屏風の虎・後


「――――――――クラム、逃げるぞッ!」


 反応が早かったのは、コータローだった。

 ようやく正気を取り戻し、危機を理解し、直感し、隣で放心したままの親友の手首を掴んで引っ張り出す。

 駆け出す方向は当然後方。

 来た道を引き返し、工場から逃げ出して、虎から離れるために。


「あ、ああ! だ、だが……追ってくるぞ!?」


 遅れて正気を取り戻したクラムが己の足で走り始める。

 それと同時に後ろを向けば、ああ。


          


 咆哮。

 冗談みたいに、猛獣のそれ。

 虎は酷く楽しそうに、愉快そうに、愉しそうに、全身のバネを震わせ駆け出した。

 そのひと足で、逃げ出した分の距離が一瞬で無に帰す。

 速度が違い過ぎる。

 四足で地を蹴る狩猟者と、二足で逃げ惑う猿の末裔では、瞬発力が違い過ぎる。


「ヤバいヤバいヤバいヤバい!!!」

「クソッ、せめてもっと怪異らしい奴なら弱点なりなんなりあろうものを……!」


 それでも、逃げるしかない。

 駆ける。駆ける。距離が縮まっていく。

 虎の咆哮が、徐々に、徐々に。

 数十mはあった距離は、あっという間に半分にはなっただろうか。

 蝉の声が聞こえない。

 もう、それどころではなかった。

 追いつかれる。

 半分はさらに半分に。

 そのまたさらに半分に。

 虎がアキレスで、二人は亀であったなら――――永遠に追いつかれないパラドックスは、発生したのだろうか。

 ……するはずはない。

 虎の吐息が聞こえる。

 すぐ耳元。

 追いつかれる。

 否。追いつかれた――――!


