8「真夏が叫ぶ」
「ほう」と鏡に映った自分の顔を......正確には頬の部分を見つめながら、恒輔が感心した様子を見せる。怜も実物の方を目を凝らしてじっと見つめていたが、どれだけ見つめてもその頬に傷は浮かんでこなかった。
「結構ざっくりやられてたはずなのにね」
「目が覚めればこのとおりか......。痛みもあらへんし、ほんまに治っとるな。いや、消えとると言った方が正しいか」
「これ、致命傷とかでも次の日までに持ちこたえれば治るのかな」
「怖いこと言うなや......」
「朝食準備できましたよー」と呼び声がかかり、怜と恒輔は一番下の階であるリビングに向かった。
七人全員でもそれなりに囲める机には、すでに空たちが床に直で座って待っている。怜も足元にまとわりついてきたニャー太を抱き上げ、恒輔と並んで正座した。目の前にはトーストの上からこぼれ落ちようとしているベーコンエッグと彩り豊かなサラダ、湯気に乗ってコンソメスープのじんわりとした匂いが鼻孔に届く。
「へえ、何やえらい美味しそうやん。これ、誰が作ったんや?」
「あ、今日の朝食はオレと林太郎たちで作りました。本当はもう少し遅めを想定してたんですけど、こいつら三人とも息ぴったりで手際よくて!」
「はいこれ、ニャー太の分」と蓋の開いたツナ缶を渡され、それを受け取る。前足を伸ばして奪い取ろうとしてきたニャー太と小さな攻防戦を繰り広げていれば、「褒めても見返りありませんよ」と林太郎の声が耳に入る。
「これ作ったのほとんどあんたでしたし、オレたちは特に何もしてませんし。無理に褒めていただかなくて結構です」
「......林、あまり、トゲのある、言い方、するの、危ない。殴られる、かも」
「......すみません、工藤さん。その、何というか......」
いっそわかりやすいくらいに態度に出ている林太郎と桜子に、陽介は片手で顔を覆う。梓は「いーって!」と笑って気にした様子はなさそうだったが。
「でも嘘は吐いてないぞ。オレは本心で褒めてるんだからな。それに殴るなんて真似もしねえよ!」
拗ねながら梓が三人にびしっと断言する。そこで「そういえば」とあることを思い出した空が梓に尋ねた。
「出会って料理を任せたときから、おまえってかなり手際よかったよな。てか家事全般慣れている感じ?」
「あれ、空さんにも言ってませんでしたっけ? オレ、六人兄弟の長男なんですよ。両親が仕事とかで忙しいときはオレが兄弟分の晩飯作ったりしてましたし、それでまあまあ慣れてるんですよ」
「へえ、大変なんやな」
「大変っちゃ大変ですけど、あれでもオレなりに可愛がっている奴らなんで。苦には思ったことありませんよ」
少し照れて笑う梓を見て、ふと怜は名前も顔もわからない家族に思いを馳せる。両親はどんな人物なのだろう。兄弟はいただろうか。友達は、もしかすると恋人なんてものもいたかもしれない。
それでも思い出そうと思えないのは、少し薄情すぎるだろうか。
「てかオレの話はいいですから、冷めないうちに食べましょうよ! トーストは言ってくれればおかわりあるからな! はい、じゃあいただきます!」
「いただきます」と全員が見事にバラバラの挨拶をした。
この世界に来て、二日目の朝のことである。
「それ」は外を平然と出歩いていた。アスファルトを溶かすかと思われるくらい熱烈な視線を送る太陽、黒くユラユラと揺らめく体は一身に光を浴びていた。「それ」は犬の形をしていたが、その背中からは無数の手が不規則に生え、獲物を彷徨い求めて左右に揺れ動いていた。
突如「それ」が振り返って上を見上げた。視線の先にカーテンの閉められた窓。不明瞭な黄色の瞳は動かさぬまま、背中の手だけがグングンと伸びていき、ペタペタと窓に触れて何かを確かめる。
しばらくそうして、やがて気のせいだと判断したのか、手を引っ込めた化物は再び手を揺らしながら反対方向へと去っていった。
「......見つかるところだったね」
「薄々察しとったけど、やっぱオレらが出会った奴以外にも化物っておるんやな」
