第8話

 パタタタタタタタッ、という音がした。聞いたことのない音だ。にも関わらず、その小刻みな音には、心を掻き乱すような迫力がある。この異様な感覚、殺気に近い。

 木の幹に寄りかかるようにしながら、僕はなんとか立ち上がった。するとその目前で、恐竜はその巨躯を捻っていた。苦し気な咆哮を上げ、倒れ込んでいく。その身体の側面からは、細く長い血の筋が何本も迸っていた。


「こ、これは……」


 僕は血の鉄臭さの向こう側に、何かの匂いを感じ取った。この匂いの源は、火薬か?

 そんなものがこんな場所に転がっているとは、俄かに信じられることではない。しかし僕の経験が確かなら、この匂いは間違いなく火薬によるものだ。

 それに、突然倒れ込んだ恐竜。まさか、銃器による攻撃が行われたのだろうか? 一体誰が?


 いや、この機を逃す手はない。僕はじりじりと恐竜から距離を取り、ミカの元へ辿り着いた。そして、匂いの発生源を探して視線を巡らせた。


「ミカ、何かの気配、感じるか?」

「うん。恐竜の向こう側に何かが」


 と言いかけたところで、ミカは口をつぐんだ。僕も片足で体勢を立て直しながら、短剣をミカの視線の先へと向ける。そこからは、細く高く煙が上がっていた。

 僕は目を凝らし、そこにいる何者かを見極めようとする。しかし、煙が上がっている以外は、動くものは全く目に入らない。


 野鳥の声と虫の音が交錯する森林に、突如訪れた沈黙。まるでこの周囲だけ、全ての生物が息絶えてしまったかのようだ。嫌な汗が、僕の額から頬へと流れていく。

 ミカが後ろから僕の手を取った、まさにその直後だった。


 グオオオッ、という呻き声を上げて、恐竜が立ち上がった。まだ息があったのか。


「うっ!」


 僕は怯んだ。まともに駆け回ることのできない身体で、恐竜の相手をするとは。今度こそ、僕もミカも食い殺されてしまう。僕は咄嗟に、恐竜に背を向けてミカを庇った。

 瞼の裏に映ったのは、おじさんの最期の姿だった。途端に申し訳ないという気持ちが、心の水面に浮かび上がってくる。

 僕はミカを守ることができなかった。神の足元に至ることすらできずに、命を落とすことになる。僕たちのために死んでいった人たち、本当にごめんなさい――。


 しかし、致命的なことは何も起こらなかった。背後では、ぎゃあぎゃあという騒ぎ声が聞こえてくるのに。

 ん? 待てよ? 騒がしいということは、今この状況では戦闘が行われている可能性が高い。一体誰が、否、何が戦っているんだ?


 僕は振り返った。ミカも僕の肩越しに、前方に目を遣っている。

 戦っていたのは、恐竜と人型の『何か』だった。


 身長は、僕より頭二つ分は高い。色は濃い紫色で、いつでも、どこででも闇に溶け込めるような不気味さを醸し出している。

 動く度に軽い、しかし硬質な音が響く。あれは甲冑のようなものをまとっているのか。


 甲冑姿の人物は、恐竜に対し、一対一での接近戦に臨んでいた。数回恐竜の牙が甲冑を掠めたが、中の人物は怯む素振りすら見せない。恐竜の懐に入り込むべく、突進と後退を繰り返している。

 すると唐突に、甲冑の腕から何かが飛び出した。あれは剣だ。ただし、両手持ちの大剣ではない。腕に沿って展開された、刃のようなものだ。甲冑は、それで殴り掛かるように、恐竜の鼻先に腕をぶつけた。


 その瞬間、ギラリと刃が輝いた。すると、恐竜は自らの突進の動きそのままに、ばっさりと頭部を両断された。

 刃が切り裂いたのだということは分かる。だが、あの恐竜を前にして、こんな一方的な戦いをするとは。


 呆然としている僕の前で、再び恐竜は崩れ落ちた。それはあまりに呆気ない末路だった。たった一人の人間(らしき者)によって、斬り伏せられるとは。

 僕同様、血飛沫を浴びて鉄臭くなった甲冑姿の人物は、こちらに向き直り、ゆっくりと近づいてきた。


 敵か味方か分からない以上、僕も安易に接近を許す気はない。何とか短剣を突き出し、警戒の意志表示をする。だが、甲冑はゆっくりと、確実に距離を詰めてくる。


「止めろ! これ以上近づくな!」


 僕の声に、流石の甲冑も自分の行為が警戒されていると気づいたようだ。その場で立ち止まり、しばしの間沈黙する。僕は骨折した足の痛みもあり、だんだん短剣を構えているのが辛くなってきていたが、まだ警戒を解くわけにはいかない。そう思ったその時、


《―――――――》


 謎の声が、甲冑から聞こえた。すると甲冑は、兜の両脇を掴み、ゆっくりと持ち上げた。そして、今までの沈黙のことなど意にも介さずに、その姿を露わにした。


「ふはっ!」


 それが、甲冑をまとった人物の第一声だった。

 年齢は、恐らく三十代前半。彫は浅く、色素の薄い肌をしているが、髪は真っ黒だった。


「―――――――――」


 何事か、独り言のように呟く。そしてその目を、僕とミカに向けた。その目にはどこか穏やかな色があり、僕たちに危害を加えるつもりはなさそうだ。

 しかし、首から下は相変わらず甲冑姿のままである。肩や肘、膝などが、部分的に突き出ている。ごつごつとした岩でできているように見えるが、ただの岩があんな強度を誇っているはずがない。特殊な硬化魔法でもかけられているのだろうか?


「―――――――――?」


 甲冑の男性が、声をかけてきた。が、何と言っているのかさっぱり分からない。男性は兜を外したまま、銃器と思しき筒状のものを拾い上げ、ひょいっと肩に掛けた。


「――、―――――?」


 ううむ、敵意がないことは分かったが、意思の疎通ははかどらない。


「ミカ、彼の言うことを翻訳できないか? 魔法で」

「あっ、うん」


 僕の陰に控えていたミカが、ゆっくりと前に出た。同時に、僕は短剣を収め、座り込んで事態の推移を見守る。


「――――?」

「ちょっと待ってください。すぐ終わります」


 すると、僕、ミカ、男性の頭上に、小さな魔法陣が現れた。男性は驚いた様子だったが、逃げ出すようなことはしない。

 ミカは目を閉じ、僕たちの頭上で三角形を描くように、腕を振った。すると突然、


「あ、あ。君たち、言葉は通じるかい?」


 男性の声が聞こえてきた。言葉が通じるようになったのだ。


「あの、あなたは……?」

「おお、俺には君たちの言葉が分かるが、そちらは? 聞こえているか?」

「はい」


 僕は大きく首肯してみせる。


「そうか、それはよかった。いやはや、君たちを助けられて本当によかった」


 甲冑姿の男性は、思いの外饒舌だった。


「怪我はないか? 今の魔法のような技術で治せるか?」


 そう言われた途端、僕の足が悲鳴を上げた。


「ぐあっ!」


 脱力した拍子に、思いっきり骨折した方の足を地面に押しつけてしまったのだ。


「君、動くんじゃない。今治療する」

「あっ、そういうことだったら」


 再び一歩前に出るミカ。


「あたしが治癒魔法をかけます。さあジン、座って足を伸ばして」

「ああ、分かったよ、ミカ」


 僕は痛みに顔をしかめつつ、なんとか尻をついた。足を前に出しながらぺたりと座り込む。


「そうか、君たちはジンくん、ミカさんというんだな」

「あ、あなたは?」


 僕はミカの代わりに尋ねた。彼女は今、治癒魔法の真っ最中。話を進めるなら、僕がその任にあたるべきだ。しかし、返ってきたのは意外な答えだった。


「分からん」

「え?」


 すると男性は地面に腰を下ろし、『覚えていないんだ』と言いながらかぶりを振る。


「今君たちを助けたのは、俺と同じ人間を救うためだ。もちろん、純粋に助けたいという気持ちはあった。だが同時に、今俺がいる理由を知りたいとも思ってね」


 自分がいる理由、か。僕の場合は神を殺すため、その段階の一つとして、魔女に出会うためにここにいる。もしかしたら。


「あの、魔女って知りませんか?」

「魔女? 今、魔女と言ったのか?」


 男性は目を丸くした。


「君たちも、魔女と呼ばれる人物を探しているのか?」

「は、はい」


 勢い込んで身を乗り出してくる男性。


「俺もそうだ。今地図を表示する」


 男性は左腕を着き出し、そこにある小さな突起を二、三操作した。すると、ヴン、という音と共に、青い地図が広がった。いや、これは地図なのか? 布でも紙でもなく、宙に固定されている。


「これを見てくれ。君たちも、この場所を目指しているのか?」


 その地図(らしきもの)をひっくり返し、僕たちの方へ差し出す男性。色や素材は違うが、印が打たれているのは、布に表れた地図と確かに一致する。


「君は魔法を使えるんだね、ミカ?」

「は、はい!」


 突然男性に声をかけられ、驚きを隠せないミカ。


「そしてジン、君はこの世界の仕組みに詳しい。戦闘能力もある。そうだな?」

「あ、ええ」

「よし、分かった!」


 男性はガチンと掌を打ち合わせた。


「俺にはあまり記憶がないが、魔女の元を目指すということでは目的が一致している。同行させて、いや、用心棒をさせてくれ。どうだ?」


 僕とミカは顔を見合わせた。しばし無言の間が訪れる。


「そ、それはいいんですけど」

「何か問題が?」

「はい」


 僕はおずおずと問うことにした。


「あなたのことは、何と呼べばいいんですか?」

「あ、それはそうだな。大問題だ」


 後頭部を掻きながら、『そうだなあ』と呟く男性。


「じゃあ、カッチュウ、とでも呼んでもらえるか?」

「分かりました。よろしくお願いします、カッチュウさん」

「おう!」


 男性、もといカッチュウは勢いよく立ち上がった。


「ミカ、ジンの足が治るまでどのくらいかかる?」

「もう少しです」

「よし、俺は水源を探してくる。水は大事だからな!」


 そう言うと、カッチュウは振り返って兜を被り、振り返って木々をかき分けていった。

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