第3話 いい人か、悪い人か
「ナギちゃんもしよかったらさぁ、俺の一番好きな酒飲んでみない? 一口だけでもいいからさ。絶対おいしいからさぁ」
田村がしきりに酒を勧めるようになったのは、食事を始めてから一時間経った頃だった。
初めのうちはなんとか拒否をしていたものの、次第に不機嫌な素振りを見せてきて、冬島は思わず身を竦めて受け入れてしまった。
田村は酒に酔うと素面よりもずっと強引になり、冬島が返事をする前に、さっきから勝手に端末を操作して酒の注文を入れてしまう。
断り切れない冬島の悪癖に味を占め、飲み終わってないのに次のものが運ばれてきてしまう。
すでに冬島の前には飲みかけのグラスが三つ鎮座しており、
「ナギちゃん全然飲んでないじゃーん」
と笑っては、冬島の飲みかけの酒を自分の前に寄せて、冬島の唇の後が残るところにしっかりと間接キスで飲み干すということを繰り返していた。
普段ならさすがに冬島でも吐き気を催すような田村の所作に、別の意味で吐き気を催しそうな冬島にそれを感じ取るほどの余裕もない。
田村が一番おすすめと宣った酒が運ばれてくる。
「ほら、飲んで飲んで!」
勧められるままに、冬島はグラスの中でやけに量が少ない琥珀色の液体を、いつも通りの量で口に含んだ。
「――!?」
突如、舌と喉が焼けるような痛みに襲われてむせ返しそうになった。
鼻の奥が強いアルコール臭で満たされ、一度口に含んでしまった手前吐き出すこともできずになんとか飲み込んだ。
そこでようやく何度か咳き込むことができた。
「俺が勧めたからって、そんながっつかなくてもいいのに。可愛いなぁ」
冬島がたった今口をつけたばかりのストレートのウイスキーが入ったグラスを取り、しっかりと自分は事前に注文していたお冷やで水割りにしてから飲み始める。
「へへ、可愛いれすかぁ?」
普段聞き慣れない可愛いという単語に無条件に口元が緩んでしまう。
「ナギちゃんマジで可愛いよ。普段から思ってたけど」
「普段言われないから、嬉しいれす……」
「喜んでくれて、俺も嬉しいよ」
そんな恋人みたいなやりとりをしているうちに田村のグラスが空いた。
「そろそろ行こっか、立てる?」
「あ、ふぁい、多分、大丈夫らと……」
奥のソファ席から立とうとして視界が揺れた。
なんとか立つことはできても、まっすぐなんて到底歩けそうもない。
田村の腕に掴まるようにして店を出て、田村が予約したホテルに向かって夜の街を歩く。
「ナギちゃん体調悪そうだし、どっかで少し休憩してこっか」
「あ、はい、そうさせてもらえると……」
いっちょ上がり、という田村の呟きは冬島には届かない。
――この手の女は、変にプライドの高い女より楽でいい。ついてるものも、やることも同じなら、わざわざ難易度の高い美人口説くなんてコスパ悪すぎだし。
うずき出した自身の股間を一度触り、その手をスーツのポケットに入れた。
翌朝、冬島は見慣れない場所で独り目覚めた。
明らかに自分の部屋ではないどこか。体を起こそうとして、強烈な頭痛と吐き気を感じて、大きなダブルベッドに再び体を沈めた。
「ここ、どこだろう……」
昨晩の記憶が途中までしかない。ずいぶんと飲んだ気がする。経験したことのない頭の痛みに、これが二日酔いというやつかと納得した。
ぼんやりとサイドテーブルのデジタル時計を眺めていたら、徐々に意識がはっきりとしてきて、なぜ自分がこんなところにいるのかと、当たり前の疑問に悪寒がした。
慌てて布団の中で自分の体を見下ろすと、スーツっぽいジャケットは脱いでおり、ブラウスは第二ボタンまで開けて裾も出ているが、ちゃんと着ている。
スカートは脱いでしまっているが、冷房対策の薄めのタイツはそのままだ。
タイツの下に紺色の地味な下着が透けており赤面したが、脱いだような感じは不思議としなかった。
つまりは総合的に判断して、終わりかけとはいえ、月経中だったにも関わらずいわゆる「酒に酔った勢い」は犯さなかったらしい。
「はー……、よかったぁ……」
心底安堵するとヒリヒリする喉に水分が欲しくなり、どちらのかもわからない飲みかけのミネラルウォーターをサイドテーブルから取り上げて、一気に飲み干した。
サイドテーブルの上に並べて置いてあった自分のスマホを取って時間を確認すると、七時半を少し過ぎたところだった。
とっくにいつも家を出る時間を過ぎている。
「仕事っ!?」
ガバッと体を起こしてベッドから降りたところでもう一度スマホを見て土曜日であることを思い出した。
「あー、なんだぁ、ほんとにもう……」
ぼすんとベッドにまた身を沈めて、ばっくばっくとアタマに響く鼓動が治まるのを待った。
それから、体を起こした際に見つけた田村からの書き置きを腕を伸ばして取り目を通す。
『お疲れ様。
今日は朝から用事あるので先に帰ります。
代金は支払い済みなので、そのまま帰っちゃって大丈夫です。つい楽しくて飲み過ぎちゃった、ごめんね。土日ゆっくり休んで!!
