第16話
※
「ジン、ジン! 起きなさい、もうすぐ朝ご飯よ」
「う、ん……」
優しい声に、穏やかに揺すられるようにして僕は目を覚ました。
「母さん?」
それは、いつもの家庭での一幕だった。料理を終えた母が僕を呼びに来て、父が僕たちの器にスープを取り分けている。
「おはよう、ジン」
一歩下がり、母は僕と目を合わせながら笑顔を作る。
「おはよう、母さん」
「おーい、母さん、ジンはまだ目を覚まさないのかい? スープが冷めてしまうよ」
父の声に、母は『もう起きたわ』と告げる。僕は寝間着から普段着に着替え、母と一緒に廊下に出た。欠伸を隠そうともせず、伸びをしながら階段を下りていく。
「あ、おはよう、父さん」
「おうジン、おはよう」
父はちょうど、スープを取り分け終えて自分の席に着くところだった。しかし、料理はまだあるらしい。かまどから、大きな皿を取り出している。そこから漂ってきた匂いに、僕の腹の虫がキュルルル、と情けない羽音を立てる。
「と、父さん! まさか、今日の朝ご飯って……!」
にやりと口元を綻ばせる父に代わり、母が答えた。
「そうよ、ジン。牛肉のステーキ。何せ、今日はあなたの誕生日だからね」
「やったあ!」
僕は無邪気な声を上げた。そして、気づいた。
「ん……?」
僕の視点が、僕の身体の外にある。今の僕は、客観的に僕と両親の姿を見つめているのだ。
僕は改めて自分の姿を見つめた。五、六歳くらいに見える。随分と昔の話だ。
しかし、直感的に僕は察した。こうして僕たち一家を見つめている僕は、彼らに影響を及ぼすことができない、ということに。
待てよ? どうしてそんなことが気になる? その時、足元から頭頂までを、電撃が走り抜けた。彼らを止めなければ。二、三年後、彼らは飛行船での移動中に、神の攻撃で死亡する。僕とて心理的に深い傷を負うことになる。
「ま、待ってくれ!」
僕は叫んだ。しかし直感通り、その声に耳を貸す者はいない。
「お、おい、父さん、母さん! 飛行船を造っちゃ駄目だ! 神に撃墜される! 二人共死ぬんだぞ!」
両親の肩に載せようとした僕の腕は、しかし、すっとすり抜けてしまった。僕はこの夢の中で、完全に知覚されない存在だったのだ。
「ぐっ……」
悔しさを孕んだ響きが、喉から漏れる。
だが、別人には分からなくとも、自分自身なら何か感じ取ってくれるのではないか。そう期待して、僕は幼き日の自分の真正面に回り込んだ。
「おい、ジン、ジンだろ、お前! 僕はお前だ、未来のお前なんだ! どうか、僕の話を聞いて――」
そう言った瞬間、目の前の僕は何事もないかのように、すっと僕の身体をすり抜け、着席してしまった。
くそっ、どうして伝わらないんだ? いや、そもそもこんな事象、つまり夢の中での時間の逆行など、できるはずはない。
これは、運命なのだろうか。僕が家族を失ったのは、僕の及びもつかない力――それこそ神の力によるものなのだろうか。だからこそ、諦めなければならないのだろうか。
「やらせてたまるか!」
僕は玄関扉を開けた。何故か扉に触れることはできたので、そのまま押し開ける。そして、そこに広がっていた光景に息を飲んだ。
空には黒い雲が点在し、真っ赤な空が広がっている。一体何が起こっているんだ、これは?
