第2話 それから、これから

 風間と二度目のサヨナラをしてからというもの、変わらない日常に戻っても、冬島の心はぽっかりと穴が空いたままだった。

 ヤケクソになるというよりは無気力の方向に振り切ってしまい、風間と再会したあの一夜は嘘だったんじゃないかと疑いたくなるほど、家と職場を往復するだけの何もない日々が続いた。

 無意識にぼんやりとする時間が増え、ふと気づけばじくじくと膿んだ胸の痛みと、振り払えない憂鬱さから徐々に仕事も休みがちになっていた。

 ようやく迎えた休日も自室で何もせずに独りでいると、どうしても顔を一目見たくなってしまい、どうしても消せなかった風間とのお気に入りのツーショット写真を、「これで最後」と思ってついまた開いてしまう。

『――バイバイ』

 そして、飽きることなく眺めたあと、震える指で削除ボタンを押した。


 あの日、どうして笑えたのか今となってはもう分からない。

 ――やっぱりあの時、「捨てないで。一人にしないで」って、泣いてしまえばよかったのかな。

 幾度となくした自問自答。YES/NOで答えられるのに、誰も正解を教えてくれない。これからどうすればいいのか、あの時どうしていればよかったのか今もわからない。

「前はどうしてたんだっけ」

 明かりがついていない暗い部屋の中で独りごちては、どうしようもない絶望感の中で一度目のサヨナラに思いを馳せる。

「あ、そっか……」生きているのが嫌になって。

 ――死のうとしたんだっけ。

 別に悲しくなんかないのに、溢れた涙が頬を伝ってスマホの上に音を立てて落ちた。


 何かをする勇気も起きないくせに、いつ死のうか、今度はどうやって死のうか考えているうちに寝落ちてしまい、気づけば朝を迎えていた。

 いつ移動したのか覚えていないがベッドで寝ていて、寝たままスマホを確認すると家を出る時間をとっくに過ぎていた。

 それよりも麻酔がかかったように痺れるような頭痛と吐き気に、起き上がれそうにない。

 会社の上司に体調不良で休む旨を送り、とりあえず今は寝ることにした。


―――――――――


 翌日出社をするなり、「私」は上司に会議室に呼び出された。

 ――ああ、ついにクビになるのかな。……当然か。私みたいな役立たず。運良く就職できて、なんとかやってきたつもりだったけど、毎日劣等感の中で生きてきて、誰かに必要としてもらえるように頑張ってきたつもり……。

 ――そう、つもりでしかなかったんだ。

 対面で席に着くなり、上司が口を開いた。

「単刀直入に聞くけど、最近何かあった? いやね、ちょっと休みがちになってたし、社内で少し話題に上がってさ、いつも大人しい感じだけどそれとは何か違うっていうていうか、ほら」

 小太りで肉のついた頬を撫でながら、上司は私に気をつかうフリをしている。

 でも、本音は違うところにある。それくらいは愚鈍な私でもわかる。

「いえ、何も。すみません」

 私は相手が求めている答えをそのまま口にしてみせると、上司は露骨にほっとした顔をした。

「ならいいんだけど、さ。それならもうちょっと明るく、ね、いられるようにさ。ほら他の人も心配するから」

 一言、すみませんと謝罪を挟んでから、

「ご用はそれだけですか?」

 どく、どくと痛いくらいになる心臓の音に目眩すら感じながら、私はあえて地雷を踏みに行った。

 どうせなら早いほうがいい。

 上司は口元だけの笑みを作ったまま一度ピタリと止まり、

「実は――」

 言い辛そうに数拍あけて、

「冬島さんに異動の話があがっていてね、あくまでも本人の意思に最後は委ねるらしいけど。そっちの方がこっちより忙しくないし、悪い話じゃないと思うんだけど……。いや、でもウチもあんまり業績よくなくて、今度規模縮小の方向に動いてて上から怒られててさ。いや、俺としてはぜひ残ってほしいんだけど」

