メモリー1「傷ついたんだ」
1「喪失と邂逅」
それは、唐突に。
暗い水底から浮上して、水面から顔を出すように。
青年はハッと目を覚ました。
「……ここ、は」
のそりと起き上がり、ひどくぼんやりとした面持ちで周囲を見渡す。
ローテーブル、大型テレビ、奥に食卓、カウンター付きのキッチン。青年が目覚めた場所は、見知らぬ家のリビングだった。
青年は無表情のまま、特に戸惑う様子もなく立ち上がり、正面にある自分と同じぐらいの背丈がある窓に近づく。レースのカーテンを少し開くと、芝生とブロック塀の先に闇に呑まれかけた夕方の世界が見えた。空はほとんど蒼色に染まっており、夕日ははるか彼方に追いやられている。夜が、手の届く場所まで迫っていた。
ふと何かが見えた気がしてよくよく目を凝らすと、やたらと黒い目がガラスに映っていた。その目からは見つめ続けられると吸い込まれる、そんな果てしなさを感じた。
――例えるなら、深淵。
窓から一歩離れる。
長くも短くもないやや乱雑な黒髪に、無表情にかかった緩やかな四角いフレーム眼鏡、その奥に見える垂れ目。服装は白いパーカーにブルージーンズといたってシンプル。パーカーの袖の先、左手首には白のビーズで編まれたブレスレットが嵌められていた。
そこまで見て、青年はそれが窓に映った自分の姿だとようやく理解した。
「これが、俺……」
初めて見た自分の顔を、彼は興味深げに片手でペタペタと触り始める。
「......
手を止めて、もう一度窓ガラスを見る。しばらくじっと見つめ、ゆっくりと片手を上げてみると、窓ガラスに映る人物も片手を上げる。ガラスに触れると、互いの指先がピタリと狂いもなく合わさった。
間違いない、これは自分自身だ。けれど記憶にない。この男の姿に、見覚えがない。
そんなはずはないと、目を閉じて記憶を漁ってみる。視界が真っ暗な世界に変わると、頭の中で鏡を見た記憶を引っ張り出そうとした。暗闇が広がる。暗闇が続いている。暗闇は暗闇で、どこまでも暗闇で。そんな光景が延々と続く。
何も、見えなかった。
「......空っぽだ」
一分後、目を開けた青年は冷静に事実を呟いた。
何も見つからなかった。顔を見た記憶どころか、こんなところで寝ていた経緯、それ以前の記憶、家族や友人の顔、その他思い出や名前でさえも......。思い出そうとした全ては、どこを探しても見つからなかった。
ただ知識は残っている。青年は残った知識から自分の身に起きたことを理解した。
――記憶喪失。
おそらくは全てを忘れる全健忘。そのことがわかって少し驚くが、やはり顔には出ない。とりあえずは、それをただの事実として受け入れることにした。
それはそうとして、と青年はカーテンを閉じた。
「……これから、どうしよう」
淡々と先のことを事務的に考える。カーテン越しに窓にコツンと頭を預け、思考に耽る。スタート地点を決めなけらばならなかった。どうして記憶を失ったのかはともかく、このことを誰かに伝える必要があると青年は考えた。ここが自分の家なら、自分を知る誰かが住んでいるはずだ。その人に記憶喪失になったことを伝えて、その後は......。
上から下りてくる足音が聞こえてきたのは、そのときだった。背後を振り返った先、食卓の後ろにある扉。その奥が階段と繋がっているのだろう。トン、トンと一定のリズムは扉の向こうから響いていた。
ここが自分の家だとしたら。それならさっき考えたとおりに動けばいい。仮に自分の家じゃないにしても、自分と面識のある誰かが招き入れた家なら問題ないはずだ。――最悪の可能性は。
――まさか、不法侵入の最中に記憶を失ったとかないよね。
そう信じたかった。信じきれないのは、記憶という根拠がないからだ。
足音が一定間隔で大きくなっていく。青年は決断を迫られていた。対面するか、外へ逃げるか。隠れてみようか? あるいは、いっそ――
