第14話 落とされたりはしない
どちらともなく追いかけ出した
彼女を取り巻く〈状況〉が尋常ではなさそうだということは、少し注視していればわかった。
周囲を気にするような小走りで、しかしなにか――中庭の低い木陰でも――物陰があるたびに、その足を止め、警戒するように視線を走らせている。そうしてからまた弾かれたように走り出すさまは、どう見てもなにかに怯えているように、そして、なにかに追われているようにしか見えなかった。
初めは窺うようだった敦司たちの追跡も、波那が東側の外階段を上り始めた時点で、緊迫感を増してその足を速めた。
途中で校舎内に入るならそれでいい。しかし安易にそうは思えないほど、彼女の様子は切羽詰まっていた。
4階への段に足をかけたところで、もはや、悠長に後をつけている場合ではないとの判断が下された。
杞憂であるならそれでもいい。僅かに前へ出た澪が肩に手をかけ、そこでようやく、相手は2人を認識したらしかった。
「七留さん――」
「っ、やめて――放して!!」
ハッと息を呑んだ波那が大きく腕を振り回す。唐突に現れた間近の相手に、パニックが爆発したらしい。
その腕は澪の手を弾き、階段上にあった彼女のバランスを大きく崩させた。段を踏み外した彼女の身体が、受け止める間もなく敦司の横を転がり落ちる。
「先輩……!!」
「……っ、いいから! あれを止めて! ――早く!!」
それはまるで鞭だった。顔を上げ、しかし未だ起き上がれないままでいる澪の口から投げつけられた命令文に、敦司は考えるより先に従っていた。
波那の足は恐ろしく早かった。先の一瞬の躊躇いのうちに、4階建ての最上階まで上り詰め、封鎖された屋上に通じるフェンスを乗り越えようとしていた。
短いスカートの裾など気にも留めず、すでに半分以上が乗り出したその身体を、敦司は寸でのところで捕まえた。
「先輩……七留先輩! やめてください! 落ち着いて……!」
「放して!!」
女子生徒を羽交い締めにする体験など、そうそうあるものではない。
しかし今は、その身体の柔らかさや、ばたつく脚のその先のことなど考えてはいられなかった。彼女のローファーのかかとは硬く、偶然当たった脇腹は、抉られるような痛みを覚えた。
「あんたもそうなんでしょ!! わたしのことが目障りなんでしょ!! あの女と一緒になって、わたしを引きずり降ろそうとしてるんだ!!」
「ちょっ……待って……!」
「そんなの誰が許すもんですか!! ――わたしが!! 1番なの!!」
吠えるような絶叫を耳元で浴びせられ、敦司は顔をしかめる。
しかし手だけは、絶対に緩めなかった。息継ぎを挟んだだけでも最悪の事態に至ってしまうことは明白で、だから敦司は、いくら蹴られても必死に彼女にしがみついていた。けれど。
唐突に、そのすべてが止まった。
「…………ああ……来た」
ぽつり、と彼女の口から零れた言葉が、一瞬なにかわからなかった。
不意に力が抜けた身体。それに戸惑う敦司になど目もくれず、うわ言のように波那は呟く。
「来たのね。2人してわたしを追い落とそうとしてるのね。知ってるわ、わかってる。でも残念だったわね、――わたしはあんたたちに落とされたりはしない」
波那は笑った。絶望的な微笑だった。
それが向けられているのが自分ではないということに気付いた敦司は、それと同時に、一切の音という音が消え去っていることに気が付いた。
グラウンドの声も。吹き渡る風も。遠い車のエンジン音さえ消え、ただ世界は、強く凍った耳鳴りに支配されていた。
――〈あの時〉と、同じように。
敦司は振り向いた。
その先に、白無垢姿の鬼が立っていた。
「――――」
息を呑んだのかもしれない。あるいは悲鳴を上げたのかも。どちらにせよ、敦司の脳はそれを処理し切れなかったのだから同じことだった。
それは2人のすぐ後ろ、3歩と離れていない階段の際にいた。
現実感の薄い花嫁衣装。深くかぶった綿帽子。その下に見える顔はしかし、うら若き花嫁のものではなく、両端の吊り上がった口元から覗く牙も鮮やかな〈鬼〉のものだった。
まといつく揺らぎは霊気だろうか。それを緩やかに波打たせ、しかし鬼は、そこから動こうとはしなかった。
……――……ああ……くちおしや……――……
