不器用な私と彼の恋愛組曲

みなづきあまね

第1話 甘い塩


あ、立った。コピー機で印刷かな。違う。こっちに来る。絶対私に用事だ。でも知らぬフリをしておこう。


彼は私に1番近い右手にあるコピー機の前を通り過ぎ、私の席に向かって歩いてきた。大抵このルートを通る時は、私に用事がある。


右斜め後ろから私を呼ぶ声に振り返る。


「あの、社内研修の件ですが。」


ですよね、私に用事と言えばそれ。絶対私のことを嫌っている。というか、塩対応で怖い。日焼けで黒いからなのか、彫りが深くてなのか知らないけれど、表情が読めなくて、いつも怯えたくなる。


今年度から入社した3歳年上の人。お固そうな見た目で、サッカーとゲームが好きな理系男子。趣味を知ったら尚更、見た目通りというか。見た目に寸分違わぬ内面って感じ。


たまたま同じ部署に配属され、社員の当番シフトを組む作業と社員研修業務を一緒にやることに。問題はこのシフト組み。


会議で割当を見た時、絶望。だって、全く理系に弱い文系女子の私が、理系男子2人、しかも職場の若手エース達とこの仕事担当だなんて。


案の定、2人が話している内容はさっぱり。言われてみればなんとなく・・・って感じもするけれど、やっぱり私の2歩、3歩先を行ってるから、全然ついていけない。


多分それを知ってか知らずか、いや、絶対確信して、ほとんど2人がやってくれたけれど、この時点で頭悪い烙印を押された気がするし、研修業務でも勤務年数的には私が先輩なのに、何かとミスばかり。駄目押しで仕事出来ない認定もされた気がしてならない。


被害妄想かもしれないけれど、おかげで彼が私を見る目は軽蔑の眼差しのような気がする。


しかも、通路を挟んで向き合う位置に座っているから、私の前に同僚がいないと、彼と毎日向き合っているわけで、時々目が合う時がある。気まずさしかない。大抵おやつを食べてる時に話しかけられるのも気恥ずかしい。


そんな様々な理由で、私は彼が苦手なのである。


でも、人生って分からない。


いつもみたいに残業に勤しむ。私の正面と彼の正面に座っているはずの同僚達は不在。キーボードを打つ彼の目から上が見える。真剣な眼差しで何かを打ち込んでいる。


正直タイプでもなんでもない。たまに後ろから見て、さすがスポーツをやっているだけあって引き締まっているな、とか、筆頭理系ペアの片割れが180センチあるのだけれど、それよりは低いが、意外に高いほうだな、とか思ったくらい。


あ、上に資料を取りに行かないと。この後の会議資料の見本が欲しい。


立ち上がり、薄暗い廊下を進み、ひとつ階段を上がる。左に曲がり、すぐの小部屋へ。あらゆる部署で必要な頂き物のサンプルや昔の資料を保管してあり、必要が出たり、気が向いて何か拝借したいときだけ来る部屋である。


自分が欲しい物があるはずのガラス戸を開け、物色。よりによって1番上か。近くに机はあるが、普通の椅子は見当たらない。小さな丸椅子はある。あれを使うかな。


若干安定感のない椅子を引きずってきて、靴を脱いで上る。・・・ドアが開いた。


「あっ、お疲れ様です。」


彼が入ってきた。私の挨拶に顔色を変えることもなく、私を一目見て声をかけた。


「探しものですか?」


「はい、次の会議でプレゼンがあるので、何かいい例がないかなって。」


私は目当ての物に手を伸ばしながら彼の方を見て話し、椅子から降りかけた。


「あっ!」


椅子ががたつき、椅子の近くにあった積み上げられた資料に当たった。手に持っていた目当ての資料は既に床の上に落下。私はバランスを崩したものの、転ばずに床へ着地。


「大丈夫ですか?」


彼の緊迫した声と彼の手の感触を腕に感じたのは同時だった。


「えっ、あ、すみません!」


私があたふたしてるうちに彼はパッと手を離し、


「落ちるかと思った」と呟き、自分の必要資料がある棚に歩みを進めた。まるで何もなかったかのよう。私はドキドキした気持ちを抑えながら一言お礼を述べ、靴を履き、平静を装って部屋を出た。