「クソッ、この……!」


 万事休す。

 ならばせめて一矢報いんと、コータローは振り向きざまに拳を繰り出した。

 虎に素手で勝てるのか――――答えは確実に、否であろうけど。

 それでも追いつかれるまま無抵抗に殺されるよりは、よほどマシな最期だと思った。

 万が一にでも、親友が逃げ出す時間ぐらいは稼げるかもしれない。

 そう思って、拳を繰り出した。

 さっと風が吹き、雲が流れる。

 日光を覆い隠していた雲が滑り、地上を覆う影の帳は上がった。

 突き刺さるような陽光が地上に振り注ぐ。

 振り返った先には、虎がいる。

 その顔面に、拳を叩き込む――――――――寸前に。


 虎が、消えた。


「うぉっ!?」


 殴るはずの相手が急に消失したものだから、思わずコータローはバランスを崩す。

 たたらを踏んで、一歩、二歩。

 つんのめって、けれどもかろうじて転倒を回避して……これだけの隙を晒しても、虎は襲ってはこなかった。

 先ほどまでの光景が夢だったとでも言わんばかりに、虎の姿が消えている。


「……!? お、おい、今の虎は……!?」

「わ、わからん! 確かにお前が振り返る瞬間まではいたはずだが……!」


 慌てて周囲を見渡す。

 けれど、虎はいない。どこにもいない。

 白昼夢か、はたまた蜃気楼の如く――――消えた。


 ……かと、思えば。



     ぐ      る    る 、



 と、唸り声が聞こえるのだ。

 克明に。どこかから。


「おいどこだよ今の……!」

「待て……あそこ! あそこだ!」


 クラムがある方向を指さす。

 そこは、二人が逃げていた進行方向――――街路樹の下。

 その影の中で、ニタニタと笑いながら虎が唸っている。

 さぞ可笑しそうに、随分と楽しそうに。

 追いかけるでも襲いかかるでもなく、そこにいる。

 それが逆に、それも逃走方向にいたものだから余計に――――逃がしはしないと、笑っているようで。


「遊んでやがるのか……!?」


 いいや。

 遊ばれているのだ。


「落ち着け! 逆に考えろ……今の挙動、明らかに普通の虎ではない」

「普通の虎は街中にいねーよ!」

「ああそうだ。つまりあれは、普通の虎ではない……なんらかの法則を持った、虎のバケモノだ!」


 焦燥は恐怖によるものか、じりじりと照り付ける日光による錯覚か。

 笑う虎を睨む。

 あれなるは、獣などではありえない。

 尋常ならざることわりに住まう、虎の怪異に他ならぬ。

 であれば――――であれば。

 姿を消し、遠くへ瞬間的に移動するその奇妙な性質には、なんらかのからくりがあるはずである。

 瞬間移動自体が怪異の能力であるとしても、そこには法則があるはずである。


 口裂け女の怪が問いから始まるように。

 河童の怪が胡瓜を好むように。

 メリーさんの怪が電話から始まるように。

 鬼の怪が煎り豆に弱いように。


 怪異には性質があり、法則があり、場合によっては弱点があり――――対抗策がある。


 当然だ。

 街中に出る虎のウワサが流れている。

 ということは、この虎と遭遇して生き延びた人間がいるはずなのだから。

 非現実的である、などという思考はもはや二人の中には無い。

 ただ、目の前にある怪異という名の死に、どう対応するかということだけが問題なのだ。


「クソッ、一休さんじゃねぇんだからよォ……!」

「まったく、本当に虎が出てきたら、一休さんはどうするつもりだったんだろうな?」

「言ってる場合か!?」

「言い出したのはお前だ。さて――――」


 あの虎の正体は……恐らく、武田ナオトの描いた虎である。

 なんの因果か平面の虎は命を得て、夜な夜な抜け出し人を襲っていた。

 理屈はわからないが、筋としてはそうなるのだろう。まるで一休さんのとんち話だ。

 夜な夜な暴れる屏風の虎を退治してくれと依頼された一休さんは、では今この場で虎を外に出して見せれば捕らえてしんぜようと切り返したというが――――実際に出てきた屏風の虎に、果たしてどう対処したものか。


「……話じゃ、虎は夜に出て来るんじゃなかったのかよ?」

「そのはずなんだがな……別の個体、というわけでも無いとは思うのだが」


 虎はまだ座ったまま、襲い掛かって来る様子は無い。

 ひとまずじりじりと距離を取る。

 退路は事実上、断たれたと言ってもよい。

 手元にあるのは財布とスマホ。それから、クラムが未開封のコーラのペットボトルを持っているだけだ。コータローは既に飲み干してゴミ箱に捨てた。


 ざぁ、と風が吹く。今日は風が強い。

 嵐が近いのだそうだ。今日来るわけでは無い。流石に嵐の中なら、あの虎も出てこなかっただろうか。

 雲が滑るように流れていく。

 またしても、太陽に雲がかかって日光が遮断され――――――――動いた。


「っ、来たッ!」


 虎が動いた。

 待ってましたと言わんばかりに、駆け出した。

 がおお、と咆哮。喜悦と共に。

 慌てて逃げだす。振り向く余裕もない。

 ひとまず廃工場の方へ。外周をぐるりと回るように、曲がり角を通過して、



              



 ――――――――いる。

 おかしい。

 先ほどまで、後にいたはずなのに。

 目の前に、いる。

 虎が、そこにいる――――――――!


「なんで、だよっ!」

「やはり、瞬間移動! どういう条件で……!」


 慌てて曲がり角を逆走する。

 虎の声が聞こえた。哄笑のように聞こえた。

 笑っている。嗤っている。嘲笑わらっている。

 脅かしたことを喜ぶように。驚く顔を楽しむように。

 距離がある程度開いたところで、虎の方も駆け出した。

 鬼ごっこを楽しむために、意図的に猶予を作られている。

 いよいよ遊ばれているのがわかり、腹が立つ。

 腹が立つが、それどころではない。

 重く柔らかい足音が、虎の持つ質量を否応無く想起させた。

 追ってきている。振り返れば、僅か十数mの距離。

 完全に追いつかれるまで、何秒の猶予がある?

