11「攻防」
上から降ってきた怜は、着地するや否や大聖の隣にいた狼型を蹴り飛ばした。「は......?」と間抜けな顔を晒した大聖は、呆気に取られたまま狼型の消えた方へぎこちなく首を動かす。その間に怜はクラゲ型を素手で掴み、これもまた狼型と同じ方向へブン投げた。チャラッと手首で白のブレスレットが揺れる。
「......なるほど。やっぱり実体はあるみたいだね」
バグ霊を捉えたという事実を手を握って開くことで確かめる。次いでバグ霊を使役していた人物――大聖の方へ顔を向ける。目が合った大聖の喉から「ヒッ!」と引きつった悲鳴が上がった。余裕の態度はすでに彼方へ追いやられ、今大聖の表情を彩っているのは未知に対する恐怖だった。
大聖が恐怖を感じたのも無理はない。怜の顔は無表情で、メガネの奥のやたらと黒い瞳孔がキュルッと鋭くなっていた。その細い細い瞳孔に、自分の姿がはっきりと映っている。逃げられない。この強大な存在からは、決して。本能的にそう感じた大聖は、悪寒にぶるりと震えた。
怜は特に何も感じていなかった。ここで何を感じるべきかわからなかった。ただ、と背後を振り返る。唖然とした様子でこちらを見つめる仲間の中に、未だ腹部を庇ったままの林太郎がいる。怜は林太郎が攻撃を受けた瞬間を見ていた。
仲間を守る存在としての自分が、心の中で声高に主張する。仲間を傷つけたそいつをそのままにしておけないと。
上方から名を呼ばれた。顔を上げれば、自分が飛び出してきた端の部屋の窓から、ニャー太を抱いた状態で恒輔が顔を出していた。
「れぇぇーーいッ!! 話を最後まで聞けっちゅーーーねんッ!! まずは大将潰せッ!! 今隣におる一級フラグ建築士の金髪や!!」
「失礼なこと言ってんのは理解できたぞおおいッ!!」
我に返った大聖が思わず怒鳴り返す。だが怜が「わかった」と冷静に返すと、その肩がビクッと大げさに跳ねた。大聖は恐怖のあまり体幹が弱くなってしまったのか、振り向いた拍子にバランスを崩して後ろへ倒れた。――前髪を、矢のごとく振り上げた怜の足が掠めた。
「ギャー!!」とたまらず汚い濁音ボイスをせり上げた大聖は、一時手綱を離したバグ霊を制御しなおし、這う這うの体で脅威から素早く距離を取った。倒れていなければすぐに無力化できたのだが、どうやら彼は運が良いらしい。
怜は大聖から目を離さず、背後に呼びかけた。
「みんな、大丈夫? 特に林太郎くん」
「お、おう、とりあえず無事だ。林太郎も何とか平気そうだ。おまえ、バグ霊相手でも立ち回れるぐらい強えんだな」
「......そうみたいですね」
冷静に返したものの、現状に対する警戒は高まるばかりだった。立ち回ることはできるのだろう。攻撃を通すこともできる。だが、それで何とかなるかと訊かれると首を傾げざるを得ない。現に、大聖はすでに二匹のバグ霊を再度従えさせている。落ち着いたのか、「ふふ......」と口元を歪めて笑う大聖に先ほどの恐慌の様子は見られない。
「まさかこいつら相手に戦えるとは、それこそ怪物みたいだな」
「そうだよ、俺は記憶も感情もない怪物。だからこそ、相手できるのかもね」
肩を竦めてそう返せば、大聖は理解不能と言いたげに片眉を吊り上げたが、すぐにニヤァと下卑た笑みを浮かべる。
「なら、怪物比べといこうじゃないか!」
大聖は二匹同時に襲わせた。ギュンッと異様なほど長く首だけを伸ばし、狼型が噛みつきにかかる。ガキンッと牙と牙がぶつかり合った。
「普通に気持ち悪いね、君」
さらりと罵倒した怜は狼型の攻撃を跳んでかわしていた。怜はその頭を踏み台にしてさらに跳んだ。盛大に顔を引きつらせる大聖に向かって踵落としを食らわせようとするが、寸でのところでクラゲ型が柔らかい頭で盾になる。怜は反動をつけて飛び退いて距離を取った。
――容赦無く足を振り下ろしたつもりなんだけど、効いている様子がない。人と化物じゃ違うってことかな。
やはり普通の生命体ではない。まともに張り合っても勝ち目が見えない。......一人なら、逃げるという選択肢を取っていた。
チラリと背後へ目をやる。「仲間」たちは固まって、戦況の成り行きを見守っている。
――ここで潰さないと、空さんたちが狙われる。……守らなきゃ、そう決めたのだから。
