第6話

 僕がすっと顔を向けると同時、ミカは半ば這うようにしてそちらに向かった。途中から立ち上がり、駆けていく。

 と言っても、呻き声がしたのはそう遠い場所ではなかった。崩れた屋根の下に、誰かがいる。ミカにはそれが誰なのか分かっているのか。いや、分かっていなくとも、僅かな希望に懸けているのか。


「お父さん!」


 僕も駆け寄り、ミカと共に木材を押し上げる。ミカはずっと『お父さん』と連呼していた。

 果たして、そこで横たわっていたのはミカの父親だった。


「お父さん!」

「おじさん!」


 僕もミカと共に声をかける。しかし、僕たちにできるのはここまでだった。おじさんの腰から下は、石柱の下敷きになっている。やはり、という思いと共に、僕はおじさんがここで命を落とすことを悟った。


「ミカ……」


 掠れ切った音が、おじさんの喉から発せられる。


「お父さん、何? はっきり言って!」

「おい、ミカ!」


 僕はミカの腕を取り、軽く引いた。そう喚いてしまっては、おじさんの声が聞こえなくなる。


「これ、を……」


 おじさんの腕が、そっと前方へと伸ばされる。その手先に握られていたのは、ただの布切れだった。いや、違う。魔法を帯びている。おじさんが、何らかの魔法処置を施したのだ。

 淡い紫色に輝く布を、ミカは受け取った。驚いたのは、僕の方だった。


「ミカ、これって!」


 ミカは無言で、目を丸くしている。これは八年前、ミカがおばさんからペンダントを託される時に、一緒に渡された布だ。


「おじさん、これは一体……?」


 すると、おじさんはカッと目を見開いた。そこには、消えかけた火が、最後に膨らんでいくような勢いがあった。


「お父さん? お父さん!」


 再び喚き始めたミカ。彼女を黙らせるより先に、僕は口の動きから、おじさんの遺言を受け取った。『ミカを頼む』と。


「死なないで、お父さん! お願い! あたしを一人にしないで!」

「ミカ!!」


 僕はミカの両肩を引っ掴み、無理やりこちらに振り向かせた。はっと息を飲み、僕を見つめ返すミカ。そんな彼女は、いつもよりずっとあどけなく見えた。母親を失ったことが、ミカの心を気丈にしていたとしたら、その柱が今度こそ崩落してしまったのかもしれない。

 両親を同時に失った僕には、分かりようもない気持ちだ。寂しいのか、虚しいのか、悲しいのか、その全てか。


 残念ながら、それを議論している暇はない。これから先、何が起こるか分からない。夜行性の動物がうろつき始めるかもしれないし、神からの追撃があるかもしれない。

 僕はふっと、空を見上げた。神は相変わらず、穏やかな表情で瞳を閉じている。今日はこれ以上、僕たちに危害を加えるつもりはないのだろうか。


「ミカ、結界を張って。念のためだ」

「……」

「ミカ」


 僕はミカの肩を揺すった。しかしミカは放心状態で、ただ揺られるがままになっている。


 せめて、おじさんの瞼を閉じてあげよう。そう思った僕がミカから手を離すと、ミカはそのまま僕に体重を預けてきた。

 僕は初めて、同年代の女子の身体を抱き締めた。ミカはこんなに華奢だっただろうか? 僕と一緒に、あれほど森林を駆け回っていたというのに?

 いずれにせよ、僕にはおじさんから与えられた使命がある。『ミカを頼む』と告げられたのだ。ここで僕まで弱気になるわけにはいかない。

 と考えてみたはいいものの、これから先、どうやっていけばいいのかが分からない。


 この村でまだ生存者を探すか? 別なところに移動して、村を再建するか? それとも、神を殺すための旅に出るか?


 しかし、どの選択肢も現実性がなかった。もう、どうしようもない。

 だが、その時気づいた。おじさんから授かった布があるではないか。


「ミカ、おじさんから預かった布、よく見せて」

「うっ、お父さん……」


 再び落涙し始めたミカ。僕は彼女の両肩に、勢いよく自分の両手を載せた。


「ミカ!」


 すると、ミカはびくりと肩を震わせ、片手に握りしめていた布をそっと差し出した。そして、僕と同時に目を見開いた。


「こ、これって……」

「ああ」


 その布には、読み取られることのないような軽い結界が張られていた。きっとおばさんが、いざという時のために仕組んでおいたのだろう。それは、おじさんの手によって半分ほどが解読できる状態になっていた。


「ミカ、残りの半分の結界を解けるか?」

「う、ん……」


 僕はミカの前で布を広げて持ち、彼女が結界を破る様子を見つめた。

 紫色の淡い光が、布の上半分を包んでいる。僕はそのまま、ミカが結界を解くまでじっとしていた。


 夕日が完全に没するのを見つめながら、僕はミカが結界を破るのを待っていた。そろそろ、夜行動物たちの動きを警戒しなければならない。


「ミカ、まだかかる?」


 ミカは無言。目を閉じ、右の掌を突き出して、じっと念を込めている。裏から見ても、布の結界が消え去るのは時間の問題であることが分かった。もうあと僅か、片隅を残すのみだ。


「ふっ!」


 するとミカは、大きく息をついた。そのまま右腕を躍らせるように、ひらり、と布から遠ざける。そこにはもう、結界も結界破りの魔法もない。これで、解読可能になったはずだ。


「はあっ!」


 するとミカは、身体をくの字に折って荒い息をした。


「だ、大丈夫か?」

「うん……。ちょっと、集中しすぎただけ……」


 僕はそばに転がっていた丸太へと、ミカの手を引いて誘った。再び『大丈夫か?』と尋ねながら、彼女が腰を下ろすのを助ける。そして、布の表面を開いてみた。


「こ、これは……」


 僕はごくり、と唾を飲んだ。こんなものが、今この時代に残っていたとは。それも、こんなに詳細な形で。


「ジン、どうかしたの?」

「見てごらん、ミカ! これ、地図だよ!」


 そう。八年前の神による襲撃から今まで、一度も発見されることのなかった、このオアシス周辺の地図だ。


「本当に!?」


 ミカも、驚きの念に打たれた様子で立ち上がる。


「ああ。その前に、火を起こしてくれるかい? 今日はもう遅い」

「あっ、うん!」


 地図があったところで、そこに記されている道のりがあまりにも過酷だったらどうしよう。僕は思った。そのために、僕たちが地図にある道を進むことを諦めてしまったら?


 それはあり得ないな。僕は左右にかぶりを振った。せっかくの手がかりだ。

 きっとおじさんは、この地図を見た僕たちが危険な道を歩み始めるのを阻止したかったのだろう。だからその存在を黙っていた。

 だが、このままここにいても、やがて僕とミカは食糧不足に陥ってしまう。肉食動物に襲われる危険だってある。だったらいっそ、旅に出てしまった方がいい。


 そこまで思案しているうちに、ぱっと視界が明るくなった。ミカが火を点けたのだ。

 

「ミカ、この地図を辿れば、僕たちは新しい住処に移動できるかもしれない。もしかしたら、神の元へ向かって行って復讐することも」


 しかし、ミカの顔色は優れなかった。


「今更復讐したって、どうなるの?」

「え? どう、って?」


 ミカは丸太に腰かけたまま、膝を揃えてこちらに向き直った。


「お父さんもお母さんも死んじゃった。村の皆も、小さな子供たちも。あたしたち、何のために生きていけばいいの?」


 その無気力な言葉に、僕は喉が詰まる思いがした。


「ジン、あんたにはちゃんとした目的がある。神を殺す、なんてね。でもあたしは、平和な暮らしが続いてくれればよかったんだ。それだけ。それだけなのに、どうして皆、あたしを残して死んじゃうの?」

「僕は生きてるよ」


 つい、とミカは顔を上げ、僕の目を覗き込んだ。


「ジン、あんたは……」


 焚火で橙色に染まったミカの瞳に、僕の顔が映っているのが見える。

 僕は、自分の口から発せられた言葉が信じられなかった。『僕は生きてる』だって?

 確かに、小さい頃から僕たちは互いの遊び相手だった。それに、ここ八年の間は、僕はミカの家の養子のようなものだった。


 それでも、僕はミカの肉親ではない。彼女を守るとか、支えるとか、大したことを言うこともできない。魔術師でないのだから猶更だ。


 だが、今はミカに安心してほしかった。僕が味方であり、ミカは一人っきりではないのだと、しっかりと胸に刻んでほしかった。


 そんな気持ちが通じたのか、ミカは口をへの字にしながらも、


「ありがとう、ジン……」


 と言って三度泣き崩れた。

 僕はそっとミカの隣に腰かけ、肩を抱いてあげた。


「ごめんねジン、あたし、情けないよね。あんただって、ご両親を亡くしてるのに」

「これでお相子だよ」


 それだけ告げて、僕は立ち上がった。ミカは、そんな僕を引き留めようとはしなかった。

 今日は寝ずの番をすることにしよう。短剣のポーチに手を遣りながら、僕はミカを励ましてあげられたことに、微かな安堵を感じていた。

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