動かない唇から、そよ風のような囁きが零れる。
それは〈一人目〉の現場で聞いたのと同じ声。
細く震え、痛いほど張り詰めた女の声だ。
……――……くちおしや、わがせ…………みつのくちを……ああ……――……
語りかけるでもない囁きを重ねる。
その姿が次第に薄れていることに、敦司は気付いた。
赤の散る振袖の先が、扇に広がる裾先が、糸を解くように消えていく。
やがて掠めるようだった霊気の方が濃いほどに、そしてもはや、それしかなくなって。
……――……ああ…………ぁあ……ぁぁ…………――……
淡い囁きが消えるのと、その鮮烈な狂気の声は、どちらが先か。
ただぼんやりと見入っていた敦司の思考を引きずり戻したのは、間違いなく後者の方だった。
「あんたたちみたいなのに渡すもんですか!! わたしは違うの!! あんたたちみたいな凡人とは、存在価値が違うのよ――!!」
いっそ哄笑のようにさえ聞こえる声を上げ、七留波那は怯んだ敦司の腕を抜け出した。そして迷わず手すりによじ登り、そこから身を投げようとして。
「ばっ――」
「――波那!!」
その時、背後から飛び出した誰かが彼女を捕まえた。
暴れ逃れようともがく波那を、しかししっかりと抱きすくめ、宥めるように声をかけ続ける。そのかいあってか、次第に落ち着きを取り戻してきた彼女の口から涙交じりの嗚咽が聞こえてきたところで、ようやく敦司は我に返った。
「だ、……?」
「……2年3組、
半端な形になった疑問に答えたのは、澪の声だった。
はっとして首を巡らせると、その姿はひとつ下の踊り場にあった。手すりに寄りかかるようにして、敦司を見上げている。
「教室に、まだ残ってたんだ。よかったよ……すぐに話を聞いてくれて」
安堵したような微笑を見せて、澪はその場に、崩れるように腰を落とした。
「あ……せ、先輩、大丈夫ですか?」
慌てて駆け下り、腕を支える。
間近で見た彼女は酷い有り様だった。黒い制服は砂や塗料の破片で汚れ、いたるところに擦り傷が、更に右眉の上が切れ、細く流血までしている。
その手が小さく震えていることに気付き、瞠目した敦司へと、澪はごまかすように笑ってみせた。
「落ちた時、いろんなところを打ったみたいだ。折れてはないと思うんだけど」
「それもですけど、それより先輩、血が……!」
「……血?」
言われて初めて気が付いたというように、額に触れた澪は、その赤を見て目を丸くする。
「ああ……七留さんの爪が当たったんだろうね。そんな感じはあったから。大丈夫。傷自体は浅いから、すぐ止まるよ。――それより」
覗き込む目は真剣だった。たとえその端に、涙を滲ませていたとしても。
「なにがあったのか、きみの目に映ったことを、教えてもらいたい」
強い瞳を間近に見つめ、それは数秒にもなっただろうか。
敦司は無意識のうちに答えていた。
「…………。だめです」
「だめ?」
それは意外な返答だったに違いない。きょとんとした表情の彼女は、思いのほか幼い印象を垣間見せていた。それになぜか自分まで戸惑いを覚えながら、敦司はしかし、断固とした口調を崩さなかった。
「保健室が先です。先輩の手当てが全部終わったら、ちゃんと話します」
相手の戸惑いは更に上をいっているようだった。怪訝そうな色を隠しもせず、「別に、手当てするほどじゃ……」などと言い返してくる。
「なに言ってるんですか。傷が残ったらどうするんですか、女子なのに」
「傷が残って困る身じゃないよ。貴族の御令嬢でもあるまいに」
そういう話ではないということを、この人に納得させられるほど筋道立って話せる自信など、敦司にはなかった。
それで結局、憮然としたまま、一言だけを押し付けた。
「おれが、嫌なんです」
「…………。そう」
もしや突拍子もないことを言ってしまったのではないかと、わずかながら確実に挟まった沈黙に不安が湧く。
けれど、なにはどうあれ、ともかく相手の口を閉じさせることはできたようだ。
唇をへの字にして、つかの間そっぽを向いた澪は、やがて諦めたというように吐息をついた。
「それなら早く行こう。実はさっきから、歩くと右足首がやたらと痛いんだよね」
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