2「始まり」

 ほとんど反射だった。

 咄嗟にニャー太を抱えてその場から飛び退く。直後、蜘蛛の巣状に窓ガラスがひび割れ、粉々に砕け散った。怜がさっきまでいた場所に黒い棒に似た何かが突き刺さり、木屑を撒きながら床板に穴を開けた。轟音とともに家が揺れ、背中を預けたカウンターの向こうから「おわっ!?」と驚く声と、ガラスの割れる音が響いた。


「ちょ、何やねん。輩の仕業か――」

「動かないで」


 目の前の存在から目を離さず、呑気そうな反応の恒輔に声を張り上げた。キュルッと怜の瞳孔が細く、鋭くなる。

 一言で言えば、もや、だった。黒い砂嵐、境界線があやふやなバグのような体。けれど粉々のガラス、貫かれた床板。襲われた場所の悲惨な有様が、それがたしかに実体を持っていることを証明している。磨りガラス越しの電灯を彷彿とさせる不明瞭な黄色い瞳が、怪しく光ってこちらを捉えている。

 それ以上に異様なのは、その化物の姿かたちにあった。全体の形は例えるならばカマキリだ。だが頭部と後ろ脚だけは人間の肉体を再現しており、尻を持ち上げるように、下半身は異常に高い位置に突き出されている。

 不気味だ。一般論として怜はそう思った。化物は身を屈めつつ、床を突き刺した長い前脚を使い、中へ押し入ろうと動く。ブンと空間が切られたかと思えば、ギリギリのところを鋭い前足が通過した。あともう少し前へ出ていれば失明していただろうことを想像し、怜はより一層ぴったりと壁を背に張りつけた。


「……何や、アレ」


 半ば呆然とした声が聞こえ、視線だけ右へ寄越す。見えはしないが、おそらく恒輔もあの化物の姿を目の当たりにしたのだろう。怜はそれほど恐怖を抱いていないものの、鋭い瞳が警戒を表している。陰になって見えない恒輔に呼びかける。


「恒輔くん、危ないから隠れてて」

「他人の心配しとる場合か! 何やねんあの化物! いや化物の正体はこの際ええわ!  ここから早よ逃げなまずいで!」

「わかってる。けど……」


 怜は視線を再び化物に戻した。化物は高い位置にある下半身が引っかかり、なかなか中へ入れずにいたが、それも時間の問題だろう。力づくで入ろうとするせいで、引っかかっている部分がミシミシと限界の悲鳴を上げている。しかも化物が絶えず鋭利な前脚を振り回すせいで動くに動けない。当たれば間違いなく肉が分離される。

 どう動いたものかと思考を巡らしていると、再び恒輔が呼びかけた。


「怜! 自分、何とかしてキッチンこっちぃ! 裏口がある!」


 裏口と聞いて即座に反応するが、


「俺の位置からなら、そこの扉を開けて玄関から逃げた方が……」

「扉を開くよりも自分の体が上下にお別れする方が早いわ! ええからそいつに捕まる前にカウンター越えてこっちへ来ぃ! 死にたいんか!」


 恒輔の声は懇願じみていた。視線を前方へ戻す。さっきから顔スレスレのところを化物の前脚がブンブン風を切っている。未だに体は窓枠に引っかかっているが、もう一息という感じだった。一分も持たないだろう。

 腕の中のニャー太を見下ろす。騒音続きですっかり萎縮してしまっているが、こちらと目が合えば「ニャォン」と鳴いてみせた。  


「......君が本当に俺の猫なら、飼い主として君を守る義務があるよね」


 決意する。前脚が一際大きく振り抜かれた直後、素早くしなやかにカウンターを軽々と飛び越えた。目の前に恒輔の姿が現れる。


「行くで」


 手を掴まれて裏口へ引っ張られる。同時に化物が侵入を果たし、水平に振った前脚が水道の蛇口を叩き折りながら怜たちに迫る。死の刃が届く直前に二人は外へ飛び出した。間一髪のところで前足がガンッと裏口に引っかかる。

