13「誰にもわかってもらえなかったこと」

 校舎から出てみればもう午後の四時は回っているのに、空は爽やかに青かった。山の方でようやく赤らんでいる雲が確認できる程度で、夏の暮れはまだ遠そうだ。


「……ちょっとだけ遊んでいかへん? 暗くなるにはまだ早いし」


 隣に立つ人物に控えめに声をかけるが、彼は申し訳なさそうに笑って首を振った。


「まだ完全に引っ越しの準備が終わってないから、手伝わなきゃいけない。……ごめん、これで会えるのが最後だっていうのに」


 これで最後。これが、最後。

 頭の中で反芻し、ぎゅっとランドセルを強く握った。何とか笑みだけは保って「そうか、ならしゃあないな」と返す。彼は自分を見て少しだけ目を丸くした。


「あれ、どしたん? なんでそんなおかしな顔しとんの」

「いや……正直、もっと強く引き止められるかと思った。転校するって伝えたとき、おまえかなりぐずったじゃん。行かんといて、一人になりたくないって」

「……さすがに日が経てば落ち着いてくるよ。あんときは駄々こねて悪かった」


 「俺も早う帰るわ」と彼から逃げるように足早にその場を去ろうとした。だが「恒輔!」と彼に呼び止められて振り返ると、何かが目の前に飛んできて慌ててキャッチする。ぶどう味の飴だった。


「死ぬわけじゃないんだ。またどっかで会おうぜ!」


 笑って手を振る彼に、「おん」と笑い返した。ちゃんと、いつものように笑えていただろうか。

 帰り道をできるだけ普段の歩幅を意識しながら歩く。足元を見て、たまに顔を上げる。いつもより家が遠い気がした。なぜだろう、昨日と同じ速さで歩いているのに。

 それを何度も繰り返し、なかなか進まない景色にうんざりして自販機横のセメントレンガに腰を下ろした。だがそれは愚策だったようで、落ち着いたことで実感したくなかった現実が急に襲いかかってきた。


「夏休み明けたら、また一人ぼっちか……」


 膝を抱えてその隙間に顔を埋める。このままずっとここにいようかと考える。家に帰りたくなかった。


 ――自分をただの跡継ぎとしか見ていないクソ親父。

 ――弟にしか見向きせず、こちらを子供とも認めていない父の秘書、新しい母親。

 ――まだ幼いのに、すでに残虐な面が出始めていて好きになれそうにない腹違いの弟。

 ――自分にだけ機械的な反応をする使用人たち。

 

 帰っても、仲睦まじく寄り添う三人とそれを微笑ましげに見守る使用人たちの姿を見せつけられるだけ。とっくの昔に自分は孤立していた。

 孤独を紛らわせようとしてポケットから先ほど受け取った飴を取り出すが、手を滑らせて飴が地面に落ちた。慌てて手を伸ばして拾う――より先に、グギャッと飴が踏み潰される。もう少しで指も踏まれるところだった。


「おい、どこの誰かと思えば今日からまたぼっちになるお坊ちゃんじゃねえか」


 頭上にかかる影に顔を上げれば、いつのまにか目の前に横柄な面構えの男子とそいつを取り巻く複数の男子がいた。

 嫌なやつに見つかったと内心で舌打ちする。顔の面も腹も厚い――要はデブ――そいつは、小学生とは思えない醜悪な笑みを貼りつけて嬉々と話しかけてきた。


「残念だったなぁ、せっかく友達になれたやつがまた転校しちまうなんて。寂しいか? 寂しいなら、なあ、オレに金をくれよ。そしたら友達になってやるよ。そしたら寂しくないだろ?」


 馬鹿らしいと思った。金だけの繋がりは友達ではなく金づるだ。恒輔は連中を無視して立ち上がり、その場から足早に去ろうとした。こんな連中に絡まれるぐらいならさっさと家に帰った方がマシだ。

 けれどそれは叶わなかった。背負っていたランドセルが急に後方へ引っ張られ、半ば投げ飛ばされる形で背後に尻餅をつく。急いで立ち上がろうとしたが、デブの方が早かった。デブは強い力で胸倉を掴んできた。見下ろしてくるデブは羨望が一周して憎しみに変化した目で恒輔を睨む。


「いいよな、金があるやつって。しかもゲーム会社の社長の子供ならゲームだって遊び放題なんだろ。こっちはおやつですら節約とか言われてろくに買えねえのにさ。なあ、みんな!」


 そのままデブに乱暴に引っ張られ、取り巻きどもの前に膝をつく羽目になった。子供たちの影が自身の影と重なり、牢屋となって恒輔を取り囲む。


「哀れな貧乏人であるオレたちに金持ち恒輔くんが恵んでくれるそうだぜ。なんせ恒輔くんはすぐに買ってもらえるからな」

「やったー、ラッキー!」

「なら遠慮なくもらっていこうぜ!」

「よっしゃ、任せろ!」


 連中の一人が恒輔からランドセルを奪い、羽交い絞めにしてきた。「離せや!」と必死に暴れるが、多数には適わない。その間にランドセルの中が荒らされていく。買ったばかりの新品のノート、少し高めの筆箱、果てにはただの嫌がらせのために教科書まで奪われた。

 買ってもらえる? 馬鹿な、一度同じ目に遭って父親に話したら......思い出したくもない、周囲の屈辱的な言葉と眼差し!