反射的、と言ってもいい速度で、神を視界の中央に入れる。すると神は、今までにないほど目を大きく見開いていた。そして、胎児のように背を丸めた姿勢はそのままに、そっと、腕をこちらに伸ばしてきた。
未だかつて見たことのない、動的な神。僕はその姿に、吐き気すら覚えた。
そのおぞましい光景に屈するかのように、僕は地面に膝を着いた。そして、再びもう一つの直感が、僕の脳裏に焼き付けられた。
『神は、僕を狙っている』
あんなものに狙われて、生き残れるはずがない。少なくとも、僕一人では。
僕は顔を俯け、片手を地面に、もう片方の手を胸に当て、荒い呼吸を繰り返した。
そしてふと顔を上げた瞬間、神と目が合った。
僕は確かに見た。神が、その唇を愉快気に歪めるのを。
次の瞬間、僕の胸中には、怒り、焦り、憤りといった様々な思いが浮かんできたが、それらは一気に消し飛ばされた。恐怖という、最も原始的な感情によって。
「う、ぅあ、うあああああああ!!」
※
「おいジン! 起きろ! 一体どうしたんだ!」
強く両肩を揺さぶられる。はっとして顔を上げると、僕の前でしゃがみ込んでいたのはカッチュウだった。兜を脱ぎ、真剣な眼差しで僕の顔を覗き込んでいる。
「ミカ、水を取ってくれ。大丈夫か、ジン?」
ミカから水筒を受け取ったカッチュウは、蓋を開けて僕の頭に振りかけた。そしてゆっくりと、水筒の口を僕の顔に寄せてくる。
「ほら、飲め」
僕は軽く上を向くようにして、少しばかり飲み込んだ。そして、自分が息を止めていたことに気づかされた。
水筒が口から離されてから、僕はそのまま空を見上げる。神は確かにそこに浮かんでいた。しかし、その瞼は閉じられたままだ。それに空は青く、雲は白い。
僕は視線を下げ、近づいてきた小柄な姿に目を遣った。サントだ。
「ごめんなさいね、ジン。私の魔法を駆使しても、悪夢を取り払ってあげることはできなかったわ」
「僕が悪夢を見ていた、ってことを知ってたんですか?」
「そりゃあそうだよ!」
会話に割り込んできたのはミカだ。ぎゅっと両手を握りしめ、上半身を乗り出すようにしている。
「ジンがあんなにうなされてたの、初めて見たし」
「あ、ああ……」
寝ている間は、当然ながら周囲のことは察知できないし、記憶にもない。そんなに酷かったのか、僕の寝姿は。
「ジン、もう大丈夫なのよね? 身体は何ともないのよね?」
僕が再び『ああ』と言って頷くと、ミカはしゃがみ込んでそのまま抱き着いてきた。
「ちょっ、ミカ!?」
ミカの長髪が、微かに僕の頬をくすぐる。
「よかった……。あなたが苦しんでいるのをただ見ているなんて、もうできなかったもの」
僕を起こすようにカッチュウに頼んだのは自分だと、ミカは語った。そのくらい、僕が苦しがっているように見えたのだと。
このまま泣きつかれてはかなわない。僕はそっと、ミカの身体を押し返し、カッチュウへと目を遣った。
「あの、あとどのくらいで『文明の里』に辿り着きますか?」
「あと半日といったところだ。それより、本当に大丈夫なんだな、ジン?」
僕はこくり、と頷いた。しかし、カッチュウの『大丈夫』という言葉を聞いて、僕はある問題に気づいた。自分が、『文明の里』について何一つ知識を持っていない、ということに。
「あの、『文明の里』について、何か教えてくれませんか?」
だが、立ち上がった僕の前で、残る三人は互いに顔を見合わせるばかり。
「どうしたんです? どんな怪物が待っているか、目途は立っているんでしょう?」
「それがだな、ジン」
カッチュウはがしりと僕の肩を掴んだ。
「さっぱり分からん」
「え?」
何だって? カッチュウには分からない? ああ、そうか。カッチュウの記憶はまだ完全ではないんだったな。ということは、サントに尋ねるべきだろうか。
すると、それを察していたかのように、サントはかぶりを振りながらこう言った。
「私にも分からないわね。産まれて数百年が経つけれど、ずっとあの地下で暮らしていたから」
難しい顔をするサント。全く不似合いだったが、それが事態の困難さを表しているように見えた。
「私は昨日まで、あの地下回廊で過ごしてきたの。水や食糧、それに空気も魔法で生み出すことができたし、ケリーもいてくれたから。こうしてあなたたちと会話する分にも不都合はないしね。逆に言えば、私にとっても『文明の里』は謎の土地だっていうこと。少しでも状況を知っておきたいのは山々だけれど、残念ながらそうは言っていられないみたい」
僕は弱々しいため息をついた。いや、ただ脱力して、空気が漏れ出しただけかもしれない。
先ほどの悪夢のために、そして見通しが立たないという事実のために、僕は精神的に疲弊してしまっていた。
「おいジン、そんなんじゃあ、お前の短剣捌きも鈍っちまうぞ? ミカを守ってやれないじゃないか」
カッチュウがそう言い終えるや否や、僕は彼に迫っていた。
「ジン!」
「ジン、止めて!」
サントに続いてミカが叫ぶ。
はっと気づいた時には、僕は短剣を抜き、カッチュウの首筋に突きつけていた。皮膚が切れたのか、細くて赤い筋がカッチュウの喉仏を伝っていく。自分でも信じられない速度だった。
「落ち着け、ジン。下手な口を利いたのは悪かった。だが、今ここで俺を殺したら、戦力が大きく削がれることになる。冷静になれ」
「……すみません」
僕はゆっくりと短剣を遠ざけ、ポーチに仕舞い込んだ。
そして気づかされた。ミカを守るということが、僕にとってどれほど重要なことなのかということに。
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