ぐっと拳を握り締め、いつでもまっすぐ突き出せるように構える。まずは相手の反応を見て、その顔に警戒が浮かぶようなら最悪の手段を選ぶ。あくまで冷静に、現実的に判断を下す青年に、とうとう扉越しに声がかけられた。
「えーと、もう起きとるか? 起きとるなら、返事してくれると嬉しいんやけど。あ、オレは怪しいモンちゃうで? 急で驚くやろうけど、そこは信じてほしい」
耳に残りやすい独特のイントネーション……いわゆる関西弁というやつだ。若い男の緩い口調に、青年は幾分か力を抜いた。「起きてるか」と尋ねてきたということは、彼は自分がここで眠っていたことを知っている。相手側に面識があるということだ。少なくとも、通報される心配はないだろう。
「起きている」
自分の身に危険が及ばないと判じた瞬間、短くそう答えた。ガラリと扉がスライドされる。
暗い階段を背に、青年と同じぐらいの背丈の影が立っていた。細くて緩やかな眦と、悠々と吊り上げられた口元。カフェラテを思い出させる色合いのストレートは耳元でサラリと揺れて手触りが良さそうだ。英文字の青いロゴの入った半袖の白Tシャツに、前を開けたまま羽織られた黒のベストとブルージーンズ。黒のストローハットを首に引っかけ、黒のリストバンドを左手首にだけという妙な身につけ方をしている。ちょうどバンドマンという存在がそんな格好をするなと、頭に残っている知識で青年はイメージを思い浮かべた。
だが彼の出で立ちで何よりも青年の目を引いたのは、狐目の青年――略して狐目と呼ぶことにした――の、腕に抱えられた白猫の存在だった。ピンと立てた丸っこい耳、爛々と光る両目がこちらをまっすぐ見つめていた。
狐目は青年の姿を目にすると、ホッと息を吐いた。
「よかった。オレが目覚めたら隣で死体のように横たわっとるから、目ぇ覚めるかどうか心配やったねん。……ところで、その拳は何?」
何か不穏なものを感じたのか、未だ青年が握りしめている拳をおそるおそる指差して問う狐目。特に隠すつもりもなかった青年は素直に答えた。
「殴って眠らせたら解決すると思って」
「何の話!? 自分、初対面の人間殴るつもりでおったん!? しかも気絶させる勢いで!? 見た目によらず野蛮人やな!」
さすが関西人、キレキレのツッコミである。内心で深く頷いて感心する。言葉が足りないという自覚はなかった。
「ま、まあ、そんだけ元気なら一応大丈夫か。身体に異常とかは?」
「......外的要因なら、何も」
「外的要因なら? ってうわ!」
狐目が詳しく訊こうとしたところで、彼の腕の中にいた白猫が飛び出してこちらへ駆け寄ってきた。
「ンニャァ」と甲高い甘えた声で青年の足元にすり寄り、コロンと転がって腹を見せる。成猫のようだが体はあまり大きくない。星を溶かして煮詰めたらちょうどそんな色になるだろうか、暗がりで輝く金色はじっとこちらの様子を窺っている。
灰色の首輪をはめていたので、青年はしゃがみ込んでそれを覗き込む。そこには黒マジックで「ニャー太」と書かれていた。おそらく白猫の名前なのだろうが、凄まじい適当さと恐ろしいネーミングセンスの皆無性が併発していた。青年は何も思わずスルーしたが、九割が見れば間違いなく猫を哀れんでいただろう。
「君、ニャー太って名前なんだね」
「いやいや、自分が名づけたんやろ? てかこの子、自分とこの猫で合ってとるよな? オレが目覚めたとき、その子は自分が抱いてたんやから」
青年は無表情のまま苦笑する狐目の方を見て、少し考えてから話すことにした。
「俺、多分記憶喪失だからわからないんだ」
「......は? 何て?」
「記憶喪失。この子が俺の猫かどうか以前に、ここまでの記憶が一切ない。もちろん、名前や年齢も」
狐目は一瞬ポカンとした表情になったが、すぐに「ふーん」と口元に意図の見えない笑みを浮かべる。
