10「異形を従えし者」
「あれはクマゼミだな」
さて、ここで少し時間を遡って焦点を変えよう。変更先はもちろん林太郎たちのところだ。
彼らは現在雑多な印象のある居間の探索をしていた......のだが、まともに動いているのは陽介のみで、あとは食卓に座って見つけ出した本を読んでいるか、隅のソファに座って足をぶらぶらさせているだけかのどっちかだ。
割と最初からその状態で過ごしていたわけだが、ここで不意に林太郎が呟いたのが先ほどの台詞である。
「外の、セミのこと? わかる、の?」
「図鑑で書かれていた鳴き声がこんな感じだったし、音声データも聞いたことがある。多分間違ってない」
「それ、いつ知ったの?」
「音声データを聞いたのは五歳の頃。図鑑で読んだのは小一だったな」
「......やっぱり、林は、すごい、ね。よく覚えてるね、そんなの」
「記憶力には自信あるからな。それが良ければ大抵の知識は吸収できるし、組み合わせて応用できる」
「おまえがすごいのは今も昔も変わらないから、いい加減サボるのをやめろ。二人ともほとんど何もしてないだろ」
ここでとうとう陽介が呆れ混じりに二人を振り返って諫めてきたわけだが、林太郎は「あのなあ」と逆に陽介を諭す態勢に入る。
「たしかにこの家にはセミがいた。それはオレとしても気になったよ。この町で唯一見つけた生命体なんだからな。あの能面寝ぼけ野郎の猫は向こうから一緒に来たって話らしいし」
能面寝ぼけ野郎=怜のことである。悪口が凄まじすぎてびっくりするレベルだ。
「けどな、逆に言えばそれは『ただセミがいただけ』の話だ。あのセミが何か特殊なセミかどうかもわからねえし、そもそも誰かが持ち込んだものが逃げ出した可能性だってある。そうじゃないにしても、それがこの世界から抜け出す手がかりになると思うか? この家自体手がかりがあるとは思えねえし、そもそも......」
林太郎は顔を上げ、二人の顔を交互に見やって問う。
「本当に
部屋が静かになった。陽介は「それは......」と反論しかけるが何も言えずに顔を俯かせ、拳を握りしめて肩を震わせている。
「......私は、やだ」
桜子は唇をわななかせ、目をギュッと閉じて耳を塞いだ。
「もう......あんな場所に、帰りたく、ない......! 二人に、傷ついてほしくない......!」
「それはオレも同じだ、桜」
林太郎は本を置いて立ち上がると、桜子の前まで来てしゃがみ、そっと耳から両手を外させた。
おそるおそるといった様子で開かれた桜子の目は涙目だった。見えているだろうかなんて心配をしつつ、しっかりと目を合わせて優しく微笑みかけた。
「この世界はとんでもない化物はいるけれど、オレたちを知る奴はいない。向こうよりずっと良い世界だ。......あいつらから解放されたら、ここで三人で暮らそう。自由になるまでの辛抱だ。男ばっかで辛いけれど、頑張れるか?」
「......うん、ここで頑張れば、三人だけで、暮らせる。私、頑張れる、よ」
ポロリと一粒だけ涙を流して頷いた桜子を一度柔く抱きしめてから離すと、今度は陽介を見る。陽介の目に迷いはなかった。
「こうしているのは、昨日とこれから三日間世話になる恩返しだ。あの人たちを全面的に信じているわけじゃない」
「知ってる。おまえは昔からそういうところは律儀なやつだ」
そう返せば陽介はフッと笑った。
「あの人たちとおまえたち、どっちかが化物に襲われたら、俺は迷わずおまえたちを助けるよ」
それを聞き届けた林太郎も口元に笑みを浮かべる。やはりこの二人が、この二人の傍だけが安心できる。怜の誘い文句に一瞬だけ揺れたのも嘘ではない。だけど、もう無理な話なのだ。
