第2話 辛い砂糖
あれから数日。仕事に集中出来ない。たまたま昨日は彼が休みの日だった。空いている席を眺めては、思い出してしまう。彼の力、鋭い眼差し、苦々しい表情。広い額に広がる皺。
あ、戻ってきた。私が出勤したタイミングで不在にしていた彼が戻ってきた。どんな顔をしたらいいか分からず、顔をあげられない。何も確認することはないのに、手帳を見てやり過ごす。
ふと意を決して顔を上げる。数メートル先に座った彼は、いつも通りに隣の同僚と話して笑っている。この間は夢だったに違いない・・・と、思った。
上の空を繰り返しながら一日が過ぎる。彼が視界にいなければボーっとし、視界に入れば緊張で血液がまるで2倍速で駆け巡るような感覚になる。
帰り際、廊下ですれ違った。
「お先に失礼します。」
私の挨拶に軽い会釈をし、彼はドアに消えた。物足りない感覚が胸を刺した。
それから特段の用事もないため、一言も交わさない日々が続いた。視線もくれない、近づくことも、話すこともない。全く接点がない人とはよくある話だ。彼だって同じだ。きっとこのままあのことも忘れる。少し冷静になれた気がした。
しかし、一緒に働かなくてはいけない時は来る。研修の準備をしなくてはならず、確認事項を再読したうえで、彼と計画を確認し、役割分担をした。
あれから1ヶ月経とうとしている。以前と変わらない塩対応。ほら、やっぱり。
研修を翌日に控え、会議室の机を並べなくてはならない。その旨を彼に伝え、とりあえず様子を確認し、必要ならセッティングすることに。
「私、確認しておきます。」
私は一言彼に伝えて会議室へ向かった。予想より手直しが必要だった。しばらくすると、ドアが開いた。
「すみません、手伝います。」
「前半分だけで大丈夫そうだから、あとは椅子を入れて、仕切りを引きましょう。」
私はカーテン状の仕切りを引き、マグネットでくっつけた。
近くはしんとしており、外は雨で暗い。静かな雨音だけを聞きながら、必要最低限の会話だけを交わし、セッティングを終えた。
「ありがとうございました。あとは資料を印刷して並べるだけですかね。」
「そうですね。また何か起こったら、その都度対応って感じで。」
彼は私の問いかけにそう答えて、近くにあったエアコンのスイッチを切った。私はドア付近にある電気のスイッチを切ろうとした。
「待ってください、僕がやります。」
私には背伸びをしないといけない位置にあるスイッチを、彼はパチンと易々押した。
「ありがとうございます。」
「いえ、塩対応じゃないでしょう?」
彼はあの日と同じ微かな笑みでこう言った。そのままドアに手をかける。私は思わず声を出した。
「待って。」
そういうと彼の腕に手を置いた。血管が浮き出た細い腕に力が入ったのが分かる。何も言わない。
「用事がないか考えて、いざ話そうとすると緊張してどうすればよいか分からないんです。ずっと同じことを考えてうわの空で、いないと寂しいと思うんです。自分に他の男がいるのを分かって言っています。人をたぶらかしちゃいけないし、自分さえも貶めているのもわかります。だけどっ・・・」
彼の左腕が右腕に乗った私の腕を掴み、引き寄せた。まだ2人の間に空間はある。
「自分で何を言っているか分かってます?」
「・・・はい。」
置かれた指に力が入る。
「かき乱さないで下さい。部屋に2人だけでいることすら辛いんです。早く研修が終われば苦しむことも減るし、こうやって傷付けなくて済む。あと約1カ月、耐えさせてください。」
その言葉に何故か涙が出てきた。
「やっぱ、私のこと嫌いじゃないですか。」
「だったら笑わないでください。勘違いします。私も耐えてるんです。誑かしたくないし、間違った道に足を入れかけている。だけど会いたくて、近くにいたくて、どうしたらいいか分からっ・・・」
一瞬だった。気難しい顔が私の顔から離れ、私から身体ごと距離を置いた。
「あー、くそっ。我慢してたのに!」
彼は口を手で押さえ、自分がしたことに悪態をついた。
「・・・とりあえず、泣かないで下さい。嫌いなわけないじゃないですか。でもすみません、もう無理だ。」
そういうとまた私に近寄り、腰と頭を引き寄せた。ワイシャツに涙が染みてゆく。
「後悔しませんか?今の生活に傷をつけますよ?」
「どうせ今断っても、いずれこうなります。腐った私で良いなら。」
「腐ってなんかいませんよ。立場を分かってて仕掛けた僕が悪い。・・・まずは今日、一緒に帰りませんか?襲ったりしませんから。」
彼は普通に笑って私を見た。
「はい。そうします。」
甘い誘惑に堕ちた。内実は塩辛いのに。
それから半年後、彼はたった1年で転職した。理由はキャリアアップ。知人から引き抜きがあったそうだ。
最後に会った日、彼は特に別れの言葉もこの関係を続ける懇願も口にしなかった。エレベーターの中でたった一度私の額に口づけ、
「失礼します。」
と帰路についた。
何かが消え去る虚無感の中に、半年間で与えてもらった、与えた感情や欲望がちらついた。
初めて一緒に帰った日の煌めき。彼の肌に触れた瞬間の高揚感。彼の家に連れられ、ひとつになり、罪悪感と充実感がないまぜになり、涙を浮かべながら迎えた朝・・・あの朝、彼は先に目覚めていて、
「傷つけてごめん。でも、好きだ。」
と、私を抱きしめた。
あれから連絡はない。私もあえて取るつもりはない。また苦しめ合うから。最後の日にこうなると薄々分かっていたし。彼は、相手がいる私を苦しめることを常々苦々しく思っていた。
私を手放すことで彼は罪悪感から逃れられたし、そのうち「良い思い出」になり、私への渇望はなくなるだろう。
私も既に普通の生活を取り戻した。時々彼のことを考える。それでも前のように取り乱したりはしない。私の中でも「良い思い出」になり、彼の記憶が薄れてゆく。
甘い誘惑には塩辛い後味は付き物だ。それでも後悔はしていない。
不器用な私と彼の恋愛組曲 みなづきあまね @soranomame
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