「なるほどなあ。それで『外的要因は何も』ってことか。納得納得」
にんまりと笑いA、彼は食卓の席に座って足を組む。そのまま彼は体ごとこちらへ向いて、薄く口を開いた。
「ほんならまあ、これからどないしよか。――なあ、
核心を突く。そんな響きで、その名を告げる。
刹那、青年は激しい眩暈を覚えた。
「あ......」
体が崩れ落ち、膝が床にぶつかる。その音に驚いてニャー太が自分の傍から離れる。朦朧としだした意識の中、遠くの方で「おい」と戸惑う声が聞こえた。
視界がぼやける。心の中がさざめいて、波紋が広がって反響する。グワングワンとうるさいぐらいに、体がその残響に共鳴した。それは――消えた記憶からのメッセージ。
頭の中で誰かの姿が映った。黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗り潰されたみたいな形をしていて、姿ははっきりとしていない。口元だけがぼんやりと見えていて、それが自分の名を言ったような、気がした。
「……ちが、う……」
そうだ、これは違う。叫んでいる。中から、自分自身が。
違う、俺は「宮重正二郎」じゃない。俺は、俺は――
「俺は、
急に全てがクリアになった。ムワリ、今まで感じなかった暑さが顔に吹きかかり、同時に汗が流れ出す。変化に目を丸くして、そこでやっと今が真夏であるらしいことと、自分が一切汗をかいていなかった異常さに気づく。
ふと思い出して青年、改め怜は、狐目の方を見る。彼は椅子から腰を浮かせた状態で呆然となっていたが、怜の視線に気がつくと慌てて傍に寄ってきた。
「おい、大丈夫か? オレの声が聞こえとるか?」
「......聞こえてる。大丈夫。眩暈がしただけなんだ」
淡々と答えるが、狐目は顔を覗き込んだり腕に触れたりなどせっせと容態を見ている。先程と一転して割と真剣な目つきだった。
「さっきまで汗をかいている様子はなかったのに、今はかいている。けれど量が多いな。皮膚は赤くなってない。体温も普通。眩暈の他は?」
「何も」
「軽い熱中症を起こしとるかもな。念のため、水分取っとけ。今用意してくるから。そのあとにいろいろ話そうや」
怜の状態を診察し終えた狐目はそれだけ告げて立ち上がりかけたが、少しの間何やら逡巡した後、目を逸らしながら言った。
「......オレは
それだけ言って、狐目こと恒輔はさっさとキッチンの奥へ隠れてしまう。見えなくなった彼に声を投げた。
「さっきの名前は相手にボロを出させるためのフェイク。信じてなかったんだね、記憶喪失だということ」
「悪く思わんといてくれなー。仮に記憶を失ったとして、そんな毅然とした態度でいられる奴がおるなんて思わんかったんや」
「ゲームの主人公やあるまいし」と先程の真摯な対応はどこへやら、見えない場所から飄々とした声が返ってくる。
暑いなと思いながらパーカーの袖を捲る。さっきまで普通に過ごせていたのがおかしいぐらいの暑さだ。こもる熱、流れる汗。今までと反転して、全てが実感となって湧いてきていた。
恒輔が水分を用意してくれている間、怜は恒輔の言葉から自分自身について考えていた。たしかに、目覚めてから表情も心もあまり動いていない。いや、そもそも心が動くというものがどういう感覚なのかわからない。知識は残っているのに、だ。全くないと言っても過言ではないほど、気持ちの振れ幅が驚くほど少ない。
だから、怜は多くを感じることができない。記憶がない不安も、これから迫り来る恐怖も。
恒輔のもとへ向かうべく立ち上がろうとした。フッとほとんど暗くなりかかっていた部屋が完全に暗くなる。夜が来たのだと思い、何の気なしに窓の方を振り返る。
目の前にあるレースのカーテン越しに、こちらを見つめる黄色い瞳と目が合った。
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