第18話

 

         ※


 実際に足を踏み入れると、『文明の里』は何とも不思議なところだった。昼間でも雲(スモッグと呼ばれるらしい)に日光を遮られているためか、小さな光の球がところどころに浮いている。いや、長くて細い鉄柱があり、その天辺で輝いているのだ。

 しかし、魔法の反応はないと、ミカもサントも言っている。これが一千年前、神に滅ぼされた文明の名残りなのか。


 サントは相変わらず結界を張っていたが、カッチュウに提案を一つ。


「カッチュウ、結界を解いてもいいかしら? 前も言ったけど、この世界のことは私も詳しくは知らないのよ。何が起こるか分からないなら、魔法力を温存したいのだけれど」

「うむ。取り敢えず危険はないようだ。休んでくれ」


 するとサントは、自らの浮遊魔法以外の魔法力の展開を止め、結界を解除した。

 まさに次の瞬間だった。


「うっ!」

「くっ!」


 結界の中にいた僕とミカは、思わず口元に手を遣った。胃袋が波打ち、逆転するような感じがする。そのくらいの異臭が、この一帯には漂っていたのだ。結界を解かれたせいで、直に空気が鼻や口に入り、気分が悪化してしまった。


「すまないのう、お若いの。これが今、我々が生きていくのに精一杯の環境なんじゃ」


 そう告げてから、また背中を向けるデルム。その衣服と頭部の間からうなじが覗く。僕は、デルムの皮膚が爛れているのに気づいてしまった。

 周囲の人々へと視線を巡らせる。皆極端に痩せ細り、皮膚は青白くて病的だった。こんな異臭の中で暮らしていれば、健康を害してしまうのは必然だろう。


「さ、こちらへ」


 デルムの背中を追って、僕たちはある扉の前に着いた。そこには扉らしきものがあるが、どう開くのか見当もつかない。先頭を歩いていたデルムは、しかし扉の前には立たず、扉の横にある壁の前に向かった。


 いや、これはただの外壁ではない。カッチュウがよく腕で操作しているような、突起がいくつもついている。ボタン、と言うらしい。

 僕たちが見つめる前で、扉は両脇に引っ張り込まれるように開いていった。その奥には真っ暗い廊下が続いているが、外にあった光の球と同じものが天井に配されており、すぐさま明るくなった。

 同時に、室内から風が吹きつけてくる。少しだけ、悪臭が和らいだようだ。


「流石に家の中までこんな空気では暮らせないでな。さあ、入っておくれ」


 促されるままに踏み入ると、確かに悪臭は一瞬で感じられなくなった。


「この外気に晒されたスモッグは、またスモッグとして家々の煙突から排出される。心配はいらん」


 デルムの口調は穏やかだ。しかし、こんな場所で生きて行かねばならない悲壮感を隠しきれてはいない。

 僕やミカが住んでいた村の方がよほどマシだった。神の攻撃を受けさえしなければ。

 

 僕たちは短い廊下を経て、突き当たりの部屋へと招かれた。


「適当に腰かけておくれ。今水を――ああ、いかんな」


 何やら不都合があったらしい。デルムはその禿頭に手を遣りながら、サントの方へと振り向いた。


「さて、そちらの小さいお嬢さん。あなたこそ伝説に聞く魔女だと拝察するが、いかがかな?」

「いかにも」


 落ち着いた調子で応えるサント。どうやら、自分の素性がバレることに抵抗を感じていないようだ。心配げな目つきでケリーが見上げているが、サントは無視している。


 だが、これは異様な事態だと、僕は見当をつけた。あれほどケリーを溺愛していたサントが、今は気にも留めないでいる。これはきっと、何らかの心理戦のようなものが起こっているのではないか。サントとデルムの間で。


「そうかね。やはりあなたが魔女様かね」


 無言の中に、肯定の意志を込めるサント。

 次の瞬間、多くのことがこの室内で発生した。

 

 まず僕が気づいたのは、敵意だ。野生動物の殺気とは異なり、何らかの『狙い』を持った意志。

 はっとして床を見下ろすと、粗末な床板が割れて、何本もの手が伸びてきた。サントの足に絡みつこうと、不気味に揺れ動く。しかしそれらは一瞬にして、真っ赤な色を散らして霧のように消え去った。サントが攻撃魔法を放ったらしい。


「これはどうだ!」


 背後に飛び退きながら、デルムが腕を伸ばす。すると、その腕は一瞬にして、数倍もの大きさに膨れ上がった。

 デルムから殺気は感じられない。しかし、相変わらず強烈な『狙い』は感じ取れる。

 その腕は、一瞬でサントの胴体を握りしめ、拘束してしまった。


「ぐっ!」


 サントが苦し気に息を詰まらせたのも一瞬、彼女の姿は煙のように消え去った。そして僕とミカの間に、シュルシュルと長い布を巻くような音を立てて、再度姿を現した。


 この期に及んで、ようやく僕は事態を把握した。きっとデルムは、サントの魔法力を手に入れたいのだ。恐らくは、この汚染された環境で弱り切った、自身の身体を治癒させるために。

 それにしても、デルムが有するこの身体能力は一体何だ?