カギはフロントによろしくね』
冬島はもっていたメモを丸めてゴミ箱に放った。
飛距離が足りず、手前のカーペットに転がったのを見届けて、ため息をついた。
――チェックアウト何時だろう。頭はガンガンするし、眠気はすごいし、起きているだけでキツイ。
冬島はどうしようか悩みながら何度か寝返りをうったのちに、「どうせなら帰って寝直そう」と決心して体を起こした。
のろのろと帰り支度をしてホテルをあとにする。
――まさか朝帰りなんて……。まるで不良みたいだ。田村さんにも迷惑かけちゃったし、来週からどういう顔をして会えばいいのか分からない。
帰り道にどんよりとした気持ちでいると、ふと来週から異動だということに気づいて少しだけ気持ちが和らいだ。
電車でも一度寝過ごしたが、なんとか帰宅する。
時刻は午前九時半過ぎ。
実家住まいの冬島が玄関の戸を引くと、冬島が幼い頃から変わらないコーヒーとトーストの匂いに包まれて、不思議と生きている実感が湧いた。
がちゃり、とリビングのドアが開いて母親が顔だけ出して言う。
「おかえりナギちゃん。朝ごはん食べる?」
「ただいま。うん、食べる」
「おっけ」
仕事用のハンドバッグを玄関に置きっぱなしにしたままリビングに入り、手を洗う。
「ふらついてるけど大丈夫? いくら社会人になって付き合いもあるからって、ほどほどにしなきゃダメよ」
「うん、ごめんね。もうしない」
「次からは連絡ちゃんとちょうだいね。本気で心配したんだから」
「うん、分かってる。ごめん」
食卓のいつもの席につくと、牛乳多めのコーヒーと、バターの上にシナモンシュガーをまぶしたトースト一切れが並ぶ。
「お父さんは?」
「まだ寝てるよ。遅くまでゲームしてたんでしょ、どうせ」
冬島の両親の仲は良いとは言えないが、かといってケンカをするでもなく、どちらかと言えばお互いに無関心、無干渉といった感じだ。
父親も会社員をしているが、平日の帰宅後から週末いっぱい自室にこもり、オンラインゲームに没頭するのが日常だ。ここ最近あまり父親の姿を見た記憶がない。
そんな父親を咎めるでもなく「期待してない」と「役割分担」で割り切り、「若い頃でもないし、いつも顔見てるのは疲れる」とあっけらかんと言ってのける母親を冬島は尊敬している。
一度だけ母親に「パパのどこがよくて結婚したの?」と、核心をつく質問をしたことがある。
その時母親は笑って、「約束だけはちゃんと守るところ」と言っていたのを思い出す。
その時は「もっといい人いるのに」なんて思ったりもしたが、社会人となった今は約束を守ることの難しさと、仕事から帰ってきたあとも他人とコミュニケーションを取ることの難しさがよく分かるようになった。
――まぁ私に関しては、仕事中でもちゃんとやれてないけど……。
「ほら、ご飯食べたらさっさとお風呂いきなさいね。ナギちゃんお酒臭いよ」
グサッと胸に突き刺さるお言葉。
「そだよね……、知ってた」
「初めてじゃん、こんなこと」
そう言う母親は少しだけ娘の成長が嬉しそうでもある。
「……なんかいい人いたの?」
「――!? ごほっ、げほっ!?」思わずむせて「そ、そんなんじゃないよ」と必死に否定した。
田村さんは素敵な人だし、私にはもったいない。
心の中で自分に対して嘲笑する。
「隠さないでいいのにー」
「お風呂行ってくる」
背中を向けている母親の言葉を無視して、冬島はリビングを出た。
そう、いい人……だよね?
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