神滅のベテルギウス【旧版】
岩井喬
第1話【プロローグ】
【プロローグ】
『それ』がこの星に対して牙をむいたのは、一千年ほど昔のことだった。
『それ』は、まず空を割った。雷鳴轟く空からは、無数の火の雨が降り注ぎ、多くの人間の集中している居住地を跡形もなく焼き払った。
『それ』は、次に地を割った。大きな揺さぶりを受けた地からは、真っ赤な溶岩が溢れ出し、地形と気候は様変わりしてしまった。
『それ』は、さらに海を割った。際限なく膨れ上がった海からは、巨大な津波と高波が押し寄せ、生態系を引き裂いた。
『それ』は、最後に人間たちの心を割った。災厄を生き延び、魔力を覚醒させた人々と、工業文明に依存し、魔力を得ることのできなかった人々との抗争は、数百年に及んだ。
ある者は、畏怖の念を込めて。
ある者は、信仰の対象として。
ある者は、そのあまりに巨大な力を見せつけられて。
人間たちは『それ』を、『神』と呼んだ。
※
僕が知っているのは、そんなおとぎ話のようなことだけだ。しかし、今晩もまた、その『神』とやらはぽっかりと空に浮かんでいる。
まるで胎児のように手足を丸め、大きな瞳を閉じて、月に寄り添うように。
実際のところ、『神』が本当に月に寄り添っているのかどうか、それはよく分からない。きっと一千年前、この星が荒廃する前は、測量する技術があったのかもしれない。だが、それこそおとぎ話のさらに向こう、悠久の時の陰に隠されてしまっている。もはや人間には取り返すことのできない、『過去』として。
僕は飛行船のタラップで、そんなことを思いながら、月と星々と『神』とを見上げていた。今は作物の収穫が終わり、寒冷期に向かう季節だから、こうして外気に包まれているのは健康によくないだろう。風邪を引いたら、皆に大変な迷惑をかけることになる。解毒剤になる薬草は貴重なのだ。
それでも僕は、こうして冷気にあたりながら、考え事をしていたい気分だった。
僕たちが乗っている飛行船は、かなりの高度を取って飛行している。寒冷期を乗り切るべく、村民が一丸となって南の地を目指しているのだ。どうしてわざわざ移動しなければならないのかといえば、渡り鳥たちと同じく、食糧を求めてということらしい。
今の食糧事情で村民全体を食べさせていくには、元の村では貧しすぎる。
地面を見下ろすと、真っ黒だった。真っ暗だった、と言ってもいい。火山活動の異常な活発化によって、このあたりは何も生えない、不毛の地になってしまったのだろう。夜でも星は見えるのに、地面は見えない。僕にはそれが、ひどく違和感を伴って実感された。
僕は毎日、古文書をめくり、これまでの――それこそ一千年以上前の世界がどんなものだったのか、妄想に耽っている。そんな僕を、周囲の人たちは奇異なものを見る目で見ていたが、お構いなしだ。
ただ一つ、どうしても気になることがある。それは、
「この時代の人間たちは、本当に幸せだったのかな……」
という呟きとして湧き上がってきた。『神』によって打ち倒され、滅ぼされかけた工業文明。そこに生きる人たちは、日々、一体何を考え、どのように暮らしていたのだろう。空想は尽きない。
そんな途方もない物思いをしながら、何故か僕の心は凪いでいる。過去という檻に封印された人々の姿を想像すると、不思議と落ち着きを得ることができるのだ。
手摺に肘を着き、ぼんやりと視線を地平線に遣っていると、誰かがタラップを降りてくる音が聞こえた。
「やっぱりここにいたんだね、ジン」
そこに立っていたのは、幼馴染のミカだった。家が隣同士で、家族ぐるみの付き合いがある。男女の性差を感じることなく、皆で一緒に遊んでいるのが普通の年頃。だが、僕に構ってくれるのはミカくらいなものだ。
「うう、寒っ……。ジン、こんなところにいたら風邪を引くよ?」
僕は無言。そんなこと、分かってるよと言うだけ無駄だろう。ミカの、うなじで一つにまとめられた髪が勢いよく揺らめく。
「七歳以下の子供は、早く眠らなきゃ。ここにいるのが見つかったら、あんたまた怒られるよ?」
「そう言うミカはどうなの?」
短く切り返す。嫌に大人っぽいミカは、こちらを見下すように腕を組んだ。
「あたしは、お母さんに頼まれてあんたを探しに来たの。怒られないよ」
「ふぅん」
「何よその態度? あんたのお父さんに言いつけてもいいんだけど?」
ぎくり。お父さんときたか。それは面倒なことになりそうだ。
僕の父は、この飛行船の操舵手を務めている。厳格な人で、次期村長とも言われているくらいだ。
今の生活環境では、村民をまとめ、皆を命の危険から遠ざけられる、勘の鋭い人物が重宝される。父は魔法が使える人間ではないが、人望は厚い。それでも、魔法が使える『魔術師』と、魔法を行使できない人々の間の小競り合いは、未だに世界中で起こっているらしい。
「人間同士が争っていられる場合じゃないと思うんだけどなあ」
ぽつりと呟くと、ミカが『何言ってんの?』と言いながら僕を小突いてきた。
「ほら、早く部屋に戻るよ。あたしだって、いつまでも起きていられるわけじゃないんだから」
ミカが強引に僕の手を取った、その時だった。
視界が真っ白になると共に、光の槍が突き刺さった。落雷だ。飛行船を掠めるように、雷が落ちたのだ。
数拍遅れて、轟音が降ってくる。ドゴォン、という、巨人が思いっきり掌を打ち合わせたような衝撃音。それにバリバリと空気が裂かれる音が続く。
「きゃあっ!」
「ミカ!」
僕は慌てて、ミカの肩に腕を回した。
「大丈夫?」
その場にうずくまったミカに、なんとか声をかけてみる。しかしミカは、恐怖におののき、顔すら上げられない状態だ。
続けて、タラップの反対側から光が差した。再び響き渡る轟音。僕は危険も顧みずに、身を乗り出して空を見上げた。
今、この飛行船の上空に大きな雲はない。それなのに落雷があるなんて、どう考えてもおかしい。一体何が……?