 定時出社、定時終業の今の部署より忙しくないっていうのはどういうことなのか。

 こういう時くらい、はっきり「異動してほしい」って言ってほしいと思うのはわがままなのかなぁ。

「……わかりました」

 上司は何か理由みたいなものとか、上っ面の励ましのような言葉をまだ並べ立てているが、そんなこと私の耳には少しも入ってはこなくて、ただクビにならなくてよかったとだけ思ってしまう自分に、心底嫌気が差してしまう。

「じゃあ、手続きはこっちでやっておくので、来月からよろしくね。といっても、もうあと数日だけど」

「わかりました」

 上司は椅子から腰を上げたところで、

「ここじゃ残念だったけど、次は頑張ってね」

 そう無責任な一言を残してドアを開けた。

 つまり私は上司に、ここでは頑張っていなかった、と評価されていたということだ。でも、もう別にいい。なんでもいい。

 出社したばかりなのにどっと疲れた。このまま帰っちゃおうかな。……できるはずないけど。

 上司と別れて自席に戻った。

「ナギちゃんどしたの? なんかあった?」

 椅子に腰を下ろすなりそう声をかけてきたのは、同僚の田村さん。私のことを名前で呼ぶ男性。

 長めの前髪を分けた黒髪は有名な俳優さんみたいにしっかり決まっていて、服装もいつも同じような服ばかり着ている私から見てもオシャレだし、気さくに話しかけてくれる優しい人。

