第22話 箱の中の形見


「……あった……」


 敦司あつしが手繰り寄せた記憶の通り、祖父母や曾祖父母の位牌が並ぶ仏壇に、小さな漆箱は置かれていた。

 ほんの片隅だ。そして本当に小さな箱だった。記憶の中では両掌に収まるくらいだったのに、今の敦司では、片掌に収まるサイズだ。なんの特徴もなく、仏壇の漆塗りに簡単に紛れてしまうような箱だった。

 それをそっと手にした時、遠い過去の思い出が浮かび上がってきた。

 それは、笑った祖父の顔。敦司を胡坐あぐらの膝に乗せ、小さな手を支えるように左手を添えて、その上にそっとこの箱を置いてくれた祖父の笑顔だった。


「じいちゃん……」


 車の事故で祖父が亡くなったのは、敦司がまだ保育園児の時だった。

 そんな頃の記憶など、とっくに消え去ってしまったと思っていた。滲み出した涙を押し返すように、ぎゅっと強く瞼を閉じる。


 深呼吸して目を開き、そして漆箱の蓋を開けた。


 中のものは、紫色の袱紗で丁寧に包まれていた。箱からは出さないままその包みを開いてみると、中から、金属製のくすんだ円盤が姿を現した。


「これって……もしかして、懐中時計?」


 それほど大きなものではないし、それほど精緻なものでもない。つるりとした表面にはなんの細工もなく、鎖や紐すらついていない。それでも、上部の突起を押すと、二枚貝のようにぱかりと開いた。


「止まってる……そりゃそうか」


 ローマ数字が記された盤面上には、2時50分を指して止まった2本の針。

 その時間になにか意味があるのだろうかと首を傾げた敦司は、陰になっていた蓋の内側に、なにかの文字が刻まれていることに気がついた。


「……『ハトウ トキオ』? あっ、名前だ……!」


 理解した瞬間、鼓動が早くなる。

 きっとこれが、千賀子ちかこが聞いたという祖父の実父の名前だ。

 時代柄か、直線構造で刻みやすかっただけか、カタカナ表記で漢字がわからないのが少し残念だが、それでも一歩前進には違いない。


「ん? 下にもなにか……」


 袱紗の内側と似た色味、海老茶色をしていたので、一体化して見えていた。けれど他の部分と違い、それは、柄物の布地だった。こちらもくすみ、汚れてしまっているが、どうやら蝶々の柄のようだ。

 懐中時計を脇に置き、布地を取り出して広げてみると、それは小さな巾着袋だった。朽ちかけた口紐は赤色だ。絞られず保管されていたその口元をよく見ると、文字を刺繍した、指先ほどの別布が縫い付けられていた。


「……『てふ子』……これも、名前?」


 耳慣れない音列だが、昔の名前ならあまり不思議な気もしない。

 それより、この箱に一緒に収められていたということは、きっとこれが、祖父の実母の名前だろう。


 ハトウトキオ。そして、てふ子。

 それこそが、この15年間の人生で初めて知った、敦司の本当の曾祖父母の名前らしかった。





『なるほどね。丹原くんは、ハトウくんだったかもしれないわけか』


 懐中時計と巾着袋を箱に戻し、再び小野辺家に戻った敦司は、さっきと同じ廊下の隅で、みおへと報告の電話を入れていた。

 興味深そうな電話口の声に、敦司は「はい」と頷いて返す。


「皐月のばあちゃんにも確認したんですけど、たぶん、間違いなさそうです」

『たぶん?』

「なにぶん、高齢なもので……」


「そうじゃそうじゃ、ハトウさんじゃ!」と千賀子本人は両手を打って頷いていたが、先程まですっかり忘れていた老人の記憶を、どこまで信用していいのか敦司にはわからない。もしもを考えて、つい断言を避けてしまう。

