していないのは、一緒に来た幼馴染の方だった。
「なあ、ひかる、それ以上登ると危ないところばかりだと思うぞ。この辺りで帰ろうぜ」
「いーや、まだだ! 田村が見せてきたあのカブト、もう少し上で捕れたらしいんだよ! 俺は諦めない、絶対に超大物を捕るまでは帰らねえぞ!」
「そうは言ってもさ......怪我とかしたらさ、おじさんとおばさんに怒られるだろ......」
沈んだ声で呟いた梓の方を振り返り、ひかるは目を丸くした。
「なんだ、おまえ、父さんと母さんが怖いから乗り気じゃないのか?」
「なっ、違う! そういうわけじゃねえよ! オレがおまえを止めるのはおまえに怪我してほしくねえからだし、怪我したら陸上選手になりたいっていうおまえの夢が叶わなくなるかもしれないし、......でも、おじさんとおばさんが怖いってのは、ほんと」
ひかるとは家族ぐるみの付き合いだが、梓は未だにひかるとその妹に対して過保護な那由多夫妻が苦手だった。ひかるやその妹とはとても仲が良いが、夫妻は自分たち家族をどこか見下している節があるからだ。正直、あまり会いたくない。
「まあなー......俺が梓と遊んでいて少しでも怪我すると、父さんも母さんもすぐ梓のせいにして怒り出すもんなー。何度俺が悪いんだって言っても、二人とも聞く耳を持っちゃくれねえからなー......」
疲れきった目でぼやくひかる。ひかるもまた、両親の異常な過保護具合に辟易としていたのだ。
だが彼はやがて顔を上げると、「よし」と呟いて再び前を向いた。
「じゃあ、あと五分で山を登れるところまで登って、五分だけ探してから帰ろうぜ」
「結局まだ探すのかよ......」
「だから合計あと十分だけにしたんだよ! これ以上は譲れねえ! 俺が女子と間違えておまえに告白したことを言いふらすって言われても譲れねえ!」
「言いふらさねえよっ! オレにとっても黒歴史なんだから!!」
嫌な出会い方だった、全く。
それはともかくとして、梓はひかるの案を呑むことにした。五分間登り続け、その先で五分間だけ探した。結局ひかるの求める超大物は見つけられなかった。
「はーあ、俺の夏が終わっちまったよ......」
「まあまあ、田村が見せてきたようなやつは見つからなかったけど、それでもそれなりにでかいやつはたくさん捕まえられただろ。そんなに落ち込むなって」
「......うん、そうだな。仕方ねえ、今日はもう帰るか」
ひかるが素直に諦めてくれたことにホッとし、彼の後に続こうとしたときだった。
ガササッと葉っぱを突っ切る音、梓の顔にぶつかる大きな物体。その正体がカブトムシだと気づかないままに、「わあっ!?」と驚いて梓は大きくよろめいた。その拍子に身体がひかるにぶつかる。ひかるは突然の強い力に構える間もなく、目を見開いたまま半ば突き飛ばされた形で前へ倒れた。
多少道は整備されていたとはいえ、柵の設置までは施されていなかった場所。ひかるが立っていたのは、あと半歩で崖のところ。
梓が気づいたときには、ひかるは崖下へと消えていた。
梓たちは各部屋をチェックしながら図書室にいる空たちとの合流を目指していた。結果として手がかりと呼べるものは何も見つからなかった。住所と思わしき部分は得体の知れないもので真っ黒に塗り潰され、人名もほとんどが同じように消されていた。それ以外のものも漁ったが、めぼしいものはなかった。
だが代わりに得たものはあった。
「じゃあ夏鈴ちゃんはさっき目覚めたばかりで襲われたんだ。大変だったね」
「ほんっとうに怖かった! がんばって逃げてかくれて、それでなんとかなったけど......」
「あの化物は耳が聞こえへんらしいから、隠れてしまえば平気なんや。まあそれでも油断ならへんけど」
「うん、俺が蹴っても千切っても死ななかったから危険なんだ。食い止めるぐらいならできるけど」
「わあ! 怜さんはとっても強いんだ! 敵と戦えるなんてかっこいいね!」
「大したことないよ」
楽しげに会話する少女の姿は微笑ましいものであったが、その足に巻かれた包帯には血が滲んでいて痛々しそうだった。
少女の名は
今はとりあえず彼女を一緒に連れていき、空たちと合流してどうするか話し合おうと梓が提案して今に至っている。その間、怪我した夏鈴を梓が背負っていた。
