3「喚び声」
「ほれ」と玄関先で座っていると、足の前に黒生地のスニーカーが置かれた。裸足のまま突っ込んでみれば、少し窮屈だがそれは自分の足を包み込んだ。使い古されたらしい靴をニャー太が興味津々といった様子で嗅ぎ回る。
「ありがとう、恒輔くん」
「適当に入った家やけど履けるもんがあって良かったわ。っちゅーか自分、よう裸足でここまで来れたな。オレも何で気づかへんかったんやろ......」
「平気だと思ったから。でも、こっちの方が歩きやすい」
「いや、普通に危ないやろ。皮が厚いおかげか、擦り剥けたりしてへんかったからよかったけど」
「とりあえずはそれで凌いでや」と両足とも履かされ、二人と一匹はその家を出た。本当は靴下もあればよかったのだが、一応他人の家であるため、勝手に中まで上がるのは憚られた。
「本当に、誰も住んでいないみたいだね」
「家はあるのに住人はおらん、と。謎やけど、解明できたらここから出るヒントになるやろか。そんで......SNSも使えんみたいやし、連絡手段は断たれとるな」
恒輔はポケットに入れていたスマホでいろいろ試しているようだが、どうやら繋がらないようだ。ちなみに怜はスマホどころか何も持ち合わせていなかった。強いて言えば、ニャー太が唯一持ってきたものなのだろう。
「そういえば、恒輔くんはどういう経緯でここへ来たの? 俺が寝ている間にわかったこととかは?」
ふと気になったことを訊けば、恒輔が唸るような声を出す。
「それがなあ......オレもようわからんねん。外を歩いとったんは覚えとるんやけど、そこからどうしてあの家で眠っとったんやら......」
「俺があの家の住人だとは思わなかったの?」
「思わんかったな」
「どうして」
恒輔は怜の方を見ると、自慢げににんまりと笑う。
「あの家の二階にはダブルベッドのある部屋と、可愛らしいぬいぐるみに溢れた部屋と、特にこれといった特徴のないシンプルな部屋があった。両親と子供の部屋やろうな。ぬいぐるみの部屋は女の子の部屋やったから割愛して、シンプルな部屋には中学三年生の教科書があった。女の子の部屋の方には高校一年生の教科書、つまりは姉弟の関係。子供がそれぐらいの年齢まで育っとるのに二十台前半ってことはないやろ」
「そんで、こいつは弟にも父親にも当てはまりにくいなって思ったんや」と、恒輔は締める。怜はぱちりと目を瞬かせた。
「恒輔くん、観察力あるね」
「こういうときは調べられるところまで調べるんが定石やからな」
「じゃあ、どうして俺たちがここへ連れてこられたのかもわかる?」
「それはこれからの調査次第やな」
恒輔は溜め息を吐くと、何やら指折りで数え始めた。
「まずはここはどういった世界なのか、どうして存在しているのかやろ? それからオレら以外に人がおるのか、連れてこられた人の共通点は何か。うーん、挙げていったらキリがあらへんな。ああ、それから些細な疑問も一つ」
恒輔は黒のリストバンドを付けている方の腕を上げると、心底不思議そうに片方だけのそれを見つめた。
「我ながらなんで片腕だけしかつけてへんのか、不思議やねんなあ」
「どこかで無くしたとかじゃないかな。それを言うなら、俺もどういう経緯でブレスレットなんかつけるようになったんだろ」
そこまで考えたところで何気無しに下を向いた怜は、目に入ったものを見て思わず「あ」と声を上げた。
「恒輔くんがフェイクで出した名前、まさかこんなところに書いてあったなんてね」
「あー、それな。今気づいたんかいな」
