9「誰かがいたはずの家」
いつのまにか歩道橋から下りていた一行は、とある古くさい家の前まで来ていた。全体的に黄ばんでいる壁の家は二階建てで、玄関に入ってすぐ右横に二階に届くぐらいの大きな木があった。セミの音は、その木の高いところから聞こえてくる。
恐ろしいほど生物を見かけなかった。ここに来てからまともな動物といえばニャー太ぐらいだった。よくよく考えてみれば他の犬猫はともかく、蚊などの小さな虫すら見当たらなかったのは不気味な話だ。
……だからこそ、だ。なぜ、急にそれは現れたのか。どこか歪んだ夏の世界に、なぜその一匹だけが存在しているのか。
空がおもむろに門を開けて中へ入り、引き戸の取っ手に手をかけた状態で後ろの六人を振り返った。
「……入ってみるか?」
お互いに何となく顔を見合わせ、異論が出なかったために中へ入ることになった。
綺麗な家かと言われればそうでもない。食卓のある居間の隅はソファが陣取っており、反対側には箪笥や引き出しが並べられている。その上にいろんなものが多く積まれており、最低限揃えてはいるが少しでも揺らせば一部は落下してしまうだろう。整理はされているが部屋が狭く感じられ、雑多な印象だ。
隣の和室はクローゼットがあるだけ。そのさらに向こうの和室には畳だけで何もない。廊下を歩けば床が軋む。不安を煽る音が木霊する。
怜はスッと目を細め、空気を感じ取る。人がいないという意味ではない静けさを感じた。洗練された静謐さ、不思議な空間だった。
「やっぱ誰もいないみたいですね」
「ここまで来れば遠慮することもねえだろ。誰かが隠れてるところは鍵かかってるだろうし」
「あの、家の中探索するなら分かれません?」
廊下の様子を確認していた空と梓に、恒輔が割り込んだ。
「そうですね。この家の狭さなら、何があってもすぐ駆けつけられますからね。空さん、オレたちは一階の奥から探索してみましょう」
「おう、そうだな。あ、三人は俺らと一緒に行動しなくていいから、同じ一階の手前から調べてみてくれ」
振られた三人は互いに目配せをかわし、それから「……わかりましたよ」と林太郎が不承不承といった声音で了承した。
「ほな、オレらは二階行ってみよか。セミはだいぶ高いところにおるみたいやし、いけそうなら捕まえてみようや」
「うん」
恒輔の誘いに頷く。これで各々役割が決まった。
「じゃ、解散! なんかあったらすぐに大声で呼べよ」
空の号令を合図に、彼らは三方向に分かれた。
一階の奥から調べることになった空と梓は閉じられていた襖を開けるが、目に飛び込んできた光景に思わず圧倒された。
その部屋の壁を埋め尽くしていたのは昆虫の標本だった。標本によってフレームの大きさも、デザインも、もちろん入っている昆虫も違う。一体どこで手に入れたのか、鮮やかな色合いを持つ昆虫が美術館の絵画よろしく箱の中で佇んでいた。
「初っ端からとんでもねえ部屋を見つけてしまったな……」
空はうわごとのように呟きながら部屋へ足を踏み入れる。昆虫は知っているものもいれば、見たことも聞いたこともないものもいた。均整のとれた並び方は、自然と家主の虫に対する繊細な手つきを彷彿とさせた。この人はきっと――自分と違って、色づいた毎日を送っていたのだろう。
――そもそも、ここに住んでいたやつって、
ふと思い浮かんだ些細なとっかかりは、大きな疑問に変わる。
こんな、化物がいる世界に住んでいたのか? ただの人間が、怯えることなく充実した毎日を送りながら?