 背後からベタベタベタッといやに人間的な足音がするが、振り返らなかった。目の前のブロック塀に向かって恒輔が助走を付けて跳び、両手と足を引っ掛けて向こうへ見えなくなる。


「怜、ニャー太を先に!」


 恒輔が塀の向こうから手を伸ばしたがそれを無視し、怜はニャー太を片手に抱いたまま跳んだ。下方で驚きに薄い目を見開く彼の姿が見えた。人間離れした跳躍力で塀と同じぐらいの高さまで跳んだ怜は、塀の縁を手で掴んで自分の体を引き寄せ、前転の要領で越えて向こう側へ難なく着地する。


「早く逃げよう、恒輔くん」

「あ、ああ」


 華麗な一連の流れを口をあんぐりと開けて見入っていた恒輔だが、怜に促されたことで我に返る。ひとまずはあの化物から離れることに意識を集中させた。化物が未だ裏口で激しい物音を立ててもがいているのをいいことに、二人はそのまままっすぐ街灯で照らされた住宅街を駆け抜けた。

 蒼かった夕方は身を隠し、外はすでに夜の闇に支配されていた。





 家の裏同士が向かい合っている間に、二つの小さな道がある。凹凸の激しいコンクリートはどちらも辛うじて自転車が通れる狭さで、その道の間に子供の背丈ぐらいの深い溝があった。溝を挟んだ小さな道を繋ぐために大きな錆びた鉄板がいくつか置かれ、橋代わりを担っている。

 その鉄板の下に隠れて、二人は向かい合って座っていた。怜はニャー太を抱いたまま息を潜めて外の様子を窺い、やがて事務的な口調で息を整えている最中の恒輔に告げた。


「追ってきてないみたい」

「ハアッ、ハアッ......そりゃ、よかったわ……いやほんまに。これ以上はムリ……走れん……これ以上リアルエンカウントはごめんやわ……」

「また逃げることがあったら、俺が担いで走るよ」

「それはやめてや......そもそも自分、あんだけ走って何で息切れ一つしてへんの……あーあ」


 「やってられんわ、この無理ゲー」と、恒輔は大げさに首を振って溜め息を吐き、ブツブツと呟きだす。


「いよいよゲームの世界に入り込んだか? それか知らんうちに何かキメて幻覚でも見とるんか? 何にしろ、目覚めていきなり知らん場所っちゅーんが説明つかん」

「え?」

「ん?」


 思わず声を上げれば、恒輔の方も訝しげにこちらを見る。


「さっきの家、恒輔くんの家じゃなかったの?」

「あれ、言っとらんかった? オレも目覚めたらいつのまにかあの家におって、そんで隣に自分とニャー太がおったんや。オレもあれが誰の家か知らん。軽く調べたけど、家主は見当たらんかったし」

「俺は記憶がないから、てっきり自分の家か親しい誰かの家だと思っていた。けど、恒輔くんはさっき初めて俺と会ったんだよね?」

「おん。怜とは面識あらへん。誘拐にしたって、こうも簡単に逃げ出せるようには監禁されへんやろうし。……それに」

「それに?」


 続きを促せば、難しい声が返ってくる。


「さっきの化物、あれをどう現実的に説明すればええねん」


 「とんでもない可能性に行き着いてもた」と、彼は頭を抱えた。怜も、薄々そのことに気がついていた。


「……少し、調べてみよう」

「調べるって?」

「ここがどこなのか、どんな場所なのか、とか」


 言うが早いか怜はニャー太を抱いたまま鉄板下から這い出し、道の上に出る。そのあまりにも警戒心に欠ける行動に恒輔が焦る。


「怜! 自分、さっき襲われたことをもう忘れたんか!?」


 小声で説教しつつ彼も怜の後に続く。

 ここがどこなのか調べるにあたって、怜は一応の目星をつけていた。電柱を調べればいい。そこだと最低限の地名は書かれているだろう。一番手っ取り早い方法だ。家の裏から抜け出し、すぐ近くにあった電柱に駆け寄る。地名が書かれているであろう部分へ目をやり――後から来た恒輔が「え」と漏らす。