呆れながらも恒輔も隣から覗き込む。怜が抱いているニャー太の首輪、住所や電話番号らしき文字の羅列の中に、一際大きく「宮重正二郎」と書かれていた。
「でもニャー太が俺の猫なら、ここに書いてるのは俺の名前のはずなんだけど」
「同姓やないなら、家族ではないみたいやな。同居人の猫とかか? ちなみに、この人に心当たりは?」
「ないよ」
「やっぱりな」
そんな会話を交えつつ、目の前の歩道橋を上がる。緑色の錆びた橋の中心まで歩くと、遠かったはずの星が近くに迫っていた。怜はその空を見上げたまま歩き、ふと足を止めて顔を戻した。気づいた恒輔が「怜?」と訝しげに振り返る。
「今、何か聞こえたような......」
「それ、音か? それとも、」
少し遠くから聞こえた荒っぽい声が、恒輔の台詞を遮った。恒輔はハッと口を閉ざし、咄嗟に前を向く。怜も、化物と対峙したときのように目を鋭くして前方を睨み、耳を澄ませた。
「……声の方か」
「歩道橋下りて少し先から。ここからじゃ見えない」
「人の怒声やったな。……行くか?」
「自分たち以外の人間、見に行く価値はある」
怜は決断するや否や、早足気味に歩いて恒輔を追い越し、先を急いだ。恒輔もその後に続く。
歩道橋を下りた先も住宅街は広がっていた。早足ながらも前方を見据えて警戒を解かず、周囲にも神経を張り巡らせた。この辺りも家は真っ暗に包まれ、一切人の気配がしなかった。怜は今になってその異様さに少しだけ不快感を覚えた。
目を細めて次の一歩を踏み出して――止めた。手で制するより先に、背後の恒輔も歩みを止める。先程のような怒声ではないが声がした。それも、大分近い。ちょうど塀に沿って歩いていた二人は顔を見合わせ、声の聞こえた方へそっと顔を覗かせた。
「だから、わざわざこんな真似しなくても車ならまだどこかに残ってるはずだろ。なぁにが悲しくておまえらに譲らなきゃいけねえんだよ」
「いいからさっさと寄越せって言ってんだろがッ!! テメェマジで殺されてぇのか!? ああ!?」
「おい、大声出したら目立つだろ。抑えろ」
繰り広げられていた光景は、穏やかとは程遠い殺伐としたものだった。
花壇や噴水のある公園に停まっている白のロングバン、それを背の高い三白眼の男が立ち塞がることで庇っている。その周囲を三人の男が囲み、包丁やナイフといった凶器を向けていた。
三白眼はやや毛を立てた黒髪とがっしりとした肉体を持っており、黒いシャツの上にライムグリーンカラーの七分袖カーディガンと、ベージュのチノパンをすっきりと着こなしている。夜の中でも赤のスニーカーが目立ち、どことなくスポーツマンであったことをにおわせていた。
三白眼はイライラした様子で男たちを睨むが、動けない理由は凶器ではなく別のところにあった。自分たちから見て右端の男が金髪ハーフアップの華奢な体を捕らえ、その首筋にナイフを当てているのが窺えた。
「なあ、アンタ。人質取られている自覚はあんのか? この嬢ちゃん、胸はねえけど可愛い顔とイイ体してるじゃねぇか。マワすとこ、特別公開してやってもいいんだぜ。なぁ?」
耳障りかつ粘着質な声で三白眼を追い詰めながら、男は空いている手で人質の尻を撫で上げた。嬢ちゃんと呼ばれたその人は顔を俯かせていて表情がよく見えないが、はっきりと震えているのが見てとれた。
「……下劣な真似しよる」
低い声で呟く恒輔に、怜は少しだけ意外に思った。飄々としている彼にも、どうやら多少の正義感はあるようだ。三白眼も同じことを考えたのか顔を歪めるが、下手に動くことができないのも事実。悔しげに下唇を噛んでいた。
――助けに入るべきかもしれない。けど、凶器を持つ相手にどう立ち回る?