 そう長くはあるまい。あるいは今すぐにでも。

 全ては虎の気まぐれ次第。あれがその気になった時が、二人の最期になるだろう。

 虎がステップを踏むように駆ける。

 そして何度目か、雲に覆われた陽光が顔を出し――――

 太陽が、ではない。

 また、


「っ、また、っていうか今の見たよな!?」

「ああ、確かに消えた! 俺たちの目の前、見ている中で……!」

「どこだ!? どこ行きやがった!」


 慌てて周囲を見渡す。

 唸り声が聞こえていた。

 ぐるる、と喉を鳴らす音。零れ落ちた喜悦の音。

 それは行く手から聞こえて、次の瞬間には後方から聞こえていた。

 まるで無数の虎に囲まれているようで、けれどそうではない。


 ――――――――どこへ逃げようと、無駄な抵抗に過ぎない。


 そう伝え、嗤っている。

 あがいて見せろと、楽しませろと、嘲笑あざわらっているのだ。


「クソが……! なんなんだよマジで……!」

「……日光……もしかすると……いやしかし……」


 恐怖を誤魔化すようにコータローが悪態をつき、思考の渦に飛び込んだクラムがぶつぶつと呟きを零す。

 この状況こそ、あの虎の望むものなのだろう。

 それがわかるから、絶望が鎌首をもたげはじめる。

 もはや何をしようとあの虎の掌の上で、自分たちに生存の未来はないのではないか、と――――その時。


 ――――――――てぃろん。


 と音がふたつ。

 コータローとクラムのスマホから。

 二人は急な電子音に飛び上がって驚いたが、次の瞬間には状況を理解した。

 スマホにインストールされている、コミュニケーションアプリの通知音。

 それが二人同時というのは、偶然などではなく。

 コータローとクラムと、のグループチャットに通知が入ったのだと、二人は顔を見合わせて理解する。


「「―――――――――――テラ子っ!」」


 もう一人の幼馴染、玉坂寺子からの連絡。


「コータロー! 俺が対応する! お前は虎を警戒しろ!」

「お、おう! わかった!」


 玉坂寺子は、スポーツ万能とはいえただの女子高生に過ぎない。

 だからもちろん、虎と戦って勝てるような超人ではない。

 けれど――――外部からの助けは、状況を変えられるかもしれない。一縷の希望がそこにはある。

 なぜなら、なぜなら彼女はなのだ。その名の通りに。住職の娘だからって“寺子”は安直すぎないか、とよく文句を口にしているが。

 彼女自身は僧侶としての修行を積んでいるわけでは無いらしいが、それでもあの虎が怪異であるのなら、なにかしらの対処方法に心当たりがあるかもしれない。父親は現職の僧侶だ。呼べば助けになるかもしれない。

 いささか荒唐無稽で飛躍した思考にも思えたが、そもそもが街中に現れて瞬間移動する虎の怪物の方がよほど荒唐無稽だ。

 荒唐無稽には荒唐無稽。頼ってみる価値はある、と判断。メッセージを確認する。


『場所取りのトラブルで解散になりました。今火囲駅なんですが、二人はなにしてます?』


 添えられた、デフォルメされた狐のようなキャラクターが小首を傾げるスタンプ。クラムは素早く文字を入力する。


『虎に追われている』

『は?』

『二人で虎に追われている』

『……ゲームか映画ですか? 私も混ざります』

『違う。本当に虎に追われている。冗談のようだが、嘘じゃない。川向こうの廃工場にいる。向こうが遊んでいるのかまだ殺されてはいないが、時間の問題かもしれん』


 もしも立場が逆だったら、からかわれていると思っただろうか――――幼稚園の頃からの友情に希望を託す。


『虎は明らかに普通じゃない。実体化した虎の絵のバケモノだ。妖怪退治のアテはあるか?』

『……本気で言ってます?』

『残念ながら。助けてほしい』

『わかりました。少し待ってください。気を付けて』


 話が早い。

 できれば大人も連れてきてほしい、と伝えるべきだろう。画面をタップし――――――――また、太陽が雲に隠れる。


「マズい! コータロー! 恐らく来るぞ!」

「はぁ!?」


 メッセージの入力をとりやめ、クラムは注意の対象を虎に移した。

 喜悦。咆哮。

 建物の陰にいた虎が、のっしと一歩を踏み出した。

 先ほどまで陽の当たっていた世界を、これぞ我が世と踏み躙るように、一歩。


「なんでわかった!?」

「影だ! あの虎は影の中でしか活動できない! 光に弱いんだ!」


 太陽が雲に隠れた時ばかり、虎は襲い掛かってきた。

 太陽が雲から顔を出す度に、虎は姿を消していた。

 元々、虎は夜にのみ出てきていたはずだ。

 それはきっと、光に弱いからだ。

 闇から闇へと飛び移る能力を持った屏風の虎は、光のある世界では生きていけないのだ。

 理由はわからない。怪異だからか、元が強い光で劣化していく絵だからか。

 いずれにせよ、きっとそうなのだ。これまでの追いかけっこで、そのことは推測できた。


「わかった、けど!」


 けれど。

 虎は駆け出している。

 太陽は雲に隠れている。

 今日は風が強く、雲の流れが非常に早い。

 しばらく待てば、また雲の奥から日差しが顔を出し、虎を追いやるのだろう。


 ……、である。


 今。

 この場。

 既に駆け出している虎は。

 結局のところ、どうしようもないのではないか――――!?