さっきまで羨望に似た感情を抱いていた心がスゥーッと冷えていく。今さらながらに、この世界の家の不自然さにゾッとした。
どの家にも誰かの趣味らしき物が置かれていた。
「あのセミ、この中から抜け出したとかですかね?」
梓がしゃがんでいる前にあったのは、低い位置に飾られたセミの標本だった。とりあえず先ほどのことは置いておき、その隣にしゃがんでセミの標本を眺めた。
「標本が生きてるとは思えねえがな。てかそもそもあれはどのセミだ?」
「え? ミンミンゼミかアブラゼミのどっちかじゃないですか?」
「適当か。鳴き方がミンミンじゃねえし……アブラゼミってどんな鳴き方すんだ?」
「......わかりませんね」
首を振る梓は、そこで部屋の入り口の方を心配そうに見やった。
「あの三人、大丈夫ですかね……」
林太郎たちのことが気になったらしい。「おまえってさ」と近くの標本の裏を調べながら言った。
「あいつらのこと、なんだかんだ気にかけてるよな」
「……思うことはたくさんありますよ。もう少し信じてほしいとか、そんなに警戒したり怯えたりしないでほしいとか」
「でも」と空を真似てセミの標本に手を伸ばす。
「やっぱり怜さんの言うとおり、悪いやつらじゃないとは思うんです。強制的に仲間にしたのはこっちですけど、それでもこうして一緒に行動してくれる。嫌々でも話しかければ答えてくれる。だからこうして真摯に接していけば、いつか心を開いてくれるんじゃないかなって期待してるんです」
「道程は長いですけどね」と苦笑する梓。それが寂しげにも見えたのは錯覚か。
すげえな。空は虚を突かれた表情で、梓の横顔を見つめて純粋にそう思った。自分なら面倒臭いと放置するところを、梓は諦めずに向き合おうとしている。その本気になれる姿勢が――少し、羨ましく感じた。なら行動に移せばいいだけの話のはずだ。けれど――
『そんなの、無意味も同然じゃん』
過去の声が脳裏を過ぎる。芽を出しかけていた希望が完全に消失し、気持ちが冷めた。
……ああそうだ、そうなんだ。どうせ俺が何したって、
「無意味なんだったな」
「え? 今なんて――」
カサリ。
空の自嘲の呟きを訊き返してきた梓の方から、紙に触れる音がした。
見れば、梓はセミの標本の裏に手伸ばしているところだった。梓は驚きに瞠目し、すぐに標本ごと取り外して裏返し、触れたものの正体を見た。
「えと……なんだこれ?」
階段の上にニュッと首だけ伸ばし、怜と恒輔は耳を澄ませた。ニャー太が怜の頭の上で鼻だけ突き出す。
「……気配はしないね」
「まあ、物音とかせえへんから一応は大丈夫やろ」
「セミはうるさいけどな」とうんざりとぼやく恒輔。二階に近づいてからシャンシャンと鳴くセミの音は大きくなっていた。
「どうする? 端の部屋から調べてみるか?」
「そうだね。ここに何かしら手がかりがあればいいんだけど……」
一番右端の部屋の前まで歩き、ためらいもなく扉を開いた。
……物置、だろう。無造作に積まれた紙の束、図鑑。転がっているのは図工で使いそうな道具。「標本の作成キットやな」と恒輔が教えてくれた。乱雑に置かれているせいで足の踏み場が少ない。
「……すごい量だね」
もはや避けることを諦めて踏んでいけば、凹凸感がダイレクトに足の裏に伝わる。恒輔が紙の束の一つを手に取ってペラペラとめくった。
「これ、全部コピーみたいやな。ネットに上がってる学会の資料を自力で集めたんやろか。よほどの虫好きやな」
なるほど、言われてみれば図鑑はどれも昆虫系のものばかりだ。床を見渡しながら歩いていると、降ろしていたニャー太が何か見つけたらしく、部屋の隅の方へ歩いていった。追ってみると、この部屋にしては珍しいものが積み重ねられていた。
チェスやオセロ、いわゆるボードゲームの盤だ。周りにコマも転がっている。他には外国産のものと思われるカードゲームの箱もそれなりの数が散らばっていた。中身は入っているようで、適当な一つを手に取って開けてみれば、カラフルな背景に数字や記号が描かれたカードが出てきた。
「それはウノやな」
気づいた恒輔が近くまで来て覗き込んできた。
「ウノ?」
「おん。アメリカで考案された――」
「それ、また長くなる?」
「……すまん」
少し顔を赤くして謝りつつ恒輔が手に取ったのは、羊が描かれたパッケージだった。「ぎょうさんあるなぁ」と呟いてそれを見つめる恒輔の眦が緩む。穏やかで、どこか懐かしそうだった。
「ウノ以外にもやったことあるの?」
「ここにある全部は覚えがある。どれも小さい頃に遊んでたなぁ。懐かしいわ」
「恒輔くんって、ゲームに詳しいなら結構買ってやり込んでるってことだよね? 買うの、大変じゃなかった?」
「オレの家、それなりに金はあるから買うのに苦労はせんかったよ。人からもろうたのもあるし」
「恵まれていたんだね」
そう返せば、恒輔はさっきまでの穏やかさを消して「……さあ」と薄暗い声で返した。瞳は、もうパッケージには向いていない。下げた視線は冷たさを孕んでいた。
何かあったのか問おうと口を開いて、閉じる。そっと隣から離れて作業を再開した。
