第4話 知らない場所、知らない人たち

 週明けから月が変わり、冬島の異動の日を迎えた。

 休日は二日酔いとか憂鬱さとか自己嫌悪とかでぐちゃぐちゃになり、ほとんど寝て過ごしてしまった。

 見送りでは何も言わずいつも通りに送り出してくれた母親に「帰ったら絶対甘えるんだ」と心を決めて、キリキリと痛むお腹をさすってごまかしつつ、早めに出社をした。

 金曜日のこともあって顔を合わせづらい田村は、幸いまだ出社していないようだった。

「やっぱり、一言謝っておいたほうがいいよね……」

 ぶつぶつ独り言を呟きながら机の中の片付けを始める。

 今回は別フロアへの異動になることもあり、支給された四十センチ四方くらいの段ボールにものを詰めていく。

 かなり早めに来たはずなのに、ぱらぱらと人が出社してくる様に、強烈な焦りを感じ、セキュリティドアの開く音がするたびついそっちを確認してしまう。

 その様子はなんだか、「人の目を気にする万引き犯」みたいだと自分でも思う。

 何度目かそんなことを繰り返すうち、ついに田村が入室してくる。ばっちり目があってしまった。

「おはよー。この前はごめんねー」

 財布と煙草しか入っていない高そうな革バッグを机に置きながら、田村が開口一番謝罪した。

「あっいえ、その、こちらこそ……。ご迷惑をおかけしてしまって……」

 声が尻すぼみに小さくなっていく。

 田村は笑って、

「あはは、まあそういうこともあるって。あーでも……、お詫びと言っちゃなんだけど、もしよかったらまた付き合ってよ。一人で飲みに行くのも寂しいからさ」

 と、次の機会を探る。モヤっとはしたものの、罪悪感から冬島は頷いてしまった。

「あ……、そうですね。機会があれば」

 さっきから、じくじくと胸が疼いている。


 田村と他愛ない話をしながら、冬島は段ボールの蓋を閉じ、重しを兼ねて自分のPCを箱の上に載せる。

「では、お世話に――」

「あ、待って待って。次の席まで運ぶよ。女の子一人じゃ大変でしょ」

 冬島が詰めた荷物を持とうとすると、併せて田村が席を立った。

 ――そりゃ、席くらいは知っておかないと。この地味子は対面だと断れないから、何か都合の悪いことを吹っ掛けるなら直接の方がいい。たとえば……、この前し損なったアレとかね。この子、色白できれいなカラダしてたんだよなぁ。

 おろおろする冬島の、薄手の黒タイツから透ける脚を見ながら内心で舌を出す田村は、冬島が反応するより早く大して中身が入っていない段ボールを取り上げてしまった。

「よし、じゃあ行こっか。ドア開けてもらっていい?」

 言われるがまま冬島はドアを開けて田村を通す。次の作業場所は1フロア下なので、会社の方針で階段で移動することになる。

 1フロア下の階で南北ある部屋のうち、冬島の席があるのは北側だ。

 いつも通りカード認証で入室し、PCが置かれていない奥から二列目の端の席をすぐに見つけ、座席が印刷された紙を見ながら小さく指差す。

「多分あそこです」

「おっけ。……よし、と」

 段ボールを机の上に置いて、田村は腰に手を当てて、大げさに一息つく。

「あ、そうだ。そういやナギちゃんの連絡先知らないから聞いてもいい?」

 ――えっ、どうしよう……。

 良し悪しよりも先に困惑してしまう。自分の感情に疎い冬島はそれが自分自身の拒絶反応だということを感知できなかった。

 ――いい人だし別に連絡先くらいなら……。それに、断るとせっかく気を遣ってくれたのに、気分を損ねちゃうかも。

「えっと、わかりました」

 連絡先を交換する。

「じゃあ、俺行くから」

「いろいろとありがとうございました」

「また気が向いたら来るよ」

「えっ?」それはなんの用事があって……?

 返事を待たずに田村は居室を出て行ってしまう。

 ――もしかして田村さん、私のこと……?