――自分たちが、誰かを信じるなんて。
「林、伏せてッ!!」
突然のことだった。桜子の悲鳴に似た叫びが耳をつんざいたかと思えば、ほぼ同時に林太郎は床に押し倒される。何が起こったのか確認しようとした直後、桜子の肩越しに玄関の方からビュンと伸びた黒い棒が真上の壁を抉った。それが通った道筋にさっきまで自分の頭があったことに気がつき、ヒュッと喉が鳴る。
「こっちだ!」と陽介が自分と桜子の手を引っ張って起き上がらせ、三人揃って隣の和室へ駆け込んで襖を閉めた。これで向こうから自分たちの姿は見えなくなり、バグ霊の特性上相手は襲ってこない。
「桜、ありがとな! マジで助かった!!」
「だいじょう、ぶ。そんなことより、どうして、バグ霊が、いるの......! いつ、入って......!」
「というかあの人たちは気づいてないのか!? これだけ近いのに、どうして誰一人反応が――」
「おや、ここにネズミがもう三匹いるね。全く、邪魔が多くて困るなあ」
想定外の方向から割って入ってきた第三者の声に、三人はバッと反対を振り返る。
サッと開かれた襖の向こうにいたのは、英国貴族を真似た感じで金髪をセットした見知らぬ青年だった。表情は余裕綽々とも見下しているとも窺える。その背後に悔しげな顔をしながらも両手を上げている空と梓、彼らの背後には大型犬......否、狼型のバグ霊の姿があった。
狼型が三人を見てユラリと揺れる。ビクッと身体が強張ったが、そこで金髪が「ヘイストーップ」と手を上げた。
「おまえの仕事はその二人の見張りだ。こいつらを食うことじゃない」
面倒臭げに金髪が振り返って命令すれば、それだけで狼型はピタッと止まり、三人から視線を外した。「なっ」と陽介が信じられないと言いたげに金髪を凝視する。その反応に気づいた金髪は、顔を戻して得意げに言い放った。
「おやおや、こいつが言うことを聞いたのに驚いたか? 当然さ。俺はこいつらを従えさせる力を手に入れた選ばれし者なのだから」
「......へー? じゃあその選ばれし御方は、一体何の用でわざわざ庶民の前に姿を見せたんだ? てかいつこの家に入ったんだ?」
こんなふざけた奴でもバグ霊を従わせる力は本物だ。下手に刺激を与えない方がいい。そう判断しても癖は消えないもので、林太郎は金髪のキザな台詞に合わせて皮肉的に問うた。幸い金髪は気に障った様子もなくあっさりと答えた。
「いつ? 最初からさ。おまえらが後から入ってきたから隠れたわけだ。この俺、
そう言って金髪、もとい大聖は「フフン」と髪を払う。言い方といい仕草といい、いちいち癪に障るが黙って続きを促した。
「それで、何で姿を見せたか? ああ後ろの二人にもまだ言ってなかったな。なに、こんな脅しのような真似をして申し訳ないが、理由自体は単純なものだ」
大聖はクルリと二人の方を......正確には梓の方を振り返って告げた。
「おまえの持っているそれを、俺に寄越せ」
梓の手に力が入る。手に持っているのは折り畳まれた紙だった。空が訝しげに眉をひそめた。
「この紙が何なんだよ」
「教えるわけがないだろ。ま、おまえらが持っていても無意味なものだとぐらいは言っといてやろうか」
「だから早く渡せ」と迫る大聖。しかしどうも梓は迷っているようで、その視線が左右を往復して定まっていない。早く渡せよとイラつく反面、その迷いは林太郎にも理解できた。
何がどう不安にさせているのかわからない。わからないが、直感でこいつに渡したら良くない気がする。だが渡さなければ状況は変わらない。それどころか大聖が目に見えて苛立ちを募らせているため、悪化する可能性が高い。
――クソが......何か、何か打開策になりそうなものはねえのか......!