カーテンの裏に隠れて外の様子を覗き見していた怜と恒輔は、化物が去ったことで一応の安全を確認する。
部屋を後にして玄関で待っている五人のもとへ向かう。真っ先に二人が帰ってきたことに気づいた梓がおそるおそる訊いてきた。
「もしかして、いました?」
「おったおった。まだ二度目やし、ちょっとビビったで」
「でも、もう大丈夫。バグ霊は反対へ向かったよ」
全員が一斉に怜を見た。当人は首を傾げる。
「どうしたの?」
「おまえ、バグ霊ってまさかあの化物のことか?」
「はい。なんか、バグみたいな体だし、幽霊みたいにユラユラしているから、バグ霊」
......センスは、ない。全くない、が、わかりやすい。
悔しいが、全員の中で化物の呼び名が定着してしまった瞬間であった。
ともあれ一応安全の確認はとれたので、軽い荷物を装備して全員外へ出た。
「あっちぃ。
鍵をかけた空がぼやくが、速攻で梓が「ダメです」と返す。
「車は荷物の運搬用ですよ。ガソリンの無駄遣いはできません。あ、そうだ。恒輔さん、スマホを取り出してもらえますか? この世界にいる者同士なら連絡が取り合えるんで、オレと空さんの連絡先教えます」
「おん、わかった」
手早く恒輔と番号交換を済ませた梓は、続いて三人の方を振り返る。
「おまえらも、持ってるなら交換しとこうぜ」
「あー......」
三人顔を見合わせた末、陽介が告げる。
「俺たち三人とも、携帯を持っていないので……できるだけ、あなたたちから離れないようにはします」
「......了解」
目を逸らされながらの返答に、彼らの心情を察したらしい梓は仕方ないという風に了承する。
さすがにまだ信用されていないことは、朝食時の林太郎の発言もあって怜にもわかった。林太郎と桜子はわかりやすく態度に出ているし、陽介も露骨には出していないものの、線引きはしているようだ。彼らの方へ踏み込もうとすればやんわりと足を掴まれ、引き止められる。そんなイメージが怜の脳裏に浮かんだ。
恒輔も言ったとおり、あれだけ用心深い彼らにすぐに信用させるなど不可能。まずは彼ら三人を引き離さない、無下に扱わない。それらを守って地道に信用を得ていくしかない。
「よし、行くか」と空が声をかけ、ようやく一行はバラバラに歩き出した。探索の始まりだ。今回は近場の範囲で、空と梓がまだ歩いたことのない場所へ向かうらしい。
最初は周囲を警戒しつつも梓が明るく話しかけ、それに空か恒輔が返していた。怜は他のものに目移りして梓の話をちゃんと聞いておらず、林太郎たち三人にいたってはガン無視を決め込んでいた。
「......」
だが夏の暑さがその気力すら奪っていく。空が話していたとおりなら、梅雨明け前からいきなり準備もなしに真夏に放り込まれたのだ。鬱陶しそうに袖を捲る者が出始めた。恒輔なんかは首にかけていた黒のストローハットを目深に被っていた。
無言のまま気怠そうに階段を上がり始めた彼らの後を、一匹だけ目の届かないところにいるのも心配だからと連れて来ていたニャー太が、軽い足取りで追いかける。先へ進んでみて地面の匂いを嗅いだり、彼らの足へまとわりつきながら歩いたり、猫のくせに彼だけが暑さも知らず元気そうだ。
「わっ」と林太郎が声を上げ、ニャー太を踏みそうになった足を上げる。彼はほんの一瞬だけ忌々しそうに口を歪め、それから苦笑を装って最後尾の怜を振り返った。
「あの、すみませんが、この猫野放しにするのやめてもらえませんか? 蹴られても知りませんよ」
「ん、ごめん」
トントンと自分の肩を叩くと、耳をピンと立てて反応したニャー太が脇目も振らずに一直線に怜のもとへ向かい、一息で肩を登った。「おお」と空と梓がどよめく。
「おまえ、記憶はないくせに猫はいっちょまえに躾けられるんだな」
「てか今思ったんですけど、怜さんって名前以外にわかることないんですか? 年齢すらわからないじゃないですか」
「年齢なら、恒輔くんと同じくらいじゃないかな」
怜の答えを得て、梓がグルンと恒輔の方を向く。