その時、僕は確かに見た。神が、ゆっくりとその目を見開くのを。
神だ。神が僕たちの乗った飛行船を攻撃している。
《全員起床! 全員起床! この飛行船は攻撃を受けている! 神による落雷だ! 魔法を行使できる者は、直ちに防戦に回れ!》
聞こえてきたのは父の声。恐らく、ミカの両親が拡声しているのだろう。僕の家系に魔術師はいないが、ミカの両親は立派な魔術師だ。今ブリッジには、少なくとも僕とミカそれぞれの両親がいるはず。
「ミカ、立って!」
なんとかミカを引っ張り立たせ、ブリッジに上がろうと試みる。しかし、上階からタラップに降りてきた大人たちによって、僕たちは押し流された。
「硬化魔法だ! バルーンとプロペラを守れ!」
「一般人は上階で待機しろ! 急いで!」
「総員、魔法陣展開! 落雷を相殺しろ!」
すると、飛行船の周辺を囲むように、紫色の円がいくつも現れた。その中央には、複雑な幾何学模様が描かれている。円はそれぞれ、ちょうど水平になるように向きを変え、上方に柱のような光の束を放出した。
魔術結界だ。神の攻撃に対抗できる、数少ない人間の能力。だが、僕が見てきた限り、それは防戦一方の対処療法に過ぎない。
雷鳴は遠くなり、閃光は屈折して飛行船から逸らされる。それでも、飛行船は右に左にと大きく揺さぶられる。
「ぐっ! 魔術結界、破られます!」
「落ち着け! 火炎翼竜の鱗を張り巡らせた船だ、そう簡単に落ちるはずがない!」
「し、しかし、落雷の直撃を受けては……!」
大声を張り上げ合う大人たち。やはり人間側には、一時的に防御するしか打つ手がないのか。
僕はミカの肩を抱きながら、父の言葉を待った。
《総員退艦! 繰り返す、総員退艦! 魔術師は、地上に向かって耐衝撃魔法陣を展開せよ! 完了次第、全員飛び降りろ!》
そうだ。皆逃げるしかない。
「ミカ! ミカ、いるの?」
「お母さん!」
「ああ、ミカ!」
タラップに降りてきた痩身の女性に向かい、ミカは駆け出そうとした。立ち上がるのを手助けし、背中を押してやる。すると、ミカは母親に向かってこう言った。
「早く皆を助けて! あたしやジンを守って!」
「もちろんよ、さあミカ、こっちへ! ジン、あなたも!」
僕に手招きするミカの母親。そちらへ駆け出した時、ミカが母親から何かを受け取るのを、僕は確かに目にした。お守りか何かなのだろうが、今は関係ない。
「ありがとう、おばさん」
辛うじて声を絞り出す。するとミカの母親は、僕の頭を軽く撫でた。
「ジン、ミカや皆を助けてあげ――」
しかし、突き上げるような大きな揺れと共に、言葉は唐突に切断された。
「うわっ!」
「ぐっ!」
見上げると、バルーンが炎に包まれるところだった。火炎翼竜の鱗で覆ったバルーンも、落雷には耐えられなかったらしい。急速に傾いていくタラップの上、転がり落ちていく僕たち。
「ッ!!」
そのまま急速に、身体が地面へ引かれていく。いや、吸い込まれていくと言った方が直感的かもしれない。僕は目をつむり、死を覚悟した。
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