 ――これがゲームなら、データ消去して一からやり直しとったのに。こんな誰も頼る相手のいない孤独な人生、赤ん坊の頃に全部消去しとったのに!


 どうにもならない現実が悔しくて、泣きそうになりながらそう考えて――ふと、少年は閃いた。真理に辿り着いた心地だった。

 そうだ、これはゲームだ。やり直しがきかず、配られた手札も低性能のクソゲーだ。だがそれが何だ。こんな限られた状態だからこそ、ゲーマーとしての腕が鳴るんじゃないか? それに、もしもクリアできれば、


 ――ずっと願っていた、孤独の終わりを迎えられるのでは?


 おもむろに、目線だけ上げて腹を抱えて笑うデブを睨む。まずはこいつとの立場逆転から。そこから、人生を変えてやる。


「……ゲーマー舐めんなや」


 ――利用できるモンは全部使い尽くしたる。





 柔らかいものが腕に密着する感覚に陽介は目を覚ました。ぼんやり映る視界を瞬きを繰り返すことで明瞭にし、横へ目を向けた。

 視界に入ったのは、林太郎と二人で間に挟んで寝ていた桜子のあどけない寝顔。いつのまにか彼女の手によって引き寄せられていた自分の左腕がその胸元で抱きかかえられていた。柔らかい感触が何なのかはお察しというやつだ。

 桜子を起こさないようそっと腕を引き抜く。これが他の年頃の男だったら動揺していたのだろうが、自分たち三人は小さい頃から互いの身体なんて見慣れている。今はさすがに直視はできないがこれぐらいはどうってことない。互いが互いに触れることなんて、自分たちには珍しくない話だ。

 身を起こせば桜子の向こう側で寝息を立てている林太郎の姿があった。この部屋には三人しかいない。あとの四人と寝室を分けるように林太郎が空に言ってこうなったのだ。

 二人ともまだ当分起きる気配はないだろう。陽介は音を立てずに布団を抜け出し、丁寧に被せなおす。久しぶりに見た穏やかな寝顔の二人に微笑みかけてから部屋を出た。これ以上眠る気になれなかった。

 廊下を出て食卓へ向かう。……だが予想外なことに先客がいた。


「おはよう。随分早起きだね」


 淡々と挨拶をされる。じっと混じりっ気のない黒い瞳がこちらを見つめてくる。相手の目を見て話すというコミュニケーションの基本を捉えた話し方だが、この人のそれは心臓に悪い。妙に黒いと感じる目が、こちらの知られたくないことまで見透かしてきそうだ。

 視線だけで見た時計はまだ五時を指していない。外もまだ完全に明けてはいないだろう。


「おはようございます。そちらも早起きですね」

「ニャー太がお腹を空かせたみたいで」


 椅子に腰かける怜の足元でツナ缶にがっつく白猫がいた。ニャー太は一瞬だけこちらに目をやったが、すぐに興味をなくしてツナ缶に顔を戻す。


「そっちは一人で珍しいね。どうしたの?」

「俺は早起きが癖なんで、早くに目が覚めただけです。......そういえば気になっていたんですけど、そのニャー太って名前は誰がつけたんですか」

「多分、俺」

「......そうですか」


 ついつい微妙な表情になってしまう。多分、というのは記憶がないから自分が名づけたのかどうかもわからないのだろう。だが仮に彼の同居人らしい宮重正二郎が憧れの作家のことなら、彼がこんな直感で思いついたような名前をつけるとは思えない。本のタイトルとかどうなるんだ。

 ......バグ霊の件があるし、名づけたのは十中八九怜だろうと結論づけて、陽介は何となく怜の斜め向かいの席に座る。そのタイミングを狙ったのか、怜の方から声をかけられた。


「陽介くんは、俺に何か思うことはないの」

「えっ……?」


 唐突で脈絡のない問いに面食らう。怜はそんな陽介の様子に気づいていないのか、空っぽの缶を舐め回すニャー太を眺めながら続ける。


「君たち三人は今でも俺たちに不信感を抱いている。それは林太郎くんの発言からもわかるし、桜子ちゃんも態度に出ている。......君だけが、そのことを曖昧にしている。不信感を抱いているはずなのに、比較的俺たちと友好的に接している。それが不思議だったんだ」