「恒輔さん、何歳ですか」
「オレ? 今十九やけど、今年で二十歳になるで」
「なんだ、俺とそんなに変わらねえな。俺二十三だぞ」
「へえ、意外と近いんですねぇ」
「てことは怜さんも二十歳ぐらい? みんな成人してるんですねー。と、なると……」
梓は今度は三人を見やる。「来ると思った」と言いたげな顔が三つ同時に表れ、特に林太郎は面倒臭そうな表情を隠しもせずさらけ出していた。そこで気にせず近寄るところが工藤梓という人間の特徴である。迫ってきた梓から桜子が一歩距離を取り、林太郎が一歩前へ出て入れ替わった。
「オレ、十八。おまえらもオレと同じぐらいだろ? なあ年齢ぐらい教えてくれよ」
「オレたち三人とも十六ですよ」
黙ったままでいるよりはさっさと教えた方がいいと判断したのか、林太郎はあっさりと吐いた。梓は「そっか! やっぱ一緒だな!」と嬉しそうに笑う。軽く睨んでくる林太郎を物ともしていなかった。
「怜、おまえ、例えば持ち物とかニャー太から得られる情報とかないのか?」
「持ち物は何も持っていません。ニャー太の首輪にいろいろ書かれてますけど、よくわからないんです。電話番号と住所、あとは知らない名前」
「おまえの名前じゃないのか」
「……同居人かなと。覚えはないですけど」
怜は空に首輪が見えるようニャー太を抱いた。空が首輪に書かれた文字を覗き込む。
「宮重正二郎? 雨宮じゃないのか」
「宮重正二郎!?」
空が首を傾げていると、思わぬところからもう一つ反応が来た。そちらを向くと、しまったという風に陽介が口を押さえていた。
「知ってるの?」
手短かに問うと彼は「いや……」と誤魔化そうとしたが、気になった怜は黒々とした瞳を一直線に浴びさせる。言うまで見つめ続ける所存であったが、その気概が陽介にも伝わったらしく、意外に早く彼は観念した。
「……俺の好きなミステリー作家の名前です。けれど、そんな名前どこにでもありますし……」
「その人の作品、面白い、よね。トリックが、細かい」
「そう! そうなんだよ! 俺はいつもあの人の頭の良さと柔軟性に引き込まれて――」
「陽介、ステイ」
林太郎が身を乗り出す陽介の首根っこを掴む。意外と彼は好きな物事には熱しやすいタイプらしい。そんな感想を抱いていると、「ああ、あの人か」と思い至った恒輔がポンと手を叩く。
「結構長いことミステリー書いてはったけど、何年か前に発表された本がえらい酷評されてニュースにまでなっとったなぁ」
「酷評?」
「俺も聞いたことあるな。まともな精神で書かれた文章じゃないって。てか、もうネットで散々こう言われてたろ」
失敗作だって。
視界の隅でひらりと白い紙が舞い落ちた。気づいた怜は、その紙を目で追って振り向いて――ふつりと、頭の中で何かが途切れた。
振り向いた先の景色は、家の中だった。散らばった紙の中心で、その人はこちらに背を向けて座り込んでいる。前に机があって、そこに何冊か本が立てかけられている。姿は黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗り潰されたみたいな形をしていて、はっきりわからなかった。
だが、どこか。その姿は、届かないものを求めているように見えた。
『......怜くん、わかってるんだ』
震えた男の声が脳裏に響く。
『これは、前代未聞の失敗作になる……。わかってる、わかってるんだ……でも、私は――』
「わかってて、書いたって」
「え」と陽介がこぼす。
「そう、その人は……言っ、て……」
茫洋としていた目に光が戻る。顔を上げれば部屋なんてものはなくて、普通に外の景色が広がっていた。気がつけば、怜は全員から注目されていた。
「……あれ、俺、何を……」
「待ってください、雨宮さん。どうして、記憶のないあなたが」
「そのことを知っているんですか」と問う声は、突如鳴り響いたけたたましいセミの音に掻き消された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます