第5話 春風に乱れて
都立品川高校鉄道研究部、新年度最初の部会から一週間経った。
放課後の鉄道研究部の部室には、3年生の山口希(のぞみ)、水上(みなかみ)秀雄、釧路晃(あきら)、熊本重成、そして1年生の根岸ゆい、瀬戸北斗、能登信二が揃っていた。
今日の活動は、これまで鉄道模型コンテストに出展してきた作品のメンテナンス方法を、3年生から後輩達に伝授するのが目的であった。しかし現部長の佐渡慶太をはじめ、鉄道模型に関心の無い2年生達は、誰も来ていなかった。
「玉川さん、来なかったね」
「…想定の範囲内だけどな」
信二の耳打ちに、北斗はぽつりと返した。
1年生の部員は、ゆい、北斗、信二の他にもう1人、玉川梓がいた。梓は佐渡達2年生と同様に、鉄道模型コンテストに興味を示していなかった。
棚に飾られたNゲージのモジュールを下ろす。さほど広くない部室、7人もいると棚から下ろすモジュールは2つくらいになる。まずは鉄道コンテストにはじめて出展したJR大井町駅付近の桜並木を題材にしたモジュールと、東海道新幹線・山手線・山手貨物線・東海道本線・京浜東北線が交差する通称「品川分岐点」を再現したモジュールからメンテナンスをすることとなった。
モジュールについた埃を小型掃除機やはたきで落としてから、レールクリーナーと呼ばれる線路の汚れを落とす薬品をしみこませた布で、線路についた汚れを落としてゆく。
「建物や架線柱が取り外しできるのは、こういうときに便利なんですね」
「ビックサイトに運ぶときにもな」
作業しながら感心するゆいに、水上がちょっと顔を上げてニヤリとする。ビックサイトは、鉄道模型コンテストが行われる会場である。
線路のクリーニングが終わると、モジュールをつなげる。釧路が、ケースから取り出したスカイブルー色の電車の模型を3両つまみ出して、モジュールに敷かれた線路に並べる。
「国鉄103系初期型ですか?昔、京浜東北線を走っていたスカイブルーの…」
模型車両を見て、信二がつぶやく。
「ああ、こいつはNゲージ車両の中でも安いやつだから、モジュールの試運転にはちょうどいいんだ」
車両を連結しながら答えた釧路の言葉を、希達が引き継ぐ。
「あと、品川祭で103系を走らせると、OB・OGや父兄の方々が懐かしがってくれるのよね」
品川高校の学園祭である品川祭で鉄道研究部は、鉄道模型コンテストに出展してきた歴代のモジュールなどをつなげて、様々な模型車両を走らせている。
「やっぱり、地元になじみのある電車が走ると、受けが全然違うからね」
品川高校はJR(旧国鉄)京浜東北線と東急大井町線、東京臨海高速鉄道りんかい線が停まる大井町駅の近くにある。大井町駅には止まらないが京浜東北線に平行してJR東海道本線が走り、駅の近くにはJR山手線の車庫や鉄道車両のメンテナンスを担う東京総合車両センターが鎮座する。高校から少し歩けば、東海道新幹線や京浜急行の路線に出会う。鉄道模型部だけでなく、生徒や先生が誰もが鉄道を身近に感じやすい場所に、品川高校はある。
「そして103系を走らせて調子が悪かったら、コイツを走らせる」
103系電車を並べ終えた釧路が、棚から別の模型車両が入ったケースを取り出す。透明なケース越しに模型車両を見た北斗が、不思議そうな表情を浮かべる。
「EF65の1000番台…と、それは何ですか?そんな車両ありました?」
「クリーニングカー。こいつは走らせながらレールをクリーニングするやつで、トミックスのオリジナル。鉄道模型やってなきゃ、知らないよな」
「EF65はブルートレインを牽引して東海道本線を走っていた、ってことで、クリーニングカーの牽引機として選ばれたそうだよ」
「六郷川鉄橋や下神明トリプルクロスみたいに、線路に直接触れにくいモジュールでは、最初からクリーニングカーの出番になるわ」
釧路につづけて水上と希が口にする。その横で熊本は、モジュールから出ているコードと、鉄道模型の走行をコントロールするパワーパックをつなげていた。
「走らせるよ」
熊本の指がパワーパックを操作すると、103系電車は、建物や架線柱などが取り外されたモジュール上の線路を走り出した。
「順調なようですね」
「複線のもう一つもチェックしないとな…」
ゆいの言葉に、水上が返し、希が続ける。
「他にも部で持っている車両があるから、次の活動では君たちに車両のメンテナンスを教えないとね」
「電車を走らせると、建物や架線柱がなくても、雰囲気出ますね。建物とかを並べると、もっと実物に近づくんでしょうね」
「…もしかして、瀬戸君は鉄道模型コンテストに行ったことがないとか?」
103系を複線の反対側の線路に並べ直し終えた熊本が、北斗の方に向いた。
「ええ、コンテストどころか、鉄道模型は初めてです」
「僕もです」
「だとすると、他校の作品レベルとかを知るのは、ゆいちゃんだけね…」
北斗や信二たちのやりとりを聞いていたゆいは、急に不安になってきていた。
「大丈夫かな…」
「私たちがフォローするから、心配しなくていいわよ、ゆいちゃん」
「でもなぁ、俺たちには山口と水上がいたけど、初心者3人じゃなぁ」
「ゆいちゃん達を不安にさせるようなこと、言わないでよ」
「俺たちが受験でダメなときは、梅小路先輩に頼む手もあるだろう」
希が釧路を睨み、水上がフォローする。
「梅小路先輩?下神明トリプルクロスを作った?」
ゆいは下神明トリプルクロスを再現したモジュールに目を向ける。
下神明トリプルクロスとは、東急大井町線下神明駅近くにある、JR横須賀線、東急大井町線、東海道新幹線が交差する場所を指す。トリプルクロスの近くにある、横須賀線と山手貨物線の分岐点まで含めて、品川高校ではモジュールに再現し、その年の鉄道模型コンテストで最高の賞・文部大臣賞を受賞していた。
「あれは凄すぎます…」
棚に飾られた下神明トリプルクロスのモジュールを見て、ゆいは弱々しくつぶやく。
モジュールでは本線となる横須賀線は土手の上にあり、その土手の上を東急大井町線の高架線が直交する。更にその上を横須賀線に沿って東海道新幹線の高架線が敷かれている。トリプルクロスの隣にある山手貨物線への分岐点・旧蛇窪信号場は、品川祭などのモジュール展示では引き込み線へのアプローチとして使用できるよう作られ、東海道新幹線の高架線も新幹線の模型車両が走行出来る強度だという。そして線路の周囲の民家なども含めて、実際の風景に近い空気を醸し出していた。
「私たちでもあのレベルは無理だから、まずは手堅く、ね」
希が、ゆいの肩をポンと叩いた。
2つのモジュールに続いて東急大井町線戸越公園駅を再現したモジュールと、JR南武線武蔵小杉駅付近のカーブをモチーフにしたモジュールのメンテナンスが終わったところに、顧問の日向いよが顔を出した。
「みんな、差し入れ持ってきたわよ」
「いいんですか、先生、安月給って嘆いているのに」
「ペットボトルのお茶と紙コップくらい、私にも出せるわよ」
釧路を軽く小突いてから、いよは手に提げていた袋を差し出す。
机の上に並べられていたモジュールが片付けられ、代わりに人数分の紙コップと2リットルのペットボトルの緑茶と紅茶が2つ並べられる。ペットボトルからお茶を注ぎ、口につけたところで、いよが希の方を見た。
「結局、佐渡君達は来てないのね…」
「まあ、去年もモジュール造りには消極的でしたから」
希がちょっと肩をすくめる。
「でも、ちょっとねぇ…。釧路君だって元々私と同じ乗り鉄だし、山口さんなんて最初は鉄道ファンじゃなかったし」
「え、そうなんですか?」
いよの言葉にゆいは驚く。
「そ、梅小路先輩と水上君に口説かれたの」
ニッコリと微笑む希を見つつ、ちょっと照れながら水上が言葉を続ける。
「山口は手先が器用で、彫刻が上手くてね。それでうちの部にスカウトしたんだよ」
「正直、模型造りにここまでハマるとは思わなかったけどね」
「つまりさ、鉄道模型に興味が無くても、ものを作ることに興味のある、あるいは手先が器用な子を探す手もあるんだよ」
ゆいは熊本の言葉を聞いて少し考え込んでから、表情を輝かせて希達を見た。
「ひとり、思い当たる子が居ます」
「で、あたしが?」
翌日の昼休みの教室、食べかけのソーセージパンを机においた井之頭ひかりが、あきれたようにゆいを見つめた。
ゆいは弁当を食べる箸を止め、ひかりを見つめて真剣に頷いてから言葉を続ける。
「だって、ひかりは手先起用じゃない」
「あのねえ、私だって手芸部の活動が…」
「ね、小学校以来の親友のお願い!」
「…無理だって」
両手を合わせて拝むゆいに、ひかりはため息と共に一言つぶやいてから、憮然とした表情でパンを頬張った。
「そんなに人手不足なの?」
ゆいとひかりの傍でアコースティックギターをチューニングしていた千葉水穂が声をかけてきた。
ゆいと水穂はこの高校で知り合ったが、席が近いこともあって会話することが多かった。
「そ、そうなの」
ゆいは、水穂の方を振り向く。
「あ、水穂でも…」
「あたしはこっちがあるから」
水穂はギターを軽く叩いた。
「そう簡単にはいかないよ」
大井町駅近くの、鉄道模型店が入っているビルの階段を歩きながら、北斗がゆいに声をかける。
「まずは僕たち3人で頑張るしかないよ」
「でもなぁ…、信二の周りにはいないのか?」
「いないよ。北斗君こそ、どうなの」
「…残念ながら」
北斗と信二の言葉を聞きながら、ゆいはクラスメイトの大鳥隆を思い出していた。
西新井公園で、展示されたSL・C57や東海道本線・京浜東北線を走る電車を見ていた隆の目は、鉄道ファンの目だ。ゆいにはそんな直感があったが、何故か彼は声をかけづらい雰囲気を醸し出していた。
階段を上りきると、3人の目の前にはディスプレイされた鉄道模型や関連書籍、そしてお客が模型車両を持ち込んで走らせることが出来るNゲージのレンタルレイアウトが置かれた店内が目に広がる。
「あれ?」
店内の一角、樹木の模型などが置かれている一角を北斗は凝視した。
「…うちの生徒だよね?」
品川高校には制服があるが、私服を着てきてもいい校則となっている。今日はゆいと信二が制服、北斗は私服である。
北斗の視線の先には、品川高校の制服を着ている少女がいた。
ゆいは駆け足でその女性に向かい、北斗と信二が慌てたように追いかける。
「すみません、品川高校の生徒さんですか?」
「そうですけど?」
その少女は不思議そうな表情で、ゆいの方を向いた。
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