抉るつもりで地面を強く蹴り、素早い動作でクラゲ型に接近した怜は触手を複数まとめて根元から掴む。手で引っ張って引き寄せたところで、頭だけを大きく凹むほどに強く蹴り上げれば、ブチブチブチッと触手が引き千切られる。大聖の顔がますます引きつった。
半分以上の触手を失ったクラゲ型を力任せに遠くに投げ捨て、次いですぐさま拳を握って狼型に飛びかかる。大聖が指示を出そうとするも間に合わない。黄色い瞳に迫る拳が映った。
『れい、アえて、よカった。もうモドってきテはいけナいよ』
重なった。
不意に視界を空色が覆い、何も見えなくなった怜は動きを止めてしまう。あの空色が自分を中心にとぐろを巻いていく。色が重なるたびに体が重くなっていく。何が起こっているのかわからない怜の腹部に、ドンッと衝撃が走った。息を詰まらせ、見下げる。怜の腹部に頭を埋めていたのは狼型だった。
そのまま勢いよく首を伸ばした狼型は怜を吹っ飛ばした。雲が流れるより早く目に映る空が素早く移動する。玄関前に身体が叩きつけられるのと同じタイミングで、ニャー太を抱えたままの恒輔が中から飛び出した。
「怜ッ!!」
「やっぱりこいつらには勝てないんだよ!! 殺れ!!」
大聖が狂笑しながら叫ぶ。怜の前に飛び出してきた恒輔に狼型の首が迫る。振り返る恒輔の目前に、今まで見たことのない真っ黒い空間が広がっていた。呆然とする恒輔の肩を咄嗟に掴み、横へ突き飛ばそうとする――その手前で。
狼型がビクゥッと大きく痙攣した後、ピクリとも動かなくなった。
「......ん? いや、おい、何やってるんだ! 殺せって命令しただろ! さっさとこの場にいるやつらを皆殺しにしろ!」
焦った大聖が何度も呼びかけるが、狼型は動かない。むしろ何かに怖気づいているのかすごすごと首を戻し、脱兎のごとくその場から逃げ出した。
「ッ......!? おいおまえ!! 代わりにこいつらを殺せッ!!」
怒りで甲高くなった声に命令が乗る。残ったクラゲ型が半分以下の触手を怜と恒輔に伸ばすが、どういうわけかクラゲ型までもが触手の届く直前に動きを止めた後、ふよふよと去っていったのだ。二匹は完全に大聖の支配下から離れていた。
「ハア!? 何だってんだ!!」と、残された大聖は愕然としながらも怒り狂う。喰われかけた恒輔も庇われた怜も、揃ってポカンとした顔を晒していた。
「チッ! この役立たずどもがあッ!!」
癇癪を起こした大聖がサマーカーディガンの下の懐に手をやり、ニヤリと歪な笑みを浮かべた。よからぬ気配を察知した怜は瞬時に動き出そうとしたが、予想外の声が割り込んできた。
「陽介!」
怜のすぐ傍を風が駆け抜けた。ぶわっと髪が逆撫でされる感覚に驚き、顔を上げた。
怜が目を瞠ったのは他でもない、桜子の獣を彷彿とさせる足の速さにだ。大聖が気づいたときには桜子は彼の目の前にいた。真正面から向かってきた疾風を避けられず、華奢な体が大聖にぶつかった。
速さが加算されたせいで大聖は大きくよろめいたものの、歯を食いしばって何とか踏みとどまり、桜子を突き飛ばした。「きゃっ!」と桜子は塀にぶつかって倒れた。
「弱いくせに邪魔すんなッ!!」
「その弱いやつに隙を作られてるのはどこのどいつだ」
見下しているから、思わぬ反撃を食らう。
桜子に気を取られて油断していた大聖は、自身に迫るもう一つの影に気がつけなかった。正面を向いた瞬間、大聖は腹に拳を撃ち抜かれて息を止めた。体勢が崩れたところで顔を上げれば、相手の足は中段に上げられていた。大聖は慌てて腹を庇うが衝撃は顎を貫いた。前蹴りに見せかけた上段蹴り、空手の技だった。
「ガッ......!?」
脳を揺らされたことでまともに立てなくなった大聖はその場に崩れ落ちる。気を失ってはいなかったが、完全に地面に突っ伏していて起き上がれそうにない。
陽介は「大丈夫か?」と桜子に手を伸ばして立ち上がらせ、見ているだけだった怜たちに声を張り上げた。
「今のうちに逃げましょう! 急いで!」
その声に真っ先に空が反応し、あんぐりと口を開いたままの梓を引っ張っていく。案外けろりとしていた怜も恒輔と頷き合って駆け出す。林太郎だけが、陽介と桜子が追いついてから陽介に背負われて一緒に逃げ出した。
「ぐッ......待......て......」
怜が振り返れば、大聖は倒れたままこちらに手を伸ばしていた。当然その手が届くことはない。
「覚えて、いろ......」