「けどいざというときは怜に夏鈴ちゃんを預けた方が安全かもなあ。足の速さも対処能力も怜が一番やろ」
「そうかな。俺が食い止めている間にみんなが逃げてくれた方がいいと思うんだけど」
「いいや、逃げるときは全員で逃げる。いつまでも怜が戦うわけにはいかんやろ」
「そんなことないよ。俺の強さはみんなを守るためにあるから、いつだって俺は戦うよ」
「あのなあ......」
「だったら夏鈴も残るよ! だって怜さん一人だけ残したくないし、あっ、だったら梓さんも一緒に残ることになるね。夏鈴、一人じゃ歩けないもん」
その台詞に怜は目を丸くし、彼の腕の中でニャー太が身体をのけぞらせながら目を剥いて主人の心情を晒す。夏鈴の意図に気づいたらしく、「......わかったよ」と怜はあっさり返したが声がやや低い。夏鈴は「やったね!」と喜び、恒輔は苦笑した。
そうしている間に夏鈴の声、温もりを梓は背中で感じていた。無邪気で純粋無垢、その様は自分の弟妹たちを想起させた。
「会いたいな……」
誰にも聞こえないよう寂しげにポツリと呟く。長男としてずっと彼らの面倒を見てきた。言うこと聞かないことも多いし手もかかって大変だったが、その倍は彼らのことを大事に可愛がっていた。
会いたい、父さんと母さんにも会いたい。友達にも会いたい。ああそうだ、あいつにも――
『こんなこともできないのか、おまえは!!』
丸められた雑巾を思いきり顔にぶつけられる。重量感のある痛みと口の中に入った汚水を味わっても、梓は正座を崩すことができなかった。
『こっちはひかるの介護で手一杯なんだ!! この家の家事を手伝うのは当然だろう!! なのになんだ、この掃除の仕方は!! まるでなってない!!』
『あんたのせいでひかるは夢どころか人生まで奪われたというのに、反省しているように見えないわね!!』
『......父さん、母さん、もうやめてよ。梓は何も悪くないから、これ以上梓をいじめないでよ』
入り口から泣きそうな顔で少年が訴えてくる。その車椅子を見て心臓辺りが苦しくなった。罪の意識が心を滅多刺しにしてくる。その痛みが顔に出るより先に、梓は咄嗟に笑って明るい声を出した。
『すみません、まだ磨き足りなかったみたいですね。もう一回掃除し直しますので、おじさんとおばさんは部屋で休んでいてください。終わったらまた呼びに来ます』
『梓!』
那由多夫妻はその返答に満足したようで、何か言おうとしたひかるの車椅子を押し、一緒に部屋へ戻っていく。何度も振り返るひかるを視界に入れないようにした。
当然のことだ、非難されるのもこうして家のことを手伝うのも。ひかるが気にする要素は何一つない。
だって、全部オレが悪いんだから。
「梓くん?」
意識が現実に戻る。ハッとなって見上げれば訝しげに恒輔が、その少し先で首を傾げた怜がこちらを振り返っていた。
「さっきから何も喋らへんからおかしいな思うたんやけど……どうしたん? 少し顔色悪いで。汗もすごいし」
恒輔が指で梓の額を拭った。指先から垂れた水滴が梓の目の前を落ちていく。
心配を、かけてしまった。心配してくれる。こういう優しい人たちを自分は知っている。素直に話せばその人たちにどんな顔をさせてしまうのかも。だから、ずっと。
「すっみません! ちょっと暑さにやられていたようです! あ、でも休憩するほどじゃないのでご心配なく!」
「......無理、しないでね。しんどかったら俺が夏鈴ちゃんを背負うよ」
「それやったらオレがニャー太を抱えることになるやん。その毛玉暑苦しそうであんま持ちたくないんやけど」
「平気だと思うよ。ニャー太の熱は蝕むんじゃなくて沁みこませるものだから」
「怜ってたまーに独自の言葉で話すよな......」
そのまま二人が会話に流れ込んだのを確認してホッと息を吐く。
そうだ、これで心配をかけずに済む。ずっと周りにしてきたことだ。……笑えば、察していようがいなかろうがみんな黙ってくれる。たとえどんな理不尽を強いられようとも、絡んだ感情に苛まれようとも、笑ってみせれば案外自分の心に誤魔化しが利くものだ。
「よし、早く空さんたちと合流しましょう! 万が一バグ霊が入ってきたら大変ですからね!」
それでまた夏鈴が怪我をしてしまったら、怜が戦って傷つけられたら。何度も何度も