 ふと甘い幻想を抱きそうになる。いやいやそんな馬鹿な。私なんかが彼と釣り合うわけがない。

 一瞬気持ちが揺れかけて、すぐにお決まりの全否定。また風間の困った顔が頭をよぎった。

 思い出も限界までゴミ袋に詰めて捨てたのに、まだ抜け出せない。

 俯いてその場から動けなくなりそうな自分を叱咤して顔を上げ、段ボールを開梱する。

 時刻は九時二十五分。

 サイドテーブルに異動前と同じ配置で荷物をしまい、引き出しの鍵の記帳をして一段落。

 あとはPCのセットアップだと席に座ろうとしたところで、

「あの、すんません。冬島さん……っすよね」

 と声をかけられた。

 机の脇に、ネイビーのスーツ姿でガチガチに髪を固めた男性が、緊張した面持ちで立っていた。

 知らない人から話し掛けられて、冬島の思考が数秒停止してしまった。

「あっ、はい。えっと……冬島、です」

 ようやく答えると、「あっ、よかったぁー。違う人に声かけたと思ったぁー」と、ぱぁっと彼は照れ笑いした。

「初めまして。僕、利田って言います」

「初めまして。冬島です」

 お互い何度もぺこぺこして。

「あ、っで! 朝から申し訳ないんすけど、うちのトコ半から朝礼あるんすよ。今日からなんすけど。なので冬島さん呼びに来ました」

 あ、これは大勢の前で挨拶させられるやつだ……。早くも心が折れそうになる。

「んじゃ行きましょっか」

 そう言って利田は首を伸ばして誰かを探す。

「おはーっす」その最中、冬島の隣の席に白髪頭の男性が出社してくる。

「あ、おはようございますー」「…………!!(ぺこぺこ)」

 軽く挨拶をして、利田が冬島の脇から声をかける。

「山崎さん、こちら今日から配属になった冬島さん」

「冬島でしゅっ(ぺこぺこ)」

「山崎ですー。よろしくね。俺、会議でいないこと多いから、気楽にサボりつつやってよ」

 そう言って彼は朝っぱらからコーラをがぶ飲みする。何度か喉をならし、

「あー!! 炭酸が染み渡るわぁー。 あ、冬島さん相沢くんと会った?」

 次から次へと知らない名前が出て、目の前の人すら忘れそうになる。

「相沢さんまだ来てないっすよ」

 時刻は九時三十二分。……遅刻だ。

 前の部署だったら業務を開始していないと、それだけで冷たい視線を浴びてしまうというのに。

「ま、そのうち来るでしょ」

「そっすね。あ、言ってるそばから来ましたね」

 通路の正面から、細身で眼鏡の男性が歩いてくる。

 利田が手招きする。しかし、彼は頭の上でバッテンを作り、冬島の席から向かい並ぶ、部屋の一番奥の列の自席へ向かってしまう。

「ちょっ、なんで来ないんすか」

 そう言って利田は相沢の席まで向かう。

 荷物を置いた相沢にあれこれ言って、手にバッテンを作ったり冬島の方を指差したりしているが、肝心の本人は相手にしていないようだった。

 ややあって二人とも冬島のところへ戻ってくる。伴って、だんだん声がはっきり聞こえるようになる。

「だから、今日から新しい人くるから、間に合うように来るって言ってたじゃないっすか。時間通り来ましょうよそこは」

「まーまー。細かいことはいいじゃないですか。あ、どうも利田です」

 そう言って、「相沢 仁」と書かれたネームプレートを持ち上げて見せる。

「いやなんで僕の名前で名乗るんすか!」

「間違えた。相沢です。よろしく」

 ――うわぁ、すごく変な人だぁ……。

 その時の冬島には、それ以上の感想はなかった。

 何度かまたぺこぺこしたあと、言われるがまま、同フロアの会議室へ向かう。

 冬島を含めて総勢五名が適当に座り、冬島が危惧していた「自己紹介」もなく、あっさりと朝礼が終わる。

 ただ終わりがけに、

「予定通り、冬島さんは相沢さんの下に入ってもらうんで。席も少し離れてるけど、利田くんフォローよろしくね」

「了解です」

 相沢はちらと眼鏡越しに冬島を見た。目が合って、すぐに冬島は視線を逸らしてしまった。

 しまった、と視線を戻したときにはもう相沢は違うところを見ていた。

 唐突にどす黒い自己嫌悪が吹き上がる。

 ――ああ、もう失礼なことを……。どうしよう、なんて謝れば……。

「じゃあ今日もよろしくお願いします」

 全体で軽く頭を下げ、席を立つ。

 出口に一番近かった相沢はすぐに退室してしまい、その背中を慌てて追いかけた。 

「あのっ、相沢さん」

 振り返る。横に並んで歩き出した。

「さっ、さっきはそのっ!! ……すみませんでした」

「? 何のことか俺にはさっぱりなんですが……」

 首を傾げる。実際、相沢には全く思い当たる節はない。

「その、目が合ったときに視線逸らしちゃったので……、失礼なことをって」

「あー、なんだ。そんなこと」

 ふふ、と笑う。「損してるなぁ、この人」と相沢は胸中で呟いた。

「俺、そんな細かいこと気にしないんで大丈夫ですよ。もっと楽にしてください」

 相沢は続ける。口の片端を上げてしまうのは彼の癖だ。

「利田くんなんて新卒なのにあの対応ですよ。尊敬なんてあったもんじゃないですよね」

 セキュリティドアを通過する。相沢の席までついていく。

 後続の利田と山崎は冬島の席の方へ向かっていった。それを見てから、相沢は冬島に小声で言う。

「細かくは知りませんけど、前のとこでいろいろあった、とは聞いてます。完璧なんか初めからも、これからも求めちゃいないです。……で、冬島さんは何が得意ですか?」

「えっ……、得意なこと……?」

 突飛な質問にまた思考停止しまう。

「あ、今すぐ答えてくれなくていいです。まぁとはいえ仕事には成果が必要なんで、出来ることからやってみてください」

「あ、はい。分かりました」

 返事をすると、相沢は数度頷いて、

「せっかくやるなら、今の方がマシです、って言えるようにしたいんですよね」

 ――なんていうか、あったかい人だなぁ。

 冬場の心についた傷に、じわりと染みていく何かを感じた。

 思わず、そう言って下さっただけで今の方がマシです、と言いそうになった。

「じゃ、そゆことで」

 冬場の返事を待たずに、相沢はPCを立ち上げて、横でぼけっと突っ立っている冬島を意に介さず、自分の作業を始めてしまった。

「あのっ」

 何か言わなきゃ、と絞り出したのに、相沢は一瞥もくれない。

「私、相沢さんの力になりたいです」

 誤解されそうな言葉に、相沢は視線だけを冬島に向け、僅かに目を細めた。

 前を向いたまま応える。

「ええ、頼りにしてます。じゃあとりあえずPCセットアップしましょうか」

 相沢に言われてハッとする。まだ仕事できる環境すら出来てないのに、「何が力になりたい」だ。

「すっ、すみません!!」

 ぺこぺこしてから冬島は慌てて席に戻り、利田から資料を受け取って中途半端になっていた作業を再開した。

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いつかの、偽りの夜 ハル @Falcram

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