口の動きでそう言っているのがわかった。負け犬の遠吠えにしては狂気じみた執念。怜が前を向くまで、大聖がその目を閉じることはなかった。
全力で逃走した一行は、一旦歩道橋の上で足を止めて息を整えていた。荒い息遣いだけがその場を占める中、怜だけが息を乱さず静かに周囲を警戒していた。
「ハアッ、ハアッ、怜、自分、大丈夫なんか......?」
「特に痛みとか感じないから多分大丈夫。恒輔くんやニャー太は怪我してない?」
「オレたちは平気やけど......」
恒輔は何か言いたそうではあったが、結局何も言わなかった。いや、上手く口にできないといった方が正しいか。おそらく、怜を除く全員が急な運動以外にも緊張と恐怖から解放された安堵で思考がまとまっていない。梓もその一人で、手すりに身を預けたままガクガクと震える膝を他人のもののように眺めていた。
生きてる。だけど、もしも怜が戦ってくれなければ死んでいた。
バグ霊を後ろにつけられた状態で紙を渡せと脅されていたとき、林太郎が吹っ飛ばされたときのことを思い出し、呼吸がだんだん短くなっていく。そこで梓はハッと気づき、慌てて陽介に容態を診られている林太郎に詰め寄った。
「おまえ、大丈夫か!? 骨とか折れてないか!?」
「はあ? 何を急に......」
「今、痛くないか!? 平気か!? オレが......オレが、守れなくて......ほんと、ごめん......!!」
取り返しのつかない罪を犯したかのように謝罪を口にして項垂れる梓。両肩に置いた手は震えてしまっている。頭上から林太郎の困惑する視線が被せられた。そこへ空がやってきた。
「おい林太郎。一度怪我の部分見せてみろ」
「えっ」
林太郎が動揺に目を泳がせたのが梓には見えた。
「気づかない間に骨が折れてるかもしれないだろ? 直接見なきゃわかんねえからな」
「いや、いい......」
「あのなあ......俺たちが信用ならないのはわかってるけどそうも言ってられねえだろ。おら梓、そいつちょっと押さえとけ。すぐに終わるからな暴れるなよ」
「空さん、待っ――」
嫌な予感がした梓が制止をかけるより早く、空が服をめくってしまった。林太郎の腹部が白日の下に晒された。
中心にあったのは真新しい大きな赤黒い痣、おそらくそれが先ほど受けた攻撃による傷だろう。断定できないのは――その他にも無数の傷が林太郎の腹に広がっていたからだ。時間が経って青黒い斑点と化した痣。未だ薄く赤が引いている切り傷もいくつか。ダメだと我慢しようとしたが、耐えられなかった。
「うッ......ぅえぐぅッ」
梓は慌てて立ち上がって欄干の向こうへ口を広げると、吐瀉物を遠慮なく数メートル上から落とした。口元から漂うすえた臭いにまた吐き気を催し、何度かに分けて吐く。悪循環だった。慌てた恒輔の声がどこか遠くに感じられた。恒輔の指示で怜に身体を支えられ、持ってきていた水でうがいさせられる。醜悪な臭いが薄らいだ。
さっき、何を見た? あんなの、ただの怪我じゃない。自分の身体にもつけられたことがあるから知っている。あれは、人の手による悪意の――
身体が浮いて、いつのまにか逞しい背中に張りついていた。梓を背負った空は怜と恒輔にさりげなく林太郎たちを見守るよう伝える。
「けれど、お二人を疎かにしたら真っ先に狙われるんちゃいますか?」
「俺が梓くんを背負いましょうか? その方が......」
「いや、大丈夫だ。ここから拠点までそう遠くはないしな。周囲の警戒だけ頼む」
頑ななリーダーの意思を感じたのか、怜と恒輔はこちらを気にしながらも先へ歩いていった。いつのまにか微妙に空気の流れが変わっていることに二人は気がついたようだが、何も追及してこなかった。少し遅れながら空もゆっくりと歩きだす。
「空さん......」
「さっき見たことについては、せめてあとの二人には言うな」
それだけ告げて、以降空は黙ったままになる。それが空本人の言葉でないことくらい、さすがの梓もわかっていた。
顔を上げ、肩を並べて歩く三人の背を見る。林太郎を挟んだ二人が何やら彼に話しかけているようだが聞き取れない。林太郎も何の反応も示してないようだ。
三人の姿はこれだけ暑い場所で汗も流しているというのに、服の袖は少しも捲られていなかった。
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