 読めなかった。たしかにそこに書かれていたはずの文字は、黒く塗り潰されていた。火で炙って焦がしたときと似ている。そう感じた怜は一旦ニャー太をその場に降ろして手を伸ばし、指先でそれを擦ってみて確認するも、何も付着していなかった。


「こっちもや」


 振り返れば、いつのまにか移動していた恒輔が向かい側の電柱を見上げていた。そこもまた黒く消されている。怜は、今度は少し離れた場所にある別の電柱を調べた。変わらなかった。


「......なんで?」


 狼狽するわけでもなく、怯えるわけでもなく、ただ純粋な疑問を感じて怜は首を傾げた。人の手でやられたものとは思えなかった。する理由が思いつかない。こんな、全ての電柱の字を消す作業だなんて。

 それに、と怜は周囲の家を見渡す。どの家にも電気が点いていない。夕方過ぎぐらいの時間のはずなのに、家の中は真っ暗で、――人の気配すら、感じられなくて。


「なあ、怜」


 背後から呼びかけられ、振り返る。こちらを向いていた恒輔が、淡々とした声で言った。


「その、とても信じられる話やないと思う。せやけど、もうこれしか思いつかへん」


 一度大きく深呼吸した恒輔は、ある仮説を述べた。それは、空想上にはよくある一種の御伽噺。


「怜、ここはきっと――オレらが暮らしとる世界とは、別や」


 怜は、静かに頷くことでその事実をあっさりと受け入れた。


「外観は普通だけど、この静けさは人間が生み出せるものじゃない。それに、俺たちのいる世界に化物がいただなんて、認めたら終わりだ」

「それだけやない。怜は知らんのやろうけど、本来今の季節は梅雨の真っ最中。けど、今は......」


 額から流れ落ちた汗がその言葉の続きを物語った。体感した記憶が消え去っていても、これが梅雨の暑さではないことぐらいわかっていた。


「恒輔くん......」


 「これからどうしようか」と言いかけた怜だが、それは恒輔の呟きによって遮られた。


「......やな」

「え?」

「さいっこうやな!! ゲームの世界に飛び込んだみたいや!! 都会によくあるリアル脱出ゲームとは比べものにならん、最高ランクのクオリティ!! 当たり前か、全てが本物やもんな!!」


 少年のようだとでも言うべきか。ここまで平静を保って行動してきた恒輔が、細い目をかっぴらいてキラキラと輝かせていた。期待に満ち溢れていると言わんばかりだった。 腕の中で恒輔の大声に驚いたニャー太がビクッと震える。怜は、恒輔の意外な反応に首を傾げた。


「恒輔くんは、この不思議な世界に何か思うことはないの?」

「そりゃ思うことはあるで。さっきの化物やってめっちゃ怖かったし、これからのことに不安も感じとる。けどそれ以上に、ゲームの世界に入り込んだような出来事にワクワクが止まらんのや!」


 興奮しきりだった。こういう事象に遭遇したときは一般的には恐怖するのが普通だと思うのだが、どういうわけか恒輔は逆に喜んでいるようだった。手もつけられないほどの錯乱状態に陥られるよりかはマシだが。