思考を巡らせる。人数はこっちが勝っている。要はあのバグ霊さえどうにかできればと考える。バグ霊に対抗できそうな相手といえば、それこそ......。
「......そうか」
ピンと来て思わず呟く。パズルのピースを本来はまらない場所に無理矢理はめるような強硬手段ではあるが、これなら一瞬の隙は作れるかもしれない。
林太郎は大聖が梓に意識を向けている隙に、陽介と桜子に目配せをした。林太郎の視線に気づいた二人がこちらを見ると、林太郎は背後の襖に目をやり、それから狼型のバグ霊の方を顎で示した。すると二人の表情も理解が及んだものに変わる。
三人で頷き合うと、すぐに左右に分かれる。林太郎は襖に手をかけたところで「なあ、あんた」と梓を呼ぶ。
「ただの紙切れに何をそんなにぐずぐずしてるんです? 早く渡してやってくださいよ」
「だ、そうだ。ほらお仲間からも言われてるんだ。早くしてくれないか」
「そうそう」
林太郎は呆れたフリの表情から――一転、ニヤリとあくどい笑みで言った。
「早く渡して、自分が上だと思って油断しているやつの間抜け面を見せてくださいよ」
その台詞に大聖は厭らしい笑みを一瞬で消し、急いで背後を振り返った。だが遅い。
「あんた、その紙切ればかりに目を奪われて他のことに気が回ってないだろ? オレたちも逃げているとこだったんだ。――巻き込み御免ってなあ!」
襖を開く。一気に広がった視界に、「それ」が最初に捉えたのは正面にいた大聖だった。
三人を襲っていたクラゲ型バグ霊が、大聖目がけて真っ直ぐ飛びかかる。「くっ!」と大聖は突然の奇襲に狼狽えるも咄嗟に手を払う仕草で狼型に指示を出す。狼型が空と梓を飛び越え、黒い塊同士が真正面からぶつかりあった。――事態はそこから急転しだす。
まず狼型が離れると同時に、空と梓は横の扉から廊下へ飛び出して玄関へ駆け出した。それとほぼ同じタイミングで三人も玄関へ逃げる。「ああっ!?」と声が聞こえるが何もかも遅い。一行は林太郎を先頭に外へ飛び出した。
「ってここまで逃げたのはいいけど怜さんたちどうすんだよ!?」
「他人に構ってる場合じゃないですよ! あの人たちならどうにかなるでしょ!」
「はァ!? 他人ってなんだよ!! 仲間だろ!?」
「どうでもいいからさっさと逃げ――」
「口論する余裕があるのなら、もう少しお相手願えないかなァ?」
派手な音を立てて窓ガラスが割れたかと思うと、そこから飛び出してきたクラゲ型が林太郎の前に降り立つ。
一瞬の隙のつもりだった。つもりだったが、予想よりも立て直しが早すぎる。林太郎は慌てて足を止めるが、クラゲ型がその隙を狙って伸びた触手を振った。破裂音と聞き間違えそうな鋭い音はかなり近くで聞こえ、気がつけば圧倒的な力で自分の体は浮いていた。直後、もろに地面に叩きつけられ、数秒気道が塞がれた。
「かはッ......!!」
「林太郎ッ!!」
「林ッ!!」
陽介と桜子が重ねて悲鳴を上げて駆け寄ってくるが、腹部を押さえて呻くだけで反応ができない。顔を青ざめた梓が走りだそうとするのが見えたが、その傍らの地面がしなった触手によって抉られ、動きを止められた。
「無駄に頭が回って行動も早い。面倒臭いタイプの集まりだな。......この俺に舐めた真似するとは、度胸だけは買ってやろうか」
玄関から悠々とした足取りで大聖が出てくる。その後ろには元から大聖が従えていたバグ霊がいた。今さっき林太郎を襲ったのは、最初に三人を襲ったクラゲ型バグ霊だ。「なるほどな」と空が確信ありげに言った。
「バグ霊を従えさせる力だっけか? それを使ってもう一匹も従えさせたってわけか。全く、自分で言っといて意味がわかんねえよ。いつから厨二要素まで取り入れたんだこの世界は」
「俺が意味わからないのはこいつらに対するふざけた呼び方だが、そこはまあいい。これで俺の本気がわかっただろう? 早く紙を渡せ。さっきは手加減をしたからその程度で済んだんだ。今度は本気でこいつらを暴れさせるぞ」
前方からクラゲ型、横合いから大聖と狼型。じりじりと詰め寄られて空と梓は後退する。陽介と桜子も林太郎に肩を貸して背後へ下がった。
大聖は気味が良いと言わんばかりの笑みを浮かべ、大股で五人に迫った。
「さあどうする? 大人しく差し出すか? それとも意味もわからないままその紙のために命を投げ出すか? ああ、お仲間に助けてもらうのもアリだな。俺の見立てでは二人ほど残っていたように思えるが、さあどこから颯爽と――」
サッと、大聖の顔に影がかかる。気づいた大聖が煩わしそうに、けれど不思議そうに影の出所を確認しようと顔を上げて。
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