第15話
次の瞬間、僕の真後ろから黒い影が飛び出した。恐竜より一回り小さな、しかし十分巨大な体躯。黒一色の滑らかな毛並。一瞬振り返った時、金色に輝く一対の瞳が見えた。この影は。
「行きなさい、ケリー!」
それは、小柄な猫から巨大な獅子へと変貌を遂げたケリーだった。腕や足は筋肉で盛り上がり、その先には銀色に輝く爪が輝いている。首回りには、金色の粉塵をまき散らす鬣を有していた。
サントが長時間詠唱を続けていたのは、ケリーの変身のためだったのか。
それだけの魔法を行使したにも関わらず、サントに疲労の色は見られない。それどころか、ケリーの動きを補佐するべく、両手を宙に漂わせている。僕は、かつて存在したという音楽指揮者の動きを連想した。
ケリーは恐竜の尻尾を回避。そのまま背中にのしかかる、かと思いきや、身体を捻って恐竜の側面に着地した。流石にあの棘山となっている恐竜の背中は攻めづらかったのだろう。
しかしケリーは間髪入れずに、恐竜の腹部に横から鼻先を突っ込んだ。そのまま勢いよく、反対側へとひっくり返す。
恐竜は、まさか自分が横転させられる、すなわち無防備な腹部を晒すことになるなどとは、思ってもいなかったようだ。慌てて足をバタつかせるが、その頃には既に、ケリーの前足の爪が腹部に食い込んでいた。
ゴオオオッ、と咆哮を上げる恐竜。まだ致命傷には至っていないらしい。しかしケリーは、爪で痕をつけた腹部の傷跡に沿って、牙を突き立てた。
今度こそ、恐竜は悲鳴を上げた。勢いよく鮮血が飛び散る。しかし、金色の瞳は汚されることなく、冷淡さと殺気を恐竜に注いでいた。
何とか起き上がろうとする恐竜。その脇腹を、ケリーは爪で押さえつけ、無理やり体勢を維持する。そして、ようやくケリーは恐竜の腹部から牙を離した。その口には、恐竜の臓器と思しき筒状のものが咥えられている。
再び恐竜の腹部に口を突っ込むケリー。この状況を中断させることができる者はいない。マスターである、サントを除いて。
僕は、必死に目を逸らし続けるミカの肩に手を載せた。
「サント、もう勝負はついたんでしょう? 止めさせてください!」
「確かに、そろそろ頃合いですね」
サントの態度は、やはり淡白なものだった。
「ケリー、戻って。ご苦労様」
すると、黒い獅子の姿が消えた。いや、ケリーが一瞬で元の大きさに戻ったから、視界から外れたのだ。
身体についた恐竜の血を舐め取りながら、こちらにのそのそと近づいてくるケリー。
「勝負あった……みたいだな」
呆然としているカッチュウのそばを、ケリーは何事もなかったかのように通過していく。
するとサントは、小さな泡状の魔法陣を展開し、腕に抱いた。そのまましゃがみ込むと、泡を前に差し出し、ケリーが跳び込んでくるのを待つ。
「さあ、ケリー」
サントに促され、ケリーは泡の中にゆっくりと入っていく。すると、赤黒い血に染まっていた毛並が、一瞬で艶のある、元の外観に戻った。いや、血の匂いもしなくなったところからすると、全身を洗浄されたようだ。
僕は、サントがケリーをそっと地面に下ろし、前進を再開するのを待つつもりだった。が、しかし。
「あ~ん、ケリーのお利口さん! さっすが私の使い魔ね!」
サントは腕に抱いたケリーを、これでもかと撫でまわし始めた。ケリーもまた、それをご褒美として享受しているらしい。文字通りの猫なで声が、一人と一匹の間で混ざり合う。
僕とミカ、それにカッチュウは、黒獅子が現れた時よりもずっと呆然としていた。あのサントが、こんな身体年齢相応の所作を取るなんて。そんな驚きの念に打たれていたのだ。
「今日は頑張ったわね、ケリー! 何か美味しいものを食べさせてあげなくっちゃ!」
僕たち三人を取り残し、自分たちの世界にのめり込んでいくサントとケリー。
「あの、カッチュウさん」
「何だ?」
僕は視線をサントに向けたまま、カッチュウに声をかけた。
「猫、って言いましたっけ。あんなに無防備な動物だったんですか? カッチュウさんの記憶の中では」
「ま、まあ、そうだな。人間には身近な生き物だったからな」
「そう、なんですか」
僕にとって、人間以外の動物は、家畜または狩猟目標でしかなかった。きちんと戦力になるとはいえ、愛でる目的で動物を生かしておくとは、やや理解し難いものがある。