 などと考えていれば、「それに、や」と、恒輔が少々大げさに動き回りながら弾んだ声で語る。


「確かに一人なら不安の方が上回っとったやろうけど、オレは一人やない。それは自分にとっても同じやろ、怜?」


 くるりと振り返り、面白そうに微笑まれる。こちらに手が伸ばされていた。


「相方は猫と常に一緒にいる記憶喪失の青年。しかも見た目とは裏腹に身体能力が高いときた。怜、ほんまええキャラしとるよ」

「......俺も、君と一緒に行動するの?」


 怜が自分自身を指して問えば、キョトンとした顔をされる。


「一人で行動するつもりやったんか? いくら自分が強くても一人は危険やし、人数は多い方がええやん? そもそも自分、一人で怖くないんか?」


 訊き返され、怜は言葉に詰まらせる。

 一般的には、化物に襲われて怖い思いをして、一人じゃないことに安堵し、ともに行動しようと誘われたら喜んでその誘いに乗る。化物に、この世界に、これからに恐怖を覚えるのは当たり前で、不安に感じるのも仕方ないことで。

 なのに、自分は。


「......わから、ない。何も、感じない」

「感じない?」


 手を下ろしながら聞き返す恒輔に、怜は静かに頷いた。


「普通は恐怖や不安を感じるものだって知っている。そうじゃなくても、君みたいに的外れでも何でも、何かしら感じるはず」

「的外れって、いや自覚はあるけども......」

「だけど俺は、俺の中は、何も訴えてこない。......空っぽなんだ、心そのものがないみたいなんだ」

「それって......」

「多分、感情がないってやつなんだろうね。そのせいだか知らないけど、記憶も取り戻したいと思えない。いや......記憶がないから、感情も失ったのかな」


 平坦な声で語って、怜は目を閉じる。最初に自分の顔を見た記憶を思い起こそうとしたときと同じだ。胸の内に浮かぶのは虚無ばかりで、本当に、何も入っていなかった。


 ――怪物。


 そんな言葉が浮かぶ。今の自分は、きっと心のない怪物も同然だ。そう感じた。

 だが不意に「そんなら」と声が聞こえ、目を開けて振り向く。にんまりと笑った恒輔の姿がそこにあった。


「オレが、怜の感情を取り戻すのを手伝ったろか?」


 怜はぱちりと目を瞬かせた。その提案は、怜にとって青天の霹靂へきれきであった。


「......いや、俺別に、感情を取り戻したいとは思ってないんだけど」

「そう言わんとなあ、感じるモン感じたら人生もっと色づくで? あ、ついでに記憶を取り戻す手伝いもしたろか?」

「記憶も......別に。なかったら困るというだけで、取り戻したいかと言われると、そんなに」

「はあ、つれへんなあ。これからオレと行動をともにするんやから、せめて何か返せるものがあればええと思って言ったのに」


 困り顔で笑いながら、恒輔は再度手を伸ばしてくる。怜は、じっとその手を見つめた。


「君の中では、俺も一緒に来ることが決定事項なんだ」

「そりゃまあ、さっきも言ったとおり、一人やと不安やからな」


 「けどな、怜」と、恒輔は優しい声で言う。


「オレはそれ以上に、記憶も感情もない寂しそうな自分を放っておけへんのや」

「寂しい......」


 寂しい。何も求めていないけれど、自分の心は空っぽで寂しいのか。


「なあ、怜。短いのか長いのかわからんこれからやけど、オレなんかでも少しぐらいは埋められるものがあると思うねん」


 埋めてみよう、その空っぽの心に感情を。

 導きの言葉は怜を動かした。差し出された恒輔の手に乗せる。恒輔の手のひらにはぷにぷにとした肉球の感触が伝わっているだろう。


「これで、契約成立。これからよろしく」


 怜によって前足を伸ばされ、恒輔の手の上に置かれたニャー太が「ニャーン」と鳴く。恒輔はぽかんと呆けた表情を晒したが、やがて堪えきれないと言わんばかりに噴き出した。


「フッ、フフフッ、ハハッ。おん、こっちこそよろしゅうな」


 こうして二人と一匹は奇妙なせかいをともに歩むことになる。

 このときはまだ、自分たちを翻弄するモノの存在を知る由もなかった。


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