 虎が迫る。

 来る。逃げなければ。

 けれど、けれどクラムは踏みとどまった。


「お、おいクラム!?」

「どうせ遅かれ早かれなら……!」


 虎が迫る。

 全身の筋肉を躍動させ、咆哮と共に駆け迫る。

 それを前に、門原眩夢は立ちはだかる。


 死、である。

 襲いかかる猛獣は、生きた死そのものである。

 抵抗などできるはずもなく。

 ただ、無惨に殺されるのみ。

 その程度のことはクラムにだってわかっているし、コータローにだって予測できる。

 仮にこの虎が怪物で無かったとして――――ただというだけで、致命的過ぎるのだ。


 咆哮。

 クラムの、引きつった笑み。

 遅かれ早かれと、彼は手に持つスマートフォンを虎に向けた。


「――――試してみる価値は、あるッ!」


 瞬間、影を照らし上げる光。

 陽光――――

 スマホから放たれる、懐中電灯機能の光!

 まばゆい輝きが虎を照らし――――虎が、悲鳴と共に怯む。

 顔をそむけ、体を持ち上げ、顔を隠すように手を振り回す。


 効いている――――――――


 確信の直後、虎の姿がスッと消えた。

 太陽の光を受けた時と同じように。

 アスファルトに溶け行くように!


「よしっ、効いた!」

「うおおお! スゲェ! これなら……!」



       ぐ    る     る  。



 ――――それから。


 苛立ちを孕んだ、虎の唸り声。


「……油断はするな」


 背中合わせに、二人はスマホを構える。

 この炎天下の中、懐中電灯機能を起動しっぱなしにしていては過熱で充電消費も凄まじいことになる。だから、いつでもライトをつけられるようにしながら周囲を警戒する。

 太陽はまだ雲の中。

 油断はできない。唸り声が聞こえる。

 それはどこからでも聞こえる。

 きっとあちこち“跳び”ながら、こちらの様子を伺っている。

 この人間は、牙を持っている――――それを認識し、苛立っている。

 おもちゃが反抗してきたのだ。その不快さは相応のものだろうし、今後の手加減には期待できまい。

 ひとまず対抗策を手に入れた二人だが、むしろ状況は悪くなったとすら言える。ここまで無事でいられたのは、虎が追いかけっこを楽しむように遊んでいたからという部分が大きいのだから。


「……俺、充電残り38%」

「バッテリーの寿命だ。買い替えろ。……俺は67%だ」

「まぁしばらくは持つかな……クソッ」


 工場地帯からの脱出――――これを、狙うべきなのだろうか。

 それで、虎は諦めるのだろうか。

 人の多いところに連れて行けば、消えるのだろうか。

 ……それとも、人混みに飛び出して虐殺を始めるのだろうか。

 それは避けたい。だが、死にたくもない。

 先ほどテラ子を呼んでしまったが、それも正しかったのかどうか。

 寺の子だから。住職だから。そんなふざけた理由で、本当にあの虎が倒せるのか。

 どうすれば助かる? 虎の狙いもわからない。

 あれはなにがしたいのだろう。どうして生まれたのだろう。

 強い光に弱いようだが、他に弱点はあるか?

 光に当てるだけでは姿を消すだけで消滅するわけではない。

 もっと致命的な、確実にトドメを刺せる手段はないか?


 思考が回転する。

 唸り声が聞こえる。

 それが焦燥を煽る。

 咆哮が聞こえた。

 咄嗟に二人の視線がそちらを向く。

 だが、何もいない――――――――




              ッ!!




 その咆哮は、後ろから。

 なんのために、背中合わせになったのか。

 悔いる時間は無い。

 しまった、と思った時にはもう遅い。

 来る。

 否。

 


 悲鳴。

 を上げる間すらなく。


 振り返る。

 その余裕すらなく。


 クラムが押し倒される。

 倒れた拍子にスマホが手を離れ、転がっていった。

 受け身も取れない。うつぶせに体を地面に叩きつけられる。

 上にいる。重く伸し掛かる。

 吐息が首にかかった。

 小さく唸り声。

 殺される――――――――直感ですらなく、予測ですらなく、ただ横たわる未来への理解。


「まっ、この……!」


 慌ててコータローがスマホを構える。

 光。

 光を当てればこいつは消える。

 今、親友の上に伸し掛かって蹂躙せんとする怪物を、ひとまずどこかに追いやれる。

 指先の感覚が無い。

 スマホを握る手が震える。

 頭は真っ白で、とにかく急がなくてはという焦燥だけが体を動かしている。

 ライトをつける。

 ライト、ライトを、



             ッ!!!



