15「監視者」
ここもまた誰もいないはずなのに、館内はクーラーでよく冷えていた。
怜は玄関外に見える青空を眺め、道中のコンビニで失敬してきたおにぎりを食べる。腰を下ろしたその隣で、ニャー太もツナ缶を一生懸命頬張っていた。
怜たちが辿り着いた先はもともと向かう予定だった公民館だった。今回二個目の欠片を回収すると同時に脱出のヒント探しを進めようということで、公園から近くて情報のありそうなここが選ばれた。まさかバグ霊に襲われて命からがら逃げる形になるとは思わなかったが。
――あの金魚のバグ霊も、もしかしたら俺のことを知っていたのかもしれない。
食べながらふと思う。怜の脳裏には、昨日あの家の中で出会ったバグ霊のことが思い浮かんでいた。
会えてよかったと、戻ってきてはならないと話す化物。閉ざされた扉の音がまだ耳に残っている。あのバグ霊に抱いた妙な感覚も。
あのバグ霊は何だったのだろう。他のバグ霊と違って話すことができた、全く無知ではなかった。どうして自分の名前を知っていたのだろう。あんなものと会ったことがあるというのか。消えた記憶、その中に。それに、何よりも、
――あのバグ霊と出会った後から消えない、この感情は一体何なのだろう。
残っていた知識を引っ張ってきてもこの感情の名前がわからない。心にとぐろを巻いてくる、遠くに消えてしまいそうな空色。その色は冷えていて、締めつける感覚は心苦しく、なのに手放したくない矛盾を覚える。意味もなく心が震えそうになる。......それが動きを鈍らせた。
――俺を仲間だとみんなが受け入れてくれたときの感情。あれは温かかくて、ほっとする感情だった。けど、昨日の感情は......。
ダメだと感じた。感情とは、あんなものばかりなのだろうか。あんなものに振り回されていては思うように体が動かない、......仲間を守れない。感情を得た自分は感情に呑み込まれてしまっているようで、何を考えているのかわからない。
――俺は、本当に感情を取り戻してしまって大丈夫?
そこまで考えたとき、恒輔と空、梓が戻ってきた。林太郎たち三人の姿はない。恒輔たちは揃って神妙な顔で怜の近くに座った。
「おかえり。どうだった?」
「大分参っとるようやな。桜子ちゃんは言わずもがな、林太郎くんは桜子ちゃんが欠片を持っていたにも関わらず襲われたから自分の仮説が外れたとショック受けとるようやし、陽介くんは助けるのが遅れたって自分を責めているようやし、しばらくは放置した方がええな」
「一応探索のときは俺がついていくことで話を通した。……まあ、あれはしばらくそっとしておいた方がいいだろ」
「下手に触れりゃ火傷する」と言っておにぎりにかぶりつく空。「そういえば」と梓が顔を上げる。
「だったらどうして昨日のバグ霊は恒輔さんを前にして逃げたんですかねー? あのとき、オレたちと恒輔さんに何か違いありました?」
「いや、もしかしたら新たな力に目覚めたかもしれへんで? あれは『ビースト・エンド』の初期キャラクター、レリオンの能力に似て――」
「そもそも、さっきのバグ霊はもとよりその欠片の近くにいたわけで、てことはその効果が効きにくいんじゃねえか?」
恒輔を無視して空が仮説を話せば、「なるほど」と梓から納得の頷きが返ってくる。
「じゃあ、あれは他のバグ霊には効くけれど欠片の近くに潜んでいるバグ霊に効果なしってことですか? つか、それ以前にどこの隠し場所にもバグ霊っているのか......」
「だったらもう一度林太郎くんに渡した方がいいんじゃないかな」
そう提案すれば空と梓がこちらを向き、つられて怜も同じ方向を向いた。
「せやからレリオンはコツを掴むまでに結構時間かかるけどマスターすればテクニカルタイプにも引けを取らへん優秀なキャラクターに育って……」
うっそだろこいつ誰も聞いてないのに一人で語り続けていただと――?
とでも言いたげにやや引き気味で手を取り合った空と梓とは反対に、怜は積極的だった。語り尽くす兆しが見えない彼の口を閉じさせる勢いでガッと顎を掴み、グイッと直角にこちらへ向かせる。哀れな野郎の悲鳴が館内に響き渡った。
「いったいわボケェエエッ!! 人間急に九十度首動かされると死にかけるんやぞッ!!」
「普通に話しかけても聞こえなさそうだったから」
「やからってこんな暴挙に出るぅ!? 息の根止まりかけたんやけど!?」
「まあ、おまえがゲームのこととなると話聞かねえのは今に始まったことじゃない。それよりもほら、林太郎から突っ返された欠片、おまえが持ってたろ」
「それよりもって......はあ」
溜め息を吐きながらも恒輔はポケットから小瓶を取り出し、空に渡す。欠片の色は群青、先ほど公園で入手したものだ。
「とりあえずこいつを林太郎に返しに行くか。怜の仮説をあいつが信じてくれるかどうかはわからねえけど。じゃあ恒輔、頼んだ。俺は走ったばかりで立ちたくない」
「さっき受け取ったのは何やったんですか」
「恒輔くん、俺が行くよ。もう食べ終わったし」
「あーええよええよ。自分、一番ようけ働いたやろ。これぐらい大した労力やないし、オレと空さんで返しに行くわ。二人は引き続き外の監視よろしゅうな」
「おい待て引っ張るな! 俺は働かねえぞ! 大体おまえは梓はともかく怜に甘いんだよおぉぉぉーー」
恒輔に引きずられるまま、空の訴えはエコーとなって空気へと溶けていった。
「全く......未だに空さんってよくわかりませんよ。面倒臭がりなくせして割と人のこと見てますし」
「そうだね。でも何だかんだああしてリーダーは務められているわけだし、責任感が強い人だとは思うよ」
「それは認めますけど、怠惰な面が玉に
やれやれと首を振りながら最後の一口を食べきった梓だが、「にしても」とコロッと態度と話題を変えた。
「欠片、怜さんが持っていてもよかったかもしれないですね」
「......俺が?」
「だって怜さん、すぐに無茶するじゃないですか。見ていてハラハラするんです」
「でも、みんなを守るのは一番強い俺の役目だから。......それが、雨宮怜の役目だから」
「知ってます。でもオレとしてはそこまで無茶しないでほしいと思うし、それでも動いてしまうのならせめて傷ついてほしくないとも思うんです」
そう言って梓は実に少年みに溢れた苦笑をこぼす。まさか心配されているとは露にも思わなかった怜は、思わずぱちりと瞬きする。
だって、自分は強くて痛みにも鈍感で、取柄、いや、残っているものと呼ぶのだろうか。それぐらいしか価値として示せるものがない。何より記憶も感情もほとんどなくて......みんなと違う、空っぽの人間。それを悲しく思ったことはないけれど、彼らとの間にある壁の存在は感じていた。
だから、こうしてふとしたときに壁の向こう側から声をかけられるとびっくりする。そして、思うのだ。
「優しいんだね」
「......え」
「梓くんも、みんなも。壁を無視して俺のことを気にかけてくれる。優しい、良い人たちばかりだ」
それを聞いた梓の目が見開かれていって......なぜか、すぐにくしゃりと顔を歪めて俯かせる。中身のないパッケージが彼の手の中で潰れた。
「......違う」
「違う?」
「他のみんなはそうだけど、オレは違う。優しくなんてない。オレが......周りを心配するのは――」
刹那、怜は背後を振り返った。視線の向かう先は二階へ続く階段。薄暗いその奥には何もいない、
――今、誰かがいた。
「怜さん......?」
我に返って顔を戻す。俯かせていた顔を上げて驚いた様子の梓だったが、やがてへラッと笑うとパンと膝を叩いて立ち上がった。
「もー驚かさないでくださいよ。また何か感じたんですか?」
「梓くん」
「でも怜さんのそれ、馬鹿にできないんで一応みんなに伝えておきますね。あとついでにゴミ捨ててきます。すぐ戻ってくるんでそこで待っててください」
怜のゴミもさりげなく取り上げた後、それだけ言い残して梓はその場を足早に立ち去った。
彼の中を渦巻く感情がわからない青年は、かけるべき言葉が見つからなかった。ただ、梓が何か言いかけたところを遮ってしまった。......勇気を持って伸ばしてきた手を振り払ってしまった気がする。そんな後味の悪さを初めて知った。
その男は部屋の中央で寝ていた。
短い金髪のソフトモヒカン、眠っていてもわかる強面の顔。寝そべる長躯ははっきりと筋肉質だということを示している。その証拠に浅黄色のタンクトップ越しに浮き出た腹筋、その上から着ている白の五分袖シャツとベージュのカーゴパンツから伸びた手足はどれも逞しかった。
フローリングの固い床を物ともせず、組んだ手を枕に仰向けで眠る姿は存外静かだった。その傍らにはまっすぐで長い鉄パイプが置かれている。
眉間の辺りがピクリと動いた、かと思えば彼は鉄パイプの先をまっすぐ扉に向けていた。人間に似つかわしくない鋭い目つきで睨んでいる先、ドアが少しだけ開かれていた。
「おい誰だ。音もなく入ってくるたァ、やましいことがあるみてェだな」
「もー! ちがうよ、
中学生までならそれだけでべそをかくに違いない、ドスのきいた声を出す。しかし帰ってきたのは怯える様子もなく、あまつさえ軽く怒った声だった。するりと素早く部屋に入ってきたのはアプリコットブラウンの髪をシニヨンでまとめ、その上からマリンキャップを被った少女。
少女のシルエットと「GIRL」の黒いロゴが貼られたピンクの半袖Tシャツの上からミントグリーンの長袖シャツ、ブルーショートジーンズと黒白ボーダーのニーソ。お洒落だが小学生向けのファッションだ。それもそのはず、彼女はまさしく小学生だった。
「ンだよ、おまえか。またそうやってフラフラほっつき歩きやがって」
「寝てばっかりの
「うるせェ。大体そうやって見回ったところで何かいた試しがなかっただろが。あの真っ黒な連中も俺たちの姿が見えなきゃ襲ってこねェんだからよ」
「それが......そうでもなくなったみたいだよ」
「あん?」
「ここに何人か入ってきた。今一階にいる」
夏鈴が真剣な声音で伝える。郷と呼ばれた男はそれを聞いて驚きに半身を起こし、
「いや......ほっとけばいいだろそれは」
「なんで!?」
再び寝転び出した自分に驚き呆れた夏鈴が詰め寄る。
「そこは気にしようよ! あの人たち公民館の中を見て回るって言っていたよ!? 夏鈴たち見つかっちゃうよ! さっきも見つかりかけたけど! あの能面みたいな人こわい!」
「それどんなやつだよ。つか今までだって入ってきたやつはいただろ。さすがに探索するやつらは初めてだけど、何もしてこねェなら平気だろ。襲ってくるようなら返り討ちにすりゃいいだけだからな」
「待って待って寝ようとしないで! それだけじゃないの! あの能面みたいな人のことなんだけど......」
「また能面かよ」
「その人、自分のこと『雨宮怜』って言ってた」
今度こそ、無視するわけにはいかなくなった。郷は完全に起き上がって夏鈴に問い詰める。
「それ、昨日オレらを襲ったやつが名乗っていた名前じゃねえか。......嘘じゃねェだろな」
「うん、たしかにそう言っていた。雰囲気もしゃべり方も似ている。ううん、似ているんじゃない。......そっくりだった、夏鈴にはそう見えた。周りの人も仲間かもしれない」
「......」
郷は眉間にしわを寄せたまま、無言で鉄パイプを手に立ち上がって歩き出そうとした。慌てた夏鈴はその服の裾を掴む。
「待ってよ郷! どこ行くの!?」
「決まってんだろ。その連中のところだ」
「行ってどうするの!? 放っておけばいいって言ったのは郷じゃん!」
「昨日のやつとなりゃ話は別だ。俺の目で直接たしかめて、もしそいつだったらぶっ飛ばしてやる」
「ま、待って、待って! ダメだよ、逃げようよ! だってその人は郷でもかなわな――」
「うるせェんだよ」
底冷えするような声に夏鈴がビクッと顔も体も強張らせる。その隙に郷は夏鈴を突き飛ばしてドアの取っ手に手をかけ、振り返って睨みつけた。
「いいか、テメェは俺が帰ってくるまで部屋から出るんじゃねェぞ。......それと、今後俺を弱い者扱いしたら承知しねェからな」
そうして部屋を出ていこうとした。ところが「待ってよ!」と腰回りに体当たりをかまされ、思わず「うっ」と呻いた。
「おまえ、今のは黙って見送る流れだろうが!」
「郷のおどしはもう聞きあきたので今さらビビりませーん! それより夏鈴は思ったんだけどさ」
「何だよ」
「その人は夏鈴もたおすべきだと思うよ。でもまっすぐぶつかっても勝てないと思うの。いくら郷が強くても、ね」
「......何が言いたい」
そう問えば、夏鈴はおよそ小学生らしくない含み笑いをしてみせた。
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