「ミカ、どけっ!」


 そう言ってミカを突き飛ばしたのはカッチュウだ。きっと彼も気配を察知していたのか、的確な行動を取った。『的確な行動』の意味するところは、ミカの身代わりに自分が無数の腕に捕らわれる、ということだ。

 

 今度の腕は、床のみならず壁や天井からも伸びてきていた。その数、十本は下らない。関節をいくつも有した腕は、あたかも死者の腕が繋がってできたような、気味の悪さをたたえている。


「ふんっ!」


 カッチュウは自分の腕から刃を展開させ、自分を掴んでいる細い(しかし強力な)腕を斬り離しにかかった。僕も短剣を抜き、カッチュウの援護を試みる。だが、ようやく二本目を腕を切断できたと思った瞬間、僕とカッチュウは勢いよく背後の壁に叩きつけられていた。


「がはっ!」

「ぐあっ!」


 見れば、デルムの巨大な腕は二又に分かれ、僕とカッチュウの腹部に打撃を与えていた。一瞬気が遠くなりかけたが、すぐに体勢を立て直す。腕が分かれたことで、破壊力が分散されたのが幸いだった。


「か、カッチュウさん……!」


 僕が声を絞り出すと、カッチュウは自らが無事だと示すように二、三回頷いた。

 視界が鮮やかな紅色に染まったのは、その直後のことだ。サントが両の掌を突き出し、炎を発している。そのそばでは、ミカも攻撃魔法の詠唱をしていた。

 肉の焦げる強烈な臭い。どこか『文明の里』に漂う臭気に似たものが、部屋中に充満する。


「はあっ!」


 ミカも、サント同様に腕を前方へと伸ばす。すると、サントの火炎放射で焼け爛れた腕に、鋭利な氷が何本も突き刺さった。

 ミカとて魔術師の血を継ぐ者だ。強烈な高温に耐えたデルムの腕は、急激に冷やされることによって脆くも崩れ去った。


 僕とカッチュウが立ち上がったのは同時。その頃には、カッチュウは長い銃器を変形させ、榴弾を発射できるようにしていた。接地し、寝そべって発射体勢を取る。そして一言。


「くたばれ、化け物ジジイ!」


 ドォン、と勢いよく放たれた弾丸が、寸分違わずデルムの腹部に命中。少しめり込んでから、デルムの上半身諸共、爆発四散した。


「やった!」


 と僕は声を上げた。しかし、僕はすぐさま自分の目を疑うことになる。その場に残っていたデルムの腰から下の部分が、こちらに走り込んできたのだ。

 こうしてみると、やはりデルムは人間ではなかったのだと思い知らされる。では、一体何なんだ?


 デルムの前に立ちはだかったのはサントだ。詠唱もなしに、今度は片方の掌を突き出す。そこから発せられたのは、見えない巨大な手による横殴りの平手打ち。デルムは吹っ飛び、ガシャンと耳障りな音を立てながら壁を破った。そのまま外へと弾き飛ばされる。

 すぐさまカッチュウが、壁に空いた穴の向こうに銃撃を加えた。


 しかし、その程度で倒されるデルムではなかった。

 腰から下だけになった姿でむくりと起き上がり、膝を屈めて跳躍。カッチュウへと迫った。

 が、カッチュウとて無策であったわけではない。


「ミカ、俺に耐衝撃魔法をかけろ! 今すぐ!」

「は、はいっ!」


 カッチュウは、サントの魔法力温存を見越して、ミカに頼んだのだろう。だが、何をしようと言うのか?

 すると、カッチュウは長い銃に再び榴弾を込めた。今までは、きちんと接地して使用していた榴弾砲。だが、今はそんな暇はない。腰だめに構えるだけで精一杯だ。


 ミカの施す魔法の紫色がカッチュウの全身を包み込んだ直後、ドォン、という爆音と共に、カッチュウは室内へ、デルムはその反対側へと吹っ飛んだ。

 壁に叩きつけられる前に、ふわりと無事着地に成功したカッチュウ。対するデルムは、今度こそ全身を木端微塵にされ、生命活動を停止したようだ。


「ふう、全く世話の焼けるジジイだな」


 肩を回しながら告げるカッチュウ。どうやら、ミカの耐衝撃魔法は上手く機能したらしい。


「ありがとよ、ミカ」

「あっ、いえ」


 ミカに穏やかな声をかけるカッチュウ。だが、デルムという人型の怪物は、この『文明の里』での戦闘の始まりにすぎなかった。

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