 咆哮。

 虎が振り返る。

 コータローを睨んでいる。

 その瞬間には、飛び掛かっている。

 飛び掛かるために地面に押し付けられたクラムが、小さく苦悶の声を漏らした。

 それらの情報を処理した瞬間には、虎はもう目と鼻の先――――いいや、既にコータローに爪を突き立てている。

 シャツを貫き、爪が肩に突き刺さった。

 そのまま突進の体重がかけられ、後ろに押し倒される。

 背中から地面に叩きつけられる。後頭部を打たなかったのは不幸中の幸いか。

 肺の中から空気が漏れる。

 スマホ、

 を握る手首を踏みつけられた。

 動かせない。万事休す。

 眼前に虎の顔。

 怒りと憎悪と喜悦。混ざった表情。

 吐息。生臭く。

 混ざるシンナーの香り。元がスプレーアートだからか。

 肩に突き刺さった爪が乱暴に引き抜かれた。

 苦悶の声。

 爪が振り上げられる。

 やられる。死。ゲームオーバー――――――――――――


「コータローから、離れ、ろォッ!!!」


 ――――虎の横顔に、何かが当たる。

 投擲。クラムが投げた。

 缶ジュース――――先ほどクラムが購入したまま飲み損ねていた、コーラ!

 衝突、と同時に中身が破裂する。

 ポケットに入れっぱなしだったのだ。

 走って、逃げて、倒れて……“コーラを振ってから開けると爆発する”なんて、子供だって知っていることだ。

 パンパンに膨張した炭酸は、着弾の衝突に耐え切れず爆発した。

 虎の顔に、コーラがブチ撒けられる。

 困惑の悲鳴。

 顔を覆うように、虎が怯んだ。拘束が緩んだ。


「こ、の……!」


 転がるように、コータローが虎の下から逃れる。

 肩が痛む。手首が痛む。背中が痛む。

 それを全て無視して、スマホを操作する。

 虎が立ち直った。

 だが、遅い。

 コータローはスマホを虎に向け、画面をタップする。


「食らいやがれぇぇぇぇぇーーーーーーーッ!!!!!」


 ライト、懐中電灯機能――――直撃を受けた虎は苦悶の咆哮と共に、消滅した。


「はっ、はっ、はっ……! 助かったぜ、クラム……!」

「ああ……だが、次はないだろうな……」

「クソッ、夢じゃあねぇんだよなぁ……! いてぇもんなぁ、畜生……!」


 ――――またどこかから、虎の唸り声は聞こえている。

 ようやく太陽が雲の裏から顔を出し、周辺を照らした。

 ……クラムのスマホは建物の影に入っている。

 回収するためには影に踏み入らなければならず、それは虎の領域への侵入を意味し――――まぁ、難しいだろう。

 またしばらくは余裕ができた。

 体力の回復に努めなければ。

 しかし、どう逃げればいいのか。


「……待てよ。夢、夢か……」


 クラムが何かに気付いたように、あるいは気付きかけたように、顎を撫でる。

 思考する。思案する。

 それだけが、この場を脱する最後の手段。

 タイムリミットは、次に太陽が雲の中に隠れるまで。

 虎の唸り声が聞こえる。

 ついにそこには、殺意も混じっているように聞こえて。


「……テラ子の奴、こねぇように連絡しとくか……?」

「…………その方が、いいかもしれんな」


 それはただ、巻き込むだけだ。

 今更過ぎる理解。

 けれども、まだ間に合うかもしれない。

 スマホを失った代わりに、コータローがメッセージを送る。

 日光に照らされて画面がよく見えない。

 己の影にスマホを入れ、入力を、


 ――――――――虎の、腕。


「ぐあっ……!?」


 伸びてきた。

 腕だけが。

 どこから?

 ――――コータローの、影から。

 スマホが叩き落される。

 そうだ。なぜ気付かなかった?