それから数分は部屋中を漁ってみたがめぼしいものは見つからず、仕方なく二人は隣の部屋へ移動することになった。怜は特に警戒もせず、何の変哲もないドアノブを掴んで扉を開いた。
「――ッ」
息を呑んだのは、どちらか。
静かだった。この家はそもそもが恐ろしいぐらい静かだったが、ここは、この部屋は、呼吸することさえ許してくれないと感じた。静寂が肌に突き刺さる。何者かが、入る者を見定めているかのように。
日陰に覆われた部屋には畳にちゃぶ台、一つの窓。それだけ。物の多い家の中で、唯一切り離された何もない空間だった。下で空たちが探索している音も聞こえない。聞こえるのは、セミの音だけ。それが今までで一番大きく響いている。窓の外には、あの木があった。
怜は小さく息を吐いて、一歩、部屋の中へ足を踏み入れる。許してほしいと、誰に向かってなのかわからない言葉を心の中で呟いて。ニャー太が迷いなく主人の後を追う。少しためらったが恒輔も部屋へ入った。
怜はまっすぐ窓まで向かい、音を立てずに開けた。
「……いた」
正面の木、手の届く距離にセミがいた。鳴き声が至近距離で聞こえる。セミの中でも大きい部類のようで、羽の下の胴体が大きく振動している。羽は一際目を引く緑主体の虹色を持っており、セミが動かす度に光の加減で様々な色に揺らめいた。
そっと手を伸ばせば、意外にも大人しく捕まってくれた。鳴き声も止まったのを不思議に思って、よく見ようと目の前に持ってきて――パッと視線が斜め下に引き寄せられる。
どうして気づかなかったのだろう。セミが止まっていたその下、こぶし大の空洞の中に転がっているものがあった。もう片方の手を突っ込み、ゆっくりとそれを取り出す。
「小瓶……?」
不可解な声を上げ、ほんのわずかに眉根を寄せる。
穴の中にあったのはコルク栓で閉じられた小瓶だった。口周りに赤い紐が巻き付けられ、中には紐と同じ色の欠片が入っている。瓶の破片に近い形だが、陽光の下で煌めく輝きはただの無機物には思えなかった。
中を開けてみようかと考えたそのとき、不意に威嚇が聞こえた。驚いて見下ろせば、足元のニャー太がこちらに向かって毛を逆立てていた。
「ニャー太?」
彼が急に警戒心を露わにした理由がわからず、とりあえず宥めようとしゃがみかけた瞬間。
「セミを離せ、怜ッ!!」
恒輔の焦った叫び。意味を理解するより先に本能でセミを放り投げるが遅かった。
放たれたセミは膨らみ始め、胴体が勝手に引き裂かれて半分に分かれる。脱皮のごとく中から飛び出してきたのは黒い靄だった。人間サイズのセミをかたどった靄は頭部だけ人の形をとり、その輪郭はすぐにでも崩れそうなほど不明瞭に漂っている。ゆらゆら揺れる頭部の中で、黄色いぼやけた瞳がギロッと怜を捉えた。
バグ霊。気づくが回避する間もなく降ってきたセミに伸し掛かられる。背中をもろに打ちつけて一瞬息が詰まった。
「怜ッ!」
恒輔が助けようと手を伸ばすが間に合わない。振り上げた細い前足、先端の針が怜の左目へ目がけてまっすぐに――
「……ア」
呆然とした声が零れる。声の主は怜でも恒輔でもない。再び静寂を取り戻した空間の中、怜は目を丸くしてセミの方を見た。
前足が、目の一センチ手前で止まっていた。セミの――バグ霊の体が小刻みに震えている。
「ア……あアッ……」
壊れたラジオがときどき発するひどいノイズ、それを思い出させる人外の声は、間違いなくバグ霊が発していた。
「......話せるんか?」
バグ霊の新事実に恒輔が愕然となる。二転三転する展開に怜は警戒するが、バグ霊が襲ってくる様子はない。今のうちだと黒い身体の下から抜け出そうとした。
「……れ……イ……」
「――え?」
聞こえた単語に固まる。顔を上げれば、不明瞭な黄色い瞳がこちらをしっかりと見つめている、気がした。バグ霊は、怜を認識していた。
何が起こったのか呑み込もうとしているうちにバグ霊が急に頭を抱え、苦しげに呻き出した。
「ァ、アアあ、あああ」
相手は敵、人を襲う化物。そのはずなのに、なぜか旧知の友が苦しんでいるという錯覚に陥って。目の前で、色が弾けた。過ぎ去っていく夏の果てに見える、白に混じる空色。その中心でバグ霊が......彼が、夏とともに去ろうとしている。
――手を伸ばさなければ、きっと後悔する。
そんな思いが頭を埋め尽くし、怜は錯覚に惑わされたまま、たまらずその黒い体に触れようと手を伸ばす。
だが自分の手が届くより先に、バグ霊の顔面に蹴りが入って黒い身体が背後に倒れた。その直後に腕を掴まれて無理矢理立たせられた。
「恒輔くん」
「ぼけっとすんな!! 逃げるで!!」
「待って、話ができるかもしれない。話をさせて」
「正気を疑うようなことするなッ!! 早う!!」
切願の声を上げるが恒輔は止まらない。火事場の馬鹿力というやつなのか、引っ張られる力は想像以上に強かった。
抗うこともできないまま部屋の外へ引きずられていく。ひとりでに閉まっていくドアの隙間から見えたのは、こちらを見つめるバグ霊の姿。見えない口が開かれた。
「れい、アえて、よカった。もうモドってきテはいけナいよ」
バタンと音が鳴ったきり、その場は静かになった。
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