四人は二階に続く階段の前に辿り着いた。空たちはまだ図書室にいるだろうか、何か手がかりがあればいいのだが。梓は先行く怜と恒輔の後に続いて階段を上ろうとした。その背後から夏鈴が話しかけてくる。
「梓さん、大丈夫? しんどいなら夏鈴のことおろしていいよ?」
「平気平気! ちょっとぼーっとしてただけだから!」
夏鈴の心配げな声にカラリと返してから見上げた梓は――階段に一段足をかけた状態で固まった。
梓がいる位置から少し上、怜と恒輔が足を止めてこちらを見下ろしていた。ただ見下ろしているだけじゃない。影が差しているせいか暗くてその表情がはっきり見えず、真夏の世界だというのに梓は言い知れぬ寒気を感じた。
「あの......お二人ともそんなに見つめてきてどうしたんですか? なんか、怖いんですけど」
「いやなに、空さんたちと合流する前にはっきりさせとかなあかんなと思って」
「単刀直入に言わせてもらうよ。......夏鈴ちゃん、君の話したことはほとんど嘘だよね?」
怜の確信をもった問いに、夏鈴は答えない。背中の温度がだんだん知らない冷たさに変わっていく。知らず、梓の手に汗が滲む。......取り巻く空気が、妙だ。
「や、やだなあ、怜さん! 夏鈴ちゃんがなんで嘘吐くんですかー! そもそも何を嘘吐いたって言うんですか!」
「そうだね、これは俺の直感だけど名前以外全部嘘じゃないかな。君はバグ霊に襲われてないし、この世界に来たばかりでもない。話しているときの君の目は、どれだけ空に昇っても割れないシャボン玉みたいな不自然さがあった。......玄関にいた俺たちを見ていたのは夏鈴ちゃん、君なんだね。あのときから君は俺たちを狙っていた」
「オレは話の不自然さからやな。幼い少女がバグ霊に狙われて生還? 悪いけど、君みたいな子がバグ霊なんかに襲われたらひとたまりもないと思うで。そも、足を怪我してるっちゅーことは一度そこまでバグ霊に近づかれたということ。そこから痛む足を引きずってバグ霊から逃げきるんは、土台無理な話ちゃうかな」
今度こそ、梓は何も返すことができなかった。明確な根拠を唱えているわけではない。二人の論の方こそ切り捨てることだってできた。だが、そんな理屈よりも二人の目がはっきりと断言している。何よりも――夏鈴の無言が答えではないのか。
「おう、おまえらいたのか」
階段の上から声がした。怜と恒輔より後ろ、いつのまにか空たち四人が踊り場に立っていた。
「空、さん......」
「こっちの探索は終わったぞ。残念ながら手がかりになるような情報は......ん?」
空の視線が、見知らぬ少女を捉えた。
「おい、誰だその子供。どこで――」
「動かないでッ!!」
空の問いに梓は答えられなかった。チャキッと金属の揺れる音、ひやりと冷風をまとった無機物が首に突きつけられた。
「郷!」
夏鈴がその名を呼んだ直後、キュルッと瞳孔を細くした怜が恒輔を抱え込んでその場から飛び退く。二人の身体が浮いたその足先、鉄パイプの先端が階段にめり込んだ。「きゃあ!」と桜子が身を竦ませる。ダンッと力強い着地が床を振動させた。倒れ込んだ二人の間から「ミギャァ」とニャー太の悲鳴が上がり、彼は二人の間から抜け出して相手に向かって威嚇する。
「チッ......勘のいいやつ」
上から降ってきた者が立ち上がる。ガタイのいい金髪の青年が鉄パイプを足で軽く蹴り上げて肩に乗せた。背後の空が三人を壁際まで下がらせ、青年と距離を取る。青年はこちらを見て目を細めた。
「案外上手くいくもんだな、夏鈴。自分で自分の足を刺して騙すたァ、何から学んでンな恐ろしいことを思いついたのかは知らねェが」
「うーん、神様が夏鈴たちに味方してくれたのかも。だって、怜さんがひどい人ならこの人と一緒に夏鈴も殺されていたかもしれないし? でも、ほら!」
夏鈴はナイフを持つ腕で器用に梓の背にしがみつきながら、片腕を広げて嬉々として語った。
「ご覧の通り、怜さんや他の人たちは動けなくなっている。少なくとも梓さんのことをちゃんと仲間と思っているってことだよ! ねえ、よかったね、梓さん!」
夏鈴はうっそりと目を細め、可愛らしく、愛くるしく、およそ無邪気とは程遠い笑顔を見せる。
そうして天使も恋する悪魔は宣告を下した。
「これで、晴れて人質続行だよ」
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