 虎は影から影へと跳躍する。

 ならば、それが怪異であるならば、それだけに留まるという保証はどこにも無い。

 影ならあった。最初から。

 手を抜いていたのか、虎自身思い至らなかったのか。

 二人の影から、虎の腕だけが現れる――――足を掴まれた。

 動けない。動かせない。

 引き倒される。バランスが崩れる。尻餅をついた。

 影から、足元から、虎の頭がゆっくりと現れる。

 まずはコータロー。

 虎の顔が、喜悦に歪んでいる。

 笑っている。嗤っている。嘲笑わらっている。


「クソ、このっ、畜生! オラッ!」


 必死に掴まれていない方の足で虎の顔に蹴り込む。

 けれども虎は不快そうに一瞬だけ怯んで、それきりだ。



                  っ!!!



 咆哮。

 並ぶ牙。

 殺意であり、刃。

 次にそのうざったい蹴りを使えば、足ごと食いちぎってやるぞ――――そう言わんばかりに。


「っ、待て! 聞け!」


 クラムが叫んだ。

 足を虎の腕に掴まれている。

 動けない。けれど。


「聞け、ッ!!」


 叫んだ。

 名。

 この虎を描いた者の、名。


 ぴく、と。

 虎が動きを止めた。



「――――! 人殺しになるぞッ!!」



 吠える。

 虎がクラムを見る。

 訝しむように。思案するように。

 間――――そして。

 それを振り切るようにかぶりを振って、虎はもう一度吠え声を上げた。

 呼応するように、太陽が雲の裏に隠れた。

 影の帳――――絵画の虎が、その全身を影から這い出した。


「待て! 夢に呑まれるな! お前は虎じゃない! 目を覚ませッ!」


 畳み掛ける。

 あるいは懇願する。

 けれど、虎はそれを無視した。

 咆哮、咆哮。

 その牙を、コータローに突き付けて――――――――




「破ァァァァァァァァァーーーーーーーーーーーーッ!!!!」




 ――――――――美しいドロップキックが、虎の胴体に突き刺さった。

 虎が横倒しに転がる。

 猛獣の重量とはいえ、無防備な横腹に勢いをつけたドロップキックを受ければそうもなるか。

 下手人が着地する。

 それは栗色の髪を短く切りそろえた、夏用ジャージの女子高生。

 スラリとした長身。起伏の少ない、しなやかでスレンダーな体つき。

 『ヒガ高のジャンヌ・ダルク』『テラ子先輩テラかっけぇ』『火囲の恐怖テラー・オブ・ヒガコイ』などと呼ばれる才媛。



「「――――――――――――テラ子ッ!!!」」

「今日のテラ子はテラ子を超え、ペタ子です。……ほんとに虎ですね。コーちゃんもラムちゃんも、無事ですか」



 玉坂寺子。

 寺の子だから寺子、なんて安直な名前の、コータローとクラムの幼馴染。

 彼女は表情に乏しい顔で、鋭く虎を睨みつけた。

 隙だらけだったとはいえ、迷いなく虎にドロップキックとは恐れ入る。


「で、逃げますか? 流石に正面からでは私でもいささか」

「横からでも十分すげーよ。どういう度胸してんだ」

「寺生まれなので、行けるかな、と……」

「いや寺生まれを信用しすぎだろ。……でも、あいつから逃げるのは……」

「――――ああ。畳み掛けるぞ。ここで終わらせる!」


 そこに並び立ったのは、クラムだった。

 ゆっくりと立ち上がる虎に、指を突き付ける。


「武田ナオト! もう一度言うぞ! これは現実だ! お前は夢の中のつもりかもしれんが、お前は現実に人を襲っている! お前の友人すらもだ!」


 虎が、僅かによろめいた。


「しかも――――このままだと、お前は死ぬかもしれんぞ!」


 虎が、目を見開いた。



「目を覚ませ、武田ナオト! !!」



 虎が、一歩引きさがる。


「行けテラ子! 目覚めの一発を喰らわせてやれ!」

「お、おい、マジかよ!?」

「……わかりました。信じますよ、ラムちゃん!」


 怯み、隙を見せる虎に向け、テラ子が駆けだした。

 助走をつける。

 距離が詰まる。

 虎は動かない。苦しんでいる?

 いずれにせよ、好機!


「――――――――――――破ァッ!!!」


 渾身の回し蹴りが虎の横面に叩きつけられ――――悲鳴ひとつと共に、虎は消え失せた。


 ……それきり。


 虎の唸り声は、どこからも聞こえなくなった。

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