いつかの、偽りの夜

ハル

第1話 二度目のサヨナラ

「もう俺は、お前の彼氏でも、先輩でもないから」

 その薄く笑みを貼り付けた口から放たれた高校時代の彼氏である風間の一言に、冬島の顔から血の気が引いた。

 明確に、偶然の再会によってもたらされた幻想の終わりを知覚した。

 お互いの歩む時間が再び交わることなんてあるはずもない。

 高校時代に付き合っていて、そしてフラれた風間と数年ぶりに会えたことは、「それから先」何年かの中で一番嬉しかったことは疑う余地もない。

 しかし同時に、あの咲きそびれた桜の木の下で一方的に押し付けられた寂しさと痛み、またそのあとの執着と行き場のない後悔。

 それら全てが一度にぐちゃぐちゃに、濁流のように流れ込んできてしまって刺激過多になってしまったからか。

 ただでさえ酒が弱い冬島は、半ばヤケクソ気味にいつもの倍のペースでグラスを空けていた。

 いつものように立ち上がることすら危ういほど酔いで意識は痺れているのに、風間の感情を殺した言葉の刃は深く胸に突き刺さり、そこから遅効毒のようにじりじりと冬島の僅かに残る理性に染みこんでくる。

 あまりにも自然に、あまりにも突然に、一つもためらいも見せないままに、風間はこの時間の終わりを告げてきた。

「うん、知ってた。初めから」

 冬島も同意する。

 ……そう、初めからわかっていたことだ。今日のこの時間は、どこにも繋がっていないことを。

 別れた日に全部終わっていたんだ。でも、みっともないけど未練がないと言えば嘘になる。

 風間は多分、初めから自分のことなんて都合のいい女くらいにしか見てなかったし、冬島自身も風間の内心はともかく、憧れていた人に求められているというだけで間違いなく満たされていた。

 ――なのに。

 目の前にいるかつての恋人は、あの頃と変わらない距離でまた冬島を置き去りにしようとしている。

 ――最後くらい、抱いてくれてもいいのにな。

 角が欠けた木の小物入れに捨てられずしまい込んでいるペアネックレスを思い出しながら、普段の引っ込み思案の彼女からは絶対に思わないことを、冬島は内心で呟いた。

 それだけでまた、生きている価値を見出せそうだというのに。


 冬島の葛藤などは知る由もない風間は、冬島の「知っていた」という短い頷きに驚かされた。

 風間が高校を卒業した日、冬島との別離を選んだあの日。

 錯乱する彼女をただ眺めることしかできなかった自分に、今もあの頃と変わらない自分に少なからず嫌悪を覚えながら、顔を上げる強さを見せたかつての恋人の姿を嬉しく思う。

 ――あぁ……。もう、俺がいなくても大丈夫なんだな。

 上目遣いにちらと視線を上げると、風間の目には冬島が穏やかな笑顔を湛えているように映った。

 それは本当のところ、風間自身が「そうあってほしい」という心のフィルタを介したからであって、ただ愚直にそう信じ込もうとしていた。

 そうでなければ、一夜のうちに取り返しのつかない誤りを犯してしまいそうで。

 心の意味でも、……体の意味でも。

 もともとのポーカーフェイスが役に立って平静を装う裏側で、風間の内心