問うには落ちず

斧寺鮮魚

屏風の虎・前

 ――――――――最近、虎が出るらしい。


 などという荒唐無稽な話を聞いた時、反射的に「暑さで頭がやられたか?」と口にした河太郎こうたろうのことを責められる者は、そう多くはあるまい。


「噂だよ、噂」


 心外だと言わんばかりに唇を尖らせ、虎が出るという妄言を繰り出した男――――門原かどはら眩夢くらむは話を続けた。


 曰く。

 ほんの一週間ほど前――――丁度夏休みが始まった頃から、のだそうだ。

 何が出るのかと言えば、前述の通り虎である。

 、というのだ。

 近くに動物園があるわけでもなく、未開のジャングルというわけでもない、この現代日本の小都市である火囲ひがこい市に。

 出るのだという。

 夜な夜な、出るのだという。

 鋭い牙から唾液を滴らせ、両のまなこを爛々と輝かせ。

 のし、のし、と夜の闇から、虎が現れるのだという。

 そして、それが当然の権利であるとでも言うかのように、出逢った人を襲うのだという。


 荒唐無稽な話である。

 言うまでも無いが、日本に虎は生息していない。

 それこそ動物園から脱走したとか、あるいは映画に出て来るような邪悪な金持ちのペットが逃げ出したとかでもなければ、日本の都市に虎が現れるなどあり得ない。

 けれど――――そのこそが、この話を噂話として確立させているのだということも、明らかであった。人はそういうあり得ない話をこそ、他者に語り聞かせたがるものだ。

 それに、この場合は話し手も良かった。男にしては長い、片目を隠す前髪も、ひょろりと伸びた細身の肉体も、月曜の寝起きかと見紛うような陰鬱な表情も、彼の話に奇妙な立体感を持たせていた。


「……クラムよぉ」

「うん? なんだコータロー」


 けれど。

 けれど、である。

 伊勢いせ河太郎こうたろうは怪談話というものにめっぽう弱く、普段から幼馴染であるクラムにからかわれてはいるけれど。

 金に染めた髪をメンズカチューシャで留めてオールバックにしたなオラついた風貌でありながら怪談に弱いというのが面白いのか、頻繁に怪談でイジられてはいるけれど。


「流石にその話でビビるほど俺はピュアじゃねーぞ……?」


 こんな「下水道には白いワニがいる」みたいなレベルの話をされても、流石に怖がることは難しい。

 そりゃあクラムの口ぶりは妙に実感がこもっていて、聞き手に聞かせる語り口ではあったが。それはそれで、これはこれである。

 夜に虎と遭遇したら死は覚悟せねばなるまいが、虎という現実の動物そのまんまであるが故に怪異的な恐怖とはまったくの無縁だった。不審者情報以下である。露出狂が出たとかの方が具体的に怖い。


「ふむ。真偽はともかく、ウワサとしては実際に流布されているものなんだがな……」

「いやまぁ、虎ってのが意味わかんなくて逆にリアリティあるかもみたいなとこはなくはねーけどさぁ。ちょっとリアリティが半端じゃねぇ?」

「ではリアルな話もしておくか。本日未明、泥酔状態でバイクを運転していた地元の大学生が民家の壁に衝突して入院したそうだ。夏はハメを外す者や、旅行などで慣れない運転を行う者も多い。外出する時は巻き込まれないように気を付けるんだぞ」

「担任の教師かオメーは」


 似たような話を夏休みに入る前に聞いた気がする。

 まぁ実際に事故が発生している以上、用心が必要なのは確かだろう。まったく怪談とかではないが。


「……あ、そーいや虎と言えばさぁ」


 と、コータローはふと思い出す。


「川向かいの廃工場、あるだろ? 」

「ああ、夜になると経営難で首を吊った工場長の幽霊が出ると噂の……」

「やめろ。マジでやめろ」

「ははは、臆病者め。で、なんだ?」


 火囲市の東西を通る二本の川の、西方面。

 川の向かいはかつては小規模な工業地帯だったらしく、けれど不況やらなにやらで大半が倒産してしまった。今ではいくつかの廃工場や廃屋が並び、買い取り手を探しているとかなんとか。少なくとも、二人が幼いころからそこらは廃工場であり、買い取り手が見つかったという話はついぞ聞いたことがない。