しかし、ミカは違った。サントとケリーの側へと飛び込んだのだ。
「ケリー、あなたのお陰であたしたち助かったのよ。ありがとう!」
そう言って、サントからケリーを受け取り、よしよしと揺すっている。ケリーはミカにも心を開いた様子だ。
それを好機と見たのか、カッチュウはサントに声をかけた。
「これからの進行はどうする? 俺としては、この森と『文明の里』の境目あたりまでは進んでおきたい」
それを聞いたサントは、出会いの時と同じく目をキリッと引き締め、
「そうね。確かに大した距離じゃないし、こんな恐竜に出くわすこともないだろうから、進んでおきましょう」
と述べた。
僕は、カッチュウの判断に異論はなかった。ややひんやりしていたとはいえ、サントのいた地下空間は、実に過ごしやすい温度と湿度を保っていた。体力の回復は十分できたと言っていい。それに、水分補給も完了している。
せっかく好条件が揃っているのだ、今進まずにいつ進むと言うのか。
「ミカ、ケリーを解放してやれ。今日中にやや長い距離を進行する。無理をする必要はないが、せっかくのチャンスだ。今のうちに、『文明の里』のそばまで移動するぞ」
ミカはとっさに手を離してしまったが、ケリーは難なく身を捻り、緩やかに着地した。
「大丈夫、ミカ?」
僕の問いに、頷き返すミカ。
「それでは、進行を再開する。相変わらず緑が濃いから、離れ離れにならないように警戒しろ」
それからしばし、僕たちは下草を踏みつけつつ、時折水分を摂りながら、カッチュウ(と、彼の手にしている地図らしきもの)に従って歩を進めた。
※
サントの結界に囲まれながら、進むことしばし。
「このペースだと、『文明の里』まであと半日といったところか。皆、大丈夫か?」
自身は健康そのもの、といった口調で、カッチュウが振り返った。
僕が頷いてから振り返ると、ミカもサントも大丈夫そうだ。ミカはやや疲労の色が出ていたが、僕も同じようなものだろう。
サントは、僕たち全員を囲むだけの巨大な防御結界を維持しながら、全く疲れた様子はない。よく見れば、彼女は地面に足を着いていなかった。自分の身体を僅かに浮かせ、移動魔法を自分にかけているのだ。
彼女に疲れる要因があるとすれば、腕と首が曲がっているということくらい。何故かと言えば、ケリーを抱いて頬ずりしまくっているからだ。
「ケリー、よしよし。あなたは本当に賢いわね、よ~しよし!」
やや呆れた口調で、カッチュウはこう尋ねた。
「サント、今日はここで野営しようと思うんだが、眠りながら結界を維持することは可能か?」
「あーもう! 素直でいい子ね、ケリー!」
「サント!」
少しばかり声を荒げたカッチュウに向かい、しかしサントは全く動じることなく『え? 何?』と訊き返した。
カッチュウに代わり、僕が中継する形でサントに尋ねると、
「お安い御用よ! 私に任せなさい!」
とのこと。ケリーを抱いたまま胸を張る。
「ただ、最低限の魔力展開にさせてもらってもいいかしら? 『文明の里』で何が待ち受けているか分からないし」
「了解。皆、今日の進行はここまでだ。就寝準備」
カッチュウの格式ばった言い方にも慣れてきた。僕はさっさと木の幹に寄りかかり、腕を組んで目を閉じた。すると、
「ねえ、隣、いい?」
つっかえながら尋ねてきたのはミカだ。
「あっ、う、うん」
僕も、自分の顔が紅潮するのに気づかずにはいられない。この妙な空気を破ったのはカッチュウだ。カチャカチャと防具を鳴らしながら、僕たちの向かいの木に背中を預ける。
僕とミカの心の変化に気づいているのかいないのか。恐らくは後者、だろうな。そもそも、僕だってミカを『そんな風に』意識したのは数日前のことだし。
微かな寝息に、僕が視線を遣ると、ミカは既に熟睡していた。やはりこんな危険な冒険をしていては、疲労困憊するのは当然か。
僕はミカの頬に触れようとして、すっと手を引っ込めた。ミカに触れられていいのは、僕に彼女を守ることのできる者だけだ。
「……」
僕はしばし、ミカの横顔を見つめてから、自分も頭を木にもたせかけた。眠気に取り込まれていくのに、そう長い時間はかからなかった。
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