ただでさえ落ち着かなくて早めにキリをつけて退勤したのに、更衣室を出た所で彼と遭遇。


「あ、お疲れ様です。さっきはありがとうございました。」


階段を下りながらお礼を言う。


「いえ、守りきれて良かったです。」


彼は微かに笑みを浮かべて言った。その一言に思いやりを感じ、ちょっと嬉しくなった。思っているよりも、怖い人じゃないかも。


外に出てタイムカードを押す。そのタイミングで見慣れた数人にすれ違った。


「お疲れ様です!あれ、珍しい2人ですね。実はもしかして・・・?!」


意味深な笑いと言葉をかけてきた同僚の一人に、私はふっと笑い、


「まさか!何にもないですって!」


と返し、仕事に戻る同僚達と別れた。


ゲートを出て2人で並んで歩き始める。


「どの道で帰りますか?」


私の問いにルートを示した彼について歩く。職場から1本目の細道に入り、10秒ほど歩いた後、ふいに彼が呟いた。


「たしかに僕たち接点少ないですよね。まあ、同じ業務はしているけれど、そもそも島が違いますからね。」


「そうですよね。珍しいって言われても、確かにって感じ。あまり世間話とかも話す機会ないですし。」


「まさか!ってだいぶあっさり否定されましたね。」


先程の私の発言のことか。


「ほかに返し方もなかったので。というか、いつも塩対応されるし、私が仕事でミスばかりで、シフト組みも頭が追いつかなくて戦力外だったから・・・。」


「え?そんなこと思ってないし、塩対応なんかしていませんよ。」


彼は立ち止まって、こちらを見て付け加えた。


「今までそんな風に考えてたんですか?」


「はい、だって私のこと嫌い・・・」


「むしろ逆ですよ。何か話す用事が出来ないかと、くだらないぐらい思っていて、いざ用事ができて話しに行くけれど、平静を保つのがどうも・・・ああ、もうっ!」


彼は頭を掻きながらそういうと、私の肩を引き寄せた。彼のネクタイしか視界に入らない。抱きしめられている?


「あのっ、えっ、誰かに見られたらっ。」


「そっちの心配ですか?こうしたいって欲を何とか抑えて仕事しているような奴なんですよ、僕は。さっきも助けたいという純粋な気持ちの裏に、そのままどうにかしてしまいたいっていう考えがあったし。しかも、他に男がいるって知っててやっています。これでも塩対応とか言いますか?」


彼はいつもの淡々としたトーンは崩さずも、押し殺したような口調で言い切った。


「すみません。」


そう彼は付け加えると、私を解放した。

暗闇でもわかるほど呆然というか、うろたえているというか、なんとも言えない私を見て、彼は顔をしかめながら、


「困らせましたね。でも今でも理性を保つのがやっとなんです。」


「すみません、二度としませんから。さすがに人の幸せをぶち壊すことまではしません。忘れてください。・・・ここで失礼します。」


そう言うと彼は歩き出した。


「あ、はい。失礼します。」


これだけ言うのでも精一杯。心臓の音がうるさい。血液が身体中を駆け巡り、熱い。彼に抱かれた箇所が痺れる。罪悪感より高揚感が上回る。


どうしよう。まさか、そんな。


彼の苦々しい顔が焼き付いている。明らかに衝動を抑えようとした苦しい表情。今追いかけて触れたら・・・甘い誘惑が頭をよぎる。彼のタガは外れ、もう一度抱いてくれるに違いない。さっきより強く、いい意味で優しくなく。いや、私にそんな権利はない。今の幸せな生活を自分の手で腐敗させることにもなりかねない。


それでも気持ちははやるばかり。あとは私の心次第。

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