 そんなわけだから、当然のように廃工場群は子供や不良、ホームレスなどのたまり場と化した。朝昼は子供たちが駆けまわり、夜には不良がたむろし、あるいはホームレスが雨風をしのぐために寝泊まりする。

 危険だから近付くな、と大人は言いつけるものだが、遊び盛りの子供たちがそんな言葉を聞き入れるはずもない。今でこそ堂々と遊ぶ子供は減ったが、時には度胸試しや肝試しの舞台に使われることもあり、近隣の青少年たちにとっては誰もが知る遊び場のひとつである。


「――――あそこにさ。虎がいるんだよ」

「そうか。頭が暑さでやられたか?」

「被せる感じで言ったのは確かだけど酷いなお前!?」


 クラムは陰鬱な顔で、皮肉げにくつくつと笑った。

 これが彼の心からの笑顔であることをコータローは知っているが、傍から見れば不気味な笑みである。


「くく、冗談だ。……グラフィティか?」

「そう。そういうこと。マジでヤベーらしいんだよそれが」

「ヤバイ、というのはつまり……夜な夜な壁から飛び出して人を……」

「繋げんなよそういうことじゃねーよ。クオリティが高いって話だよ」


 前述の通り、廃工場は夜には不良のたまり場となる。

 不良とひとくちに言っても色々な種類がいるわけで一概には言えないのだが、当然の流れとしてグラフィティ――――カラースプレーによる壁面への“ラクガキ”も横行していた。

 廃工場の外壁など、ラクガキをしたところで誰が文句を言うわけでもない。普通に犯罪ではあるのだが、わざわざ通報などされるはずもなく。実のところコータローもグラフィティを好む絵師ライターであり、時折クラムなどを連れてはグラフィティを描くこともあった。

 そして今――――極めて美しい虎のグラフィティが、廃工場に描かれているのだという。

 これは是非とも目にしなければなるまい、という想いがコータローの中にはあり、


「ちょっと見に行かねーか? それこそ、今にも動き出しそうなぐらいってウワサだぜ」

「ふむ。この炎天下の中、いかにも日差しに弱そうな俺を連れ出すほど重要な用事とも思えんが……」

「……い、行こうぜぇ……頼むよぉ……」


 …………そして前述の通り、廃工場は肝試しの定番舞台でもあり。

 先ほどクラムが口にした、自殺者の幽霊なんかのウワサもあり。

 やっぱり夏と言えば、時期であり。

 率直に言えば――――――――コータローはひとりで廃工場に行くのが怖いので、いつもこうして誘いをかけていたりする。

 それをわかっていて渋るフリを見せるクラムも大概に性格が悪い。コータローは眉を下げ、懇願するように弱々しい声を出した。


「――――ま、構わんだろう。休みだからと言って、家に引きこもってばかりと言うのも不健康だしな」

「よっしゃ! さんきゅークラム! 持つべきものは友達だな! ほんとはテラ子も誘いたかったんだけど……」

「あいつは忙しい時期だ。仕方あるまいよ。適任ではあるだろうがな」

「やめろって……そーいうんじゃねーからマジ……」


 もうひとりの幼馴染――――玉坂たまさか寺子てらこであればまさしく“適任”ではあっただろうが、生憎彼女はあちこち引っ張りだこだ。

 類稀なる運動神経を誇る彼女は帰宅部ながらも強力な助っ人として様々な部に呼ばれており、大会も多い夏ともなれば引く手も数多。凛とした容貌も込みで『ヒガ高のジャンヌ・ダルク』『テラ子先輩テラかっけぇ』『火囲の恐怖テラー・オブ・ヒガコイ』などと呼ばれる才媛であるからして、今日もどこかの部の助っ人をしているはずである。


 そんなスーパー幼馴染に想いを馳せながら、クラムの部屋でダラダラと過ごしていた二人は廃工場へと出かけることにした。


 高校二年生、七月も末のことである。




   ◆   ◆   ◆




 冬は死の季節である、という詩人がいる。

 春は芽吹きの季節であるという詩人がいて、秋は実りの季節であるという詩人がいる。

 ――――であれば夏は、命の季節なのだろう。


 ペンキをぶちまけたように真っ青な空。

 まばらに浮かぶ雲は勢いよく天球を駆け巡り、青々と生い茂る草木は風を受けてざぁざぁと揺れている。

 蝉の声がジィジィとけたたましく鳴り響き、時折羽虫や甲虫の類が飛び回り、それを狙う鳥たちが思い思いに鳴き声を上げている。じりじりと空気を歪めるアスファルトの上で、干からびたミミズに蟻が群がっている。


 溢れる生であり、零れた死である季節――――きっと夏は、命の季節なのだろう。


「あっつ」

「あつい」


 ――――――――などと考えているのは、まず間違いなく現実逃避によるものである。

 外に出た二人は音速で己の決断を後悔した。

 暑いのである。

 何がと言えば暑いのである。

 そう――――そう、暑いのである!


「あつい」

「とける」


 脳が溶けそうなぐらい暑いのである!

 コータローはともかく、普段冷静なクラムでさえ爆速で根を上げて死んだ瞳で歪む大気を睨んでいる。

 廃工場はそう遠くない。徒歩で十数分、といった程度の距離か。

 けれどその十数分が、永遠であるかのように錯覚する。

 自販機で買ったコーラはあっという間に中身を失った。急かすような蝉の声が煩わしい。

 今日は風が強いのがせめてもの幸いか。吹き付ける風が無ければ、二人はとっくに諦めてクーラーの効いた涼しい部屋に帰っているはずである。滝のように流れる汗が風で僅かに冷され、心地好さが顔を出す。「生き返る」と思わず言葉が漏れたが、ならばそれまでは死んでいたのだろうか。強烈な日差しに顔をしかめ、のろのろと歩く様はさながらゾンビのようであっただろうが。

 それと同時、日光照り付けるアスファルトに暗い帳が降ろされる――――空を流れる大きな雲が、太陽を覆ったのだ。影が世界を侵食したかと錯覚するような光景だった、と言うのはいささか大げさであろうか。

 けれど、いくらか涼しげになったように感じたのは事実である。やがて再び顔を出すにせよ、しばしの間は暴力的な直射日光から逃れることができるだろう。夏の日差しはまさしく殺人的だ。比喩でなく人が死ぬこともある。


「マージで熱くなったよなここ数年……」

「さてな……思い出はいつも美しいと言うし、昔も案外こんなものだったかもしれん」

「いやガキの頃は気温40度は超えてなかったって絶対」

「実のところ俺もそう思う」


 雲が太陽を隠している時間は、そう長くないだろう。

 楽な内に、少しでも前に進もうと二人は歩調を速め――――――――



           ぐ  る   る 、



 と。

 低く唸るような音を、クラムの耳は聞き取った。


「(おっと――――車か?)」


 気付かぬ内に、車が後ろから近付いていたか。

 ざぁ、と風が吹きつける。

 同時に雲の帳が上がり、僅かに暗かった世界が光に包まれる。

 陽光が再びアスファルトを焼き付けた。

 熱量が体を苛む。

 その不快感に眉根を寄せながら、後方を振り返ると、


 何もいない。


「……? 聞き間違いか……?」

「おい、どーしたよクラム」

「いや……今、車のエンジン音が聞こえた気がしたんだが……」

「? いねーじゃん」

「……だな。気のせいだったらしい。暑さで幻聴でも聞こえ始めたかな……」

「次の自販機でまたなんか買うか……クソあちぃ……」


 気のせいか、とクラムは判断した。

 きっと気のせいだ。あるいはひとつ隣の道を走る車の音だったのかもしれない。

 そう結論して、人気ひとけの無い住宅街を二人で歩く。

 気のせいだ。

 きっと気のせい。


 きっと――――――――あれは虎の唸り声なんかでは、無いのだろう。


 きっと、そのはずだ。




   ◆   ◆   ◆




 そんな永遠とも思える灼熱地獄の果て、二人はようやく廃工場に到着した。


「さーて、この辺って話だったんだけど……」


 ここでさえじりじりと身を焦がす陽光を手で遮りながら、虎の絵を探す。

 二人連れ立って、廃工場の周囲をぐるりと回り……丁度裏手に、それはあった。


「――――おいコータロー。これじゃないか?」

「お! これ、は――――――――」


 虎の絵――――と呼んでいいのかは、いささか議論の余地があるだろう。

 ビビッドな色彩で描かれたビル群と、ジャングル。

 都会なのか秘境なのか、あるいはその融合なのであろう風景画。


 その中央に座すのは堂々と歩く猛虎、


 本来ならばそこに描かれるべきはずの、


「……すげェ」


 思わず、コータローは感嘆の言葉を漏らした。

 いないのだ。

 そこに、

 ただ、歩く虎の図像が丁度収まるであろう空白が、ビル群とジャングルの中央にぽっかりと空いている。

 虎はいない。

 のだと、コータローはすぐに理解した。

 この廃工場の壁に描かれたグラフィティの世界を飛び出して、“どこか”へと行ってしまったのだ。

 そういうアートなのだ、これは。

 あえて虎を描かないことで、“虎が描いてあった絵”としてこのグラフィティは完成する。

 かつて虎は確かにここに描かれていたが、彼は平面の世界を抜けて生を謳歌しているのだ――――そういうストーリーを、受け手が勝手に感じ取ってしまう。

 虎を描かないことで、虎に命を与えている。

 凄まじい才能。コータローは静かに興奮し、暑さも忘れて半ば呆然とそれを見続けた。

 隣に立つクラムも、コータローほどでは無いにせよ感心した。


「……先ほど話した虎の怪談だが……案外、この絵が出所なのかもしれんな」

「……と、言うと?」

「これほどのクオリティだ。“描かれていた虎は外に飛び出し、夜な夜な人を襲っているのだ”、と……そのような想像力が働いても、おかしくはないと思わんか?」

「思うね……つーか、思っちまった。マジですげェなこれ……」


 そうして虎の絵に集中していたから――――気付けなかった。

 背後から迫ってくるもの。


 ぽん、と――――――――――――いいや。


 ――――――――――――がし、と。


 コータローの肩を男の手が掴む。


「っ――――――――!?」


 素早く後ろを振り向く。

 一拍遅れて、クラムも。

 いる。背後に。

 怒れる、憎悪に満ちた表情の――――



「――――――――テメェ、ナオトの虎になにしやがった……ッ!」



 顎髭を生やした不良が、コータローに睨みを利かせている……!


「えっ!? ちょ、な、なんの話だよ!?」

「とぼけてんじゃねェぞゴラァッ!!! ナオトの虎はどーしたんだっつってんだよ!!!」


 勢いよく、コータローの胸倉が掴まれる。

 身に覚えがない。それが恐ろしい。理解の外の怒り。憎悪。暴力。


「と、虎なら、そこにあるじゃん!? いねぇけど!」

「だから! その! いたはずの虎をどこにやったかって聞いてんだ!!」

「はぁ……!?」

「お、おい待て。落ち着け。話が噛み合わない。いたはずの虎……?」

「ここに描いてあっただろうが! 虎が! 昨日までいたのに……テメェらがやったんじゃねェのか!? あァ!?」


 不良が壁を指さす。

 そこに虎はいない。虎の形をした空白があるのみである。


「ち、違う! やってない! 俺らじゃない!」

「証拠あんのかコラ!」

「な、無い!」

「あァ!?」

「なんも無いのが証拠! だろ!? 俺たち、消すための道具持ってねぇじゃん! いるだろ! 消すなら!」


 コータローとクラムは、ポケットにスマホと財布を入れただけの軽装である。

 カラースプレーで描かれた絵を消すというのは、中々に労力のいる作業だ。そのためには専用の道具がいるし、時間もかかる。それに、こんなにも綺麗さっぱり――――虎の部分だけを切り取ったように絵を消すなんて、ほとんど不可能だ。


 しばし、間。


 ゆっくり思案し、そのような考えにどうにか至ったのか……バツが悪そうに、不良はコータローを解放した。


「クソッ……悪かったな……確かにお前らじゃ無さそうだ……」

「ハッ、ハッ、は、はは……ゲホッ、わ、わかってくれたなら、いいけどさ……」

「……穏やかではないな。この絵は……元々は虎が描かれていたのか?」

「…………そうだよ。マジにスゲー虎だった……ナオトは、マジに天才だからよ……」


 問えば、不良はぽつぽつと語り出す。

 行き場を失った怒りを、ゆっくりと消化するように。

 ジィジィと蝉が鳴いている。


「ナオト、とは?」

「武田ナオト。小学生の頃からつるんでるダチで……ずっとバカやってた。あいつが美大に上がってからも、よく遊んでんだ」

「美大生か! そりゃスゲーな。……ッスね。どーりでうまいわけッスわ」

「でも、最近はどうも……スランプっつーのか。調子悪いみたいでよ……どうにか元気出してやろーって思って、丁度一週間前だ」


 不良は、視線を壁へと向けた。

 虎のいない、ビル群と密林。

 ……そこにいたはずの、虎を見ているのか。


「散々飲み明かしたからあんま覚えてねーけど、あいつが描いたのは覚えてる。マジでスゲーって思ったのも覚えてる。スゲー虎だった……まるで生きてるみたいで……へへ。あいつも、ちょっと元気出たみたいだった」

「納得のいく作品を生み出したことによるスランプからの脱却か。奇妙な話だが、スランプから抜け出すには傑作を生むのが一番らしいな」

「俺はよくわかんねぇけどな。んでまぁ、昨日だ。最近、夜に虎が出るってウワサあるだろ?」

「ああ、あの脅威がやたら具体的な奴……」

「その話したらナオトの奴、俺の虎が守ってやるから平気だよ、なんて言い出して……面白がって、ここで飲んでたんだ」


 夜間の不良のたむろは、往々にして騒音を伴うために近隣住民には忌み嫌われている。

 ……ということについては、あえてここでは言及すまい。


「それで朝まで飲んで……そしたら、ナオトの奴……あんなことに……!」

「あんなこと、って……」

「…………まさか、今朝あったというバイクの事故か?」

「そうだよ! 医者は命に別状は無いって言ったが、まだ目を覚ましてねぇ……! あの虎は、もしかしたらナオトの最後の作品になるかもしれねぇんだ……! 昨日飲んでた時はまだあったのに、誰がこんなヒデェことを……! 面会もできねぇからなんとなく来てみたら、綺麗さっぱり虎がいなくなってるじゃねぇか……!」


 ……飲酒運転とそれに伴う事故については全力で自業自得である。

 が、それについても言及はすまい。コータローもクラムも、火に油を注ぐ趣味は無い。

 一応グラフィティの世界では“より優れたアートであれば上書きしてもよい”という暗黙のルールがある。それに則って言えば、虎を消すことで作品のステージをひとつ上に押し上げたという見方もできるだろうが……それも口にしないだけの理性が二人にはあった。


「……コータロー。今何時だ?」

「ん? ……11時ってとこだな。つーか自分で確認しろよ」

「そうか。ふむ……」


 ポケットからスマホを取り出して電源をつければ、時計が指し示すのは午前11時を僅かに回ったところ。そろそろ空腹がかま首をもたげはじめ、太陽の熱も一層の力を蓄える頃合いである。


「……時間がどーしたんだよ」

「いやな。先ほどの話を聞くに、彼らが解散したのは4時~5時といったところだろう。遅くとも6時だな。そして現在は11時。その5時間~7時間の間で虎を消す、となると……」

「まぁ……できるとは思うが、そんな早朝に重労働すんのか? って感じではあるわな。誰かがやったってんなら、明らかにケーカク的だ。朝まで連中が飲んでたとこまで把握済みでな」

「だな。それにやはり、虎の消し方が綺麗過ぎる……よほどの技術が無ければ、これほど綺麗に虎だけを消すなどは不可能だ。消しゴムをかけるのとはワケが違うだろう?」

「…………まさかマジでこの虎が抜け出したとか言わねーよな」

「それこそまさか。虎が出るのは夜という話だし、昨晩はまだ存在していたと言っていただろう。奇妙な案件だとは思うが……」

「あんま脅かすなよ……ちょっと怖くなってきたじゃねーか……」

「最近臆病に磨きがかかったな、お前は」

「うっせ」


 なんとも、奇妙な話であった。

 どうにもいやな予感がした。

 これだけ暑いのに、悪寒があった。

 アスファルトが焼ける蒸し暑さが、ひどく不快だった。

 ここにいるべきではない――――根拠のない、そんな感覚。


「……帰るか」

「……だな。では、我々はここで失礼する」

「その、ナオトって人、目ェ覚ますといいッスね……んじゃこれで……」


 悲嘆にくれる不良にそう告げ、二人は廃工場裏をあとにする。 

 不良は「ああ」と気の無い返事をすると、虎の欠けたグラフィティの前で座り込んでなにやらぶつぶつと呟いていた。

 ……親友の事故。

 自業自得の部分もあるとはいえ、ショックも大きいのは当然だろう。

 いささか思うところはあれど、深く関わりたいわけでもない以上はそっとしておくのが無難である。二人の共通見解であった。


「あ、待って。自販機でコーラ買う」

「ん。……俺も買うか」


 工場沿いの道路には、時折自販機が設置してあった。

 いつ設置されたものかわからないし、あちこち錆びて古ぼけて、ラクガキも多い(一部はコータローもやった)ものではあるが、キチンと補充はされているし中のジュースもしっかりと冷えている。子供のころから変わらない、懐かしの憩いの場。

 硬貨を投入してボタンを押せば、一拍遅れてガタンとコーラが滑り落ちた。


「んっ、んっ、んっ……ぷはっ! はぁー生き返る!」

「ほう。死んでいたのか?」

「それさっきも同じ話したろ」

「ははは。というか、毎度ながらよく炭酸の一気飲みなんてできるな……」

「お前炭酸弱いもんな。なんでコーラ買ってんだよ」

「ゆっくり飲むからこれでいいんだ」

「さいで。……しかし、消される前のも見てみたかったけど……すごかったな、アレ」

「……ああ。彼には悪いが、“虎のいない虎の絵”とはな……凄まじい技術とセンスだと俺にもわかる」


 足し算ではなく、引き算の美。

 あえて描かないことで逆に強調する手法。

 誰が何を思って虎を消したのかは不明だが……そうして完成したあのグラフィティは、真に迫るスゴ味があった。作者とその友人には悪いが、そこだけは率直に認めざるを得まい。


「どーやって消したんだろうな、アレ」

「実は最初からはがれるようなトリックが仕込んであって、全てはナオト氏の計画なのかも……」

「あー、下にテープ貼っとくとかで? でも確かにそうでもしないとあんな綺麗には――――」


 会話が弾み。

 風が吹く。

 雲が流れ――――――――日が、隠れる。

 分厚い雲に覆われて、影の帳が地上を覆う。


 ――――――――悪寒。




「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?!?!!!?!?!!?!?!?」




 悲鳴。


「っ!?」

「今のは――――裏か!?」


 出どころは、工場裏手。

 先ほどまで二人がいた場所。

 ――――たった今、あの不良がいるはずの場所。

 半ば反射的に、二人は裏手へと駆け出した。

 何が起こったのかを確かめるために。

 そこになにがあるのか、考えもせずに。

 少し考えれば、わかることなのに。

 悲鳴があるということは――――脅威があると、わかったはずなのに。


 工場の裏手へと踏み込む。

 陰る世界で、再度踏み込む。

 二度目の侵入――――ああ、どうして。

 一度でやめておけば、



       ぐ る

           る、



 唸り声。


 それから、




 




 黄金の毛皮。

 黒い縞模様。

 爛々と輝く瞳。

 大きく盛り上がった肩の筋肉。

 しなやかに伸びた尾。

 たくましい前足――――それで踏みつけにされた、不良。

 どことなくその輪郭を戯画的に感じるのは、それそのものの理不尽を脳が処理しきれていないのか。

 奇妙ながあるように見えるのは、暑さで脳が処理能力を落としているせいか。


「なっ、なん」

「………………!」


 言葉も出ない。

 コータローも、クラムも。

 ぱくぱくと金魚のように口を開閉し、それを前に呆然とする他ない。

 虎である。

 猛獣である。

 人では決して敵わぬ、密林の捕食者である。

 大きく、強く、獰猛なる狩猟者である。

 その虎が、目の前にいる。

 目の前で、不良を踏みつけに、値踏みするように二人をじっと見つめている。


「なん、で……」


 まだ意識を失っていなかったのか、不良は己を抑えつける前足をどかそうともがきながら、困惑に悲痛な声を漏らす。

 なんで。どうして。



「どうして――――――――が、いるんだよォ……!!!」



 虎は、ニィと笑った。

 そのように見えた。

 ニィと笑うはずのない虎が、悪鬼の如き笑みを不良に向けた。

 ひ、と短い悲鳴。

 恐怖が臨界に達したか、それきり不良は意識を失ったようだった。

 くたりと力を失った不良を、虎は少し意外そうに観察し始める。

 僅かに眼を丸くして、体に鼻を擦りつけ、頬を軽く張る。

 まるで人間がするかのような動きに見えて、一層それが不気味だった。

 やがて彼が気絶したことを理解したのか、興味を失ったように顔を離し――――コータローとクラムの方を向いて、またニィと笑った。

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