 振り向いた怜の黒い目がじっと見つめてくる。陽介は彼の正体は心を、嘘偽りなき本心を映し出す鏡で、実は人間のフリをしているのではないかと疑いそうになる。同じ人間なのに、どうして彼だけ他の人との差異が目立つのか。

 いつまでも見つめ続けられると居心地が悪いので、早々に答えることにした。


「単純に仲介役ですよ」

「仲介役?」

「見てのとおり、林太郎も桜子も感情をはっきり表に出すきらいがあります。三人だけのときならいいですけど、場合によっては相手を逆上させてしまうこともあるんです。だからいつも俺が間に入ってとりなしているんです」


 ここまではっきり言ってしまうのもどうかと思ったが、何となく怜には嘘が通じなさそうな気がしたので全部話してしまった。怜は「そうなんだ」と何を思ったのかわからない声で相槌を打った。


「だから、絶対に俺たち三人を引きはがそうとしないでください。俺たちには互いしかいなくて、互いだけで成り立つよう生きて......いえ、すみません」


 口が滑ったと顔を背ける。一気に心が重くなって沈んでいく。

 陽介はよく知っていた。自分たち三人の関係がどこまで深いものなのか気づいた人間が何て言うかを。誰も彼も――


「君たち三人はそうやってきたんだね。そっか......林太郎くんと、陽介くんと、桜子ちゃん。この三人だから、ここまでやってこれたんだ。いい関係を築いているんだね、君たちは」


 気持ち悪い、と......。


「......え?」

「三人だけしか見えていない世界、依存状態ってことだよね。とても狭い世界。一般論からすれば、互いに離れてもっと外に目を向けた方がいいのだろうね。......だけどそれは、あくまで誰かにとっての『表』にしかならない」

「表......?」


 予想外の返答に戸惑っているところに怜のわかりにくい言葉が入り込んで、余計に混乱する。怜は無表情のまま淡々と、思ったことをそのまま話している口ぶりで語り続ける。


「物事なんて所詮表と裏でしかない。表がそうなら、裏は『君たち三人でしかなり得ない唯一無二の共存状態』とは言えないかな? 周りが君たちをどう見ていたかは知らないけど、人間は多数決でどっちかしか見られない人が多い。でも責められることじゃない。感情によって左右されることもあるだろうからね」


 「俺は感情がないからどっちも見えるだけなんだ」と淡々と語る怜をよそに、陽介の目がだんだんと見開かれていく。心が打ち震えるのを止められなかった。

 それは、まさしく自分たち三人に対する理解だった。怜は何一つ違わず、三人に対する理解を示してくれた。


「とは言ったけど、俺、言うほど君たちは深刻な依存状態には見えないんだよね」

「え......」

「だって、そうでなきゃ条件付きでも仲間になっていないはずだよ。君たちは俺たちに協力してくれて、それどころか助けてさえくれた。それでもなお君たちの世界が守られているから、いい関係だねって」


 「それに」と怜は足元のニャー太を抱き上げ、ぎこちなく撫で始めた。


「みんなにはたくさんの感情がある。それを一人で抱えようなんてしんどくて大変なはずなんだ。ならむしろ、その世界内で三人同じものを共有するのは合理的とも言えるんじゃないかな。......感情があんなに重いものだなんて、全然知らなかったよ」


 目を伏せながら呟かれた最後の台詞は、妙に実感がこもっていた。

 鼓動が速まっていくのを感じた。目も少し熱い。......無性に泣きたくなるのを必死に堪える。

 ふと階下から寝ぼけた声が怜の名を呼んだ。恒輔だった。


「恒輔くんが起きたみたいだね。ちょっと向かうよ。......記憶も感情もない人間が、長々と偉そうに説教じみたこと言ってごめんね」

「い、いえ......お話できてよかったです」

「そう思ってくれてるなら嬉しいよ。じゃあ、また朝食の時間に」


 階段を降りかけた怜は、「そうだ」とこちらを振り返る。


「梓くんから聞いたけど、宮重正二郎の失敗作の話は雑誌のインタビュー記事を読んだ人しか知らない話らしいね。でも俺は本当に記億がなくて、あのときに一部の記憶が蘇ったみたいなんだ。信じるかは君次第だ」


 「それだけ言っておきたかった」と残し、今度こそ怜は下へ降りていった。

 陽介はその背中を見送った後、手を組んでそこに額を押しつけて下を向いた。顔を覗き込みにニャー太が足元にやってきたが、その鼻先に雫が落ちてきて驚いて逃げていった。その雫は床に小さな水たまりを作るまで落ち続けた。


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