下手に動けないのはこちらも同じだ。考えあぐねていた怜は、ゆえに背後を油断していた。
「怜!!」
恒輔の叫びに思わず振り返れば、視界が銀色一色に染まる。金属物の切っ先だと気づいたときには、恒輔がナイフを掴む腕を押し上げ、その腹に蹴りを入れていた。二ャー太が腕の中で毛を逆立てて威嚇する。
「ぐ、ぅ......」
背後から怜を襲おうとした男は腹を押さえながら後退し、その隙に怜は恒輔に引っ張られて距離を取る。だがそこで、怜はハッとなって公園の方を振り向く。全員が瞠目してこちらを見ていた。
「仲間か……?」
「いや、そうではないみてぇだ」
「何か持っていそうか......?」
訝しげでありながらも連中は凶器ごと身体をこちらへ向ける。血走った眼がギラギラとこちらを睨んでいる。顔を戻せば、痛みに呻きながらも襲ってきた相手は再びナイフを構えている。絶体絶命。そんな単語が脳裏に浮かぶ。
「こう――」
これはどうしたものかと、恒輔の方を振り向こうとした怜は――目を見開いてヒュッと息を呑んだ。恒輔の頬に、真っ赤な切り口ができていた。そこから流れ落ちる鮮血が、コンクリートに赤い斑点を飾る。
「こう、すけくん……」
「あ、今気づいた? 気にするなや、こんなん掠り傷やし」
何でもないようにヘラッと笑う恒輔だが、傷の大きさが、流れる血の量が、決して浅くはない傷だと告げてくる。自分のせいで、恒輔が傷ついた。けれど、それ以前に、
「......傷つけられた」
――そう感じた瞬間、脳裏に泣き声が響き渡った。
『怜! 怜!! 早く来て!! 助けてッ!!』
誰かの悲痛な声が、サイレンにも似た泣き声が、頭の中を占めて止まない。泣いているんだ、いつも。痛みに弱くて、心もボロボロだから。それに呼応してさらに痛みを感じて。だから――そうだ、だからいつも、俺が。
「守らなきゃ」
ぼとっとその場に二ャー太を降ろす、いや落とす。驚いて咎めようと口を開きかけた恒輔が、自分の顔を見てなぜか瞠目したのが見えた。怜は、恒輔を傷つけた男と向き合った。
「あ? なんだ、やるつもりか?」
警戒し、ナイフを構える男。怜は男の問いには答えず、重さを感じさせない軽やかな動作で、トンと一歩を踏み出した。
――その一瞬後、男の顔面に靴底が埋まっていた。
靴底が離れた後、男は呆けた表情のまま数秒固まっていた。だがその鼻からタラリと血が流れると、徐々に白目を剥いてダウンしていった。カランと手にしていたナイフが一拍置いて地に落ちる。
「……は?」
誰かの呆然とした声がその場に落ちた。誰もが固まる中、怜は靴底に付着した血を地面に擦りつけ、今度は公園の連中へ身体を向ける。
怜の顔は相変わらずの無表情だ。ただ、先ほどまでと違って目が限界まで見開かれ、暗闇の中でもその特徴的な瞳がはっきり見えるようになっている。黒々とした鏡の瞳とゆったりと首を傾げる仕草から漂うのは、狩る者としての、威圧。
「お、おい、こいつ結構、いやかなり、」
「ヤベェんじゃ」と声に出したのは、男にとってはまずかった。
怜はその男を視界に捉え、地面を蹴った。自分の影さえも引き離しかけるスピードで一気に公園まで駆け抜け、入り口の柵を足場に跳躍する。月が、怜の体に覆い隠された。
愕然と見上げるターゲットを下方に確認する。その間抜け面に向けて、一回転した加速つきで長い足を振り下ろす。骨身に響いた打撃音の後、二人目もあっさりとその場に崩れ落ちた。
「あ、ああ、こ、この野郎ォォ!!」
仲間がやられたことにか、たった一人に追い詰められている現状にか、三人目の男は雄叫びを上げながら怜に突進する。
「死にやがれッ!!」
大きく腕を振りかぶり、包丁を振り下ろす。怜がそれを避けても無茶苦茶に包丁を振り回し続けた。殺すつもりで、せめて深手でも。とにかく泣き面を拝まなければ気が済まなかった。
凶器は掠ることもしなかった。怜はしっかりと包丁の軌道を見極め、最低限の動作でそれをかわす。
「ンのッ……さっさとくたばれやァッ!!」
目を狙って突き出される包丁。それをわずかに首を倒すことでかわし、その腕をがっしりと掴む。男があっという顔をするが、遅い。引き寄せられ、迫る腹部に拳を吸い込ませる。
「ごっふぁ!?」
強烈な打撃を身に受けた男は、白目を剥いてその場に崩れ落ち、それっきり動かなくなった。
公園の中心には、涼しげな表情に戻った勝者が悠然と立っていた。
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