 私はよく分からないけど、きっと女の子はこういう人が好きなんだろうなって思う。

「ええ、まぁ。ちょっと異動が決まりまして……」

「ええーっ!? まじかぁ、ナギちゃんいなくなられるのは寂しいなぁ」

 椅子ごと体を乗り出してきて、露骨に残念がってくれた。

 それが仮に上面なものだとしても、なんとなく救われたような気がして、さっきあった上司とのやりとりをついそのまま打ち明けてしまう。

「私ってそんなに頑張ってないんでしょうかね」

「いやいや、絶対そんなことないって! 上司あいつっていつも人の悪口ばっか言ってんじゃん。ほんとひどいよね」

 ――けど、事実だからなあ。というネガティブ発言はすんでのところで飲み飲んだ。

「どうでしょうね」

 自嘲の笑みを、会話の笑みに変換してとぼけてみせる。

「ナギちゃんめっちゃ頑張ってて、俺いつも偉いなーって思ってたよ。めんどくさい仕事押しつけられても文句言わないで、黙々とやってくれてるし」

「そう、ですかね」

「いやほんとだって。俺が言っても信じてもらえないかもだけどさ!」

 なんて、田村さんはしばらくの間、仕事そっちのけで私を褒め続けてくれた。

「あー、そうだ、それならさ」

「はい?」

 田村さんのおかげでなんとなく気分も上向きになりつつあった頃、一度姿勢を改めて彼は言う。

「お別れ会じゃないけど、一緒にご飯いかない? 一度ナギちゃんと行きたいと思ってたんだよねー。いつがいい? 俺は今日でもいいけど」

 不意に風間先輩のことを思い出してしまい、胸が痛んだ。

「え、ええ……、そうですね。じゃあ、そのうち」

 田村さんの不意打ちに怯みつつも、尻すぼみになりながらなんとか断った。……つもりだった。

「お、やった! じゃあ定時で上がって行こ。店予約しとくからさ」

「……えっ? あ、はい。 ……え?」

 面食らってつい答えてしまった。ハッとした時にはもう遅い。

「あのっ――」

「じゃ、俺タバコ行ってくるから」

 席を立った田村さんの背中を目で追う。

 私は背中を丸めて、汚れてくすんだキーボードを見つめた。

 長い私の横髪が落ちる。

 急に胃がキリキリと痛み出した。でももしかしたら、今気が進まないだけでいい気分転換にもなるのかもしれない。

 自分に嘘くさい言い訳をしてみるけど、どうにもしっくりこない。

 いや、嘘くさいというより、嘘でしかなかった。

 職場にいるのに、なんだかまた泣けてきてしまった。


―――――――――


『地味女ゲットーwww 落ち込んでるのミエミエ』

 喫煙室で電子タバコをくゆらせながら、田村は知り合いの男友達で集まるグループチャットに、冬島とのやりとりを流した。

 口元には薄い笑みを貼り付け、換気扇に向かって煙を吐く。

 チャットの吹き出しに、すぐに既読がついた。

『お、やるじゃん。何人目よこれで』

『いちいち突っ込んだ女の数なんか覚えてるワケねーだろ』

『それな』

『今度はどんな子よ。隙ありそうならこっちにも回してよ』

『まぁ焦んなって。順番にな。ジュ、ン、バ、ン。こういうのは慎重さが大事なのよ、わかる?』

 吸い殻を灰皿に投げ入れて、ミニテーブルに置いていた缶コーヒーを開けた。

『あーでも、もしかしたら今日一発目でイけちゃうかもなぁ』

『さっすが下半身で生きてる漢は違うわ』

『任して』

 二口で缶コーヒーを半分ほど飲み、それをミニテーブルに置いて田村は喫煙室を出た。

『さて、じゃホテルに近い飲み屋探すわ』

『ホウレンソウよろしく。社会人の基本だから』

『おkw 忘れなきゃ連絡するわ。お楽しみ中なら明日になるかもしれんけど』

『頑張れー、色男www ゴム忘れんなよー』

『ゴムは甘え』

 気を抜けば緩みそうな頬を引き締め、田村は自席に戻った。


―――――――――


 終業後、田村と冬島は揃って職場を出た。

 田村が何事かを話しかけ、冬島が一言二言返しては、田村は大げさににリアクションを取り、それに冬島は小さく笑った。

「ナギちゃんてお酒飲めるんだっけ」

「うーん、あんまり。好きには好きなんですけど弱くて……。ごめんなさい」

 習慣で謝ると、田村は大丈夫大丈夫と快活に笑った。

「おすすめの店がね、おいしいお酒出してくれるとこだったからさ、しくったかなーって心配になったんよ」

 無理しなくていいけどね、と冬島の肩を叩く。

 ぞくり、と走った悪寒をなんとか我慢する。

「田村さんはお酒強そうですよね」

「あっ、わかるー? なんなら高校生くらいから、親に隠れて飲んでたくらい酒好きなんだよね」

 そこからしばし、田村のやんちゃ自慢が続いたので、怒らせてはいけないと内心ビクビクしながら相づちをうち、必死で彼を褒めた。

 田村は調子に乗った素振りを見せつつも、冬島の歩幅に合わせ、歩道のない狭い路側帯の車道側はしっかり自分がキープしている。

「はい、お疲れさまでした。到着でーす」

 そう言ってドアを開けた店は、意外にも騒がしいチェーン店だった。

 田村が店員に予約の旨を伝え、ついて行くと掘りごたつ式の個室に案内された。

「お飲み物先にお伺いします」

 店員に促され、田村はビールを、冬島は嫌いなコーラを頼んだ。

「へー、ナギちゃんコーラなんだ。女の子って炭酸嫌いな子多いと思ってたけど」

「……ええと、どうなんですかね」

 自分に対しての女の子っていう表現がなんだかくすぐったい。

「じゃあ、ほかは適当に頼んじゃっていい?」

「あ、はい。私のことはどうぞお気になさらず」

「なんか嫌いなものある?」

「ええと、お刺身とかみたいな、生魚とかダメです」

「おっけーおっけー。から揚げとかは平気?」

「はい」首肯する。むしろ好物だ。

「じゃあそれとぉ……」

 店員が飲み物を持ってきたのに合わせて、田村は、から揚げのほかに定番の品をいくつか頼む。

「じゃあ乾杯しよっか」

 お疲れさまでーす、という慣れない乾杯をしてお互いに一口目を飲んだ。

 ――やっぱり、炭酸が舌の上で弾ける感じも、この人工的な甘さも嫌いだ……。風間先輩はなんでこんなものが好きだったのかな。

 心の中で独りごちて、冬島は二口目を飲み込んだ。

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