第2話

 しかし、すぐに振り落とされはしなかった。僕の身体は、タラップの手摺に引っ掛かったのだ。転げ落ちたのは、ミカの方だった。


「ミカっ!」


 僕は身を乗り出し、ミカに向かって腕を伸ばす。ここで彼女を死なせるわけにはいかない。そんな使命感が、僕を突き動かした。


「うっ!」


 そして、届いた。ミカの片腕の肘あたりを、僕は腕一本で引き留める。だが、所詮は子供の力だ。引っ張り上げるどころか、自らも落下してしまうのは目に見えている。


 僕の頭が絶望に塗り固められた、その時だった。ふっと、身体が宙に浮いた。僕とミカを包むように、泡のようなものが展開されたのだ。よく見れば、それが魔法陣の一種であることが分かる。


「お母さん!」


 ミカが叫ぶ。僕がミカと同じ方を見ると、ミカの母親がタラップから落下していくところだった。


「お母さんも自分に魔法陣を!」


 しかし、母親は薄い笑みを浮かべるばかり。そうか。栄養失調で、これ以上魔法を行使することができないのか。ということは、母親はミカと、その友人である僕のために、自分が助かる道を放棄したということだ。


「いやあっ! お母さん!」

「動くな、ミカ!」


 僕はミカの両肩を押さえ込んだ。下手に動くと、魔法陣の泡が割れてしまうかもしれない。


「お母さんが死んじゃう!」

「今暴れたら、僕たちだって死ぬぞ!」


 はっとして、僕に振り返るミカ。目を見開き、唇を薄く開けたまま脱力する。そのままでは倒れ込んでしまいそうだったので、僕は再び彼女の肩を引き留めなければならなかった。


 その直後、ジリジリと何かが焼けるような音がした。ブリッジのある方だ。まさか――。

 僕は魔法陣の中で立ち上がった。まさにその瞬間、雷光が狙い定めたように、ブリッジを貫通して地面に突き立った。


 それは、言葉を失う光景だった。一瞬でブリッジが黒焦げになり、へし折れて真っ逆さまに落ちていく。

 待ってくれ、父さん、母さん。殺されないで。

 しかし、それは呻き声にしかならない。

 自分の足が地面に着き、魔法陣が消滅するまで、僕もミカも声を上げられなかった。


         ※


 気づいた時には、僕とミカは木に寄りかかるようにして座り込んでいた。この溶岩流に焼かれた地面には珍しく、一本だけ生えていた大木だ。


「ん……」


 腕も足も無事だった。僕は、どこか感覚の麻痺した片手で目を擦る。

 飛行船が落雷に遭って、ミカの母親の魔法陣に助けられて、それからどうなった?


「はっ!」


 僕は勢いよく息を吸い込み、その反動で立ち上がった。

 そうだ。飛行船のブリッジが焼き落とされたのだ。父さんは、母さんはどうした?


 既に太陽は真昼の位置にあった。真っ青な空に向かい、あちこちから黒い煙が立ち昇っている。目を凝らすと、飛行船から飛び降りたり、魔法陣にくるまれて着地したりした人々の姿が見えた。ぽつり、ぽつりと立っている彼らの間に、僕は視線を走らせる。


「父さん……母さん……」


 立ち上がった時の勢いは、すぐさま相殺されてしまった。こんな状況で、両親が生きているとは思えない。

 だが、そんなことを理解できるほどの理性は、その時の僕には残されていなかった。この僅かな生存者たちの中に、両親も混じっているのではないか。


「ジン、大丈夫か?」


 後ろから声をかけられ、肩を震わせた。

 そこに立っていたのは、ミカの父親だった。母親同様、小柄で痩せ細っている。


「お、おじさん、僕のお父さんとお母さんは?」


 すると、ミカの父親は顔をしかめ、悲嘆の色に染まりながらこう言った。


「落下の衝撃で亡くなった。二人の飛び降りた先は、魔法陣の強度が十分ではなかったようだ」


 その言葉が終わる前に、僕は駆け出していた。おじさんの背後に、一際大きく燃え盛る炎を見つけたからだ。あれはきっと、犠牲者を火葬しているに違いない。


「ま、待つんだ、ジン!」


 引き留めようとしたおじさんを突き飛ばしながら、僕はその炎の元へ、正確には並べられた遺体の列に駆け寄っていく。


「お父さん、お母さん!」

「あっ、こら! 子供が見るものじゃない!」


 焼却係と思しき男性が、僕の前に立ちはだかる。それも、二人がかりで。それほどその時の僕の姿は、必死であるように見えたのだろうか。

 それでも、僕は小柄なのをいいことに、二人の間をすり抜けた。そして、遺体に直面した。


「……!」


 両親の姿はすぐに見つかった。つまり、原型を留めていたということだ。だが、それが人間ではなく、ただの肉塊に変わり果ててしまっていることは、一瞬で判断できてしまった。


 これが、人の遺体なのか。瞼はぎゅっと閉じられ、両手は胸の前で握りしめられている。恐らくは、焼却係たちの厚意によるものだろう。それでも、額からの出血は止められなかったらしい。両親共に、地面に赤い血だまりを作っている。


「う、ぁ」


 僕は叫び声を上げようとして、自分がまともに呼吸できていないことに気づいた。そのままふらふらと膝を着き、掌を固い地面に押し当てる。


「お、おい、大丈夫か、坊主?」

「……る……さない……」

「さあ、早く立って――」

「許さない!!」


 自分でも驚くほどの大声が、腹の底から飛び出した。

 これが神の所業だというのか? 人間を殺して殺して殺しまくって、挙句、僕の両親まで。そして、ミカの母親まで。


 僕は地面に爪を立てながら立ち上がった。ちょうどその視線の先に、神が浮かんでいる。今は実に穏やかな表情だ。僕たちを追撃するつもりはないらしい。いや、そもそも神が、どんな意志に従って行動しているのかすら分からない。


 ただ一つ確かなこと。それは、僕がいつの日にか、必ず神を殺してやろうと決意したことだ。

 

 方法は思いつかないし、そもそも今の僕には無理な相談だ。だが、僕は生きる。生き続ける。お前を殺す、ただそれだけのために。自分がどれほどの流血に見舞われようとも。

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