 それでも澪は、『物的証拠があるわけだし』と特に問題視しなかった。


『丹原くんのルーツは舟崎ふなざきにあって、その大きな移動があったのが、今から70数年前か。時代を考えれば単なる偶然かもしれないけど……やっぱり、なにかしら関連がある可能性も捨てきれないね』

「で、でも、あったとしても、いったいどんな……」


 血塗れの花嫁姿で、一方的に人の命を奪い続けている悪霊と、自分の血縁者との間に関わりがあるかもしれないなんて、考えただけでゾッとする。

 澪は短く『それはわからない』とだけ答え、話題を少し変えてきた。


『実を言うとね、こっちも少し、調べ事が進んだんだ』

「えっ……なにかわかったんですか?」

『まあね。――丹原くんが遭遇したっていう、桑原氏の目星がついた』

「ええっ! あの人、見つかったんですか!?」


 探すにしても手がかりなど、校長が口にしていた〈桑原〉の名字と、敦司が覚えていた彼の見た目だけだったはずだ。

 たったそれだけのことで、この広い世界、少なくはない舟崎市民の中からその人を見つけ出せるとは、正直、期待していなかったのに。


『でも、あくまで目星だよ。確証があるわけじゃない。だからきみに、面通しを頼みたいんだ』

「面、通し?」

『顔の確認。……学校から離れている間、小野辺さんに異常がないのなら、こっちを優先的にすませてしまったほうがいいと思う。だから丹原くん。急だけど明日、こっちまで出てきてもらってもいい?』

「明日、ですか……」


 確かに急だ。これまでの事件で来たマスコミが、まだ舟崎から引かない中、同じ市内に出ていくのが空恐ろしいような気持ちもある。

 けれど――澪の言うことはもっともだった。

 もしも目星が外れていたなら、この人探しはまたイチからになる。皐月のほうに悪化の兆しがない今のうちに、やれることはやるべきだった。


「……わかりました。明日、舟崎駅前ですね。はい、10時前には着けると思います。はい」


 簡単に合流の打ち合わせをして、失礼します、と電話を切る。

 そして、大きな溜め息をついた。


 これまでのこと。これからのこと。

 次々と積み重なっていく問題事項が多すぎて、正直、脳の容量が足りなくなっている気がする。そろそろ頭痛を発症しそうだ。知恵熱が出ても驚かない。

 ――そんな自分だとしても、ここで投げ出すわけにはいかなかった。

 皐月だけは、彼女だけは、なんとしても守ると決めたのだから。


 もう一度だけ溜め息をついて、顔を上げる。スマホをポケットに突っ込んで、いい加減、皐月の部屋に戻ろうと廊下を歩き出す。

 そして、角を曲がった先にいた、その皐月本人との衝突寸前でストップした。


「――――ッ!?」


 息が止まった。心臓も一瞬、止まったかもしれない。

 あと半歩もなくぶつかる距離で、お互い、凍り付いたように固まった。

 至近距離で見合ってしまった皐月の丸い目の中に、固まる自分の姿が見えて、敦司の体温がじわじわと上がる。汗が滲んで、我に返って、よろめくように後ずさる。


「さっちゃ……いや、あの、小野辺さん、なんでそんなとこに……!」


 同じく後ずさった皐月が、赤らんだ頬をぷっと膨らませる。


「あ、あっくんがなかなか帰ってこないから、探しに来たんだよ! ……もう、びっくりした! 先輩たちも、心配してたんだからね!」

「そ、そっか、ごめん。あの……」


 今の電話を、聞いていたのか?

 そう尋ねかけて、寸前でやめる。――そんな問いかけは、完全に墓穴だ。聞かれて困る内容だったのかと言われたら、うまく弁明できる自信がない。


「なに?」

「……なんでもない」


 部屋に戻ろうと促すと、皐月は小首を傾げながらも先に立って歩き出す。その後に続きながら、追究を避けられてホッとした敦司は、だから、気づかなかった。


「…………」


 前を行く皐月の表情が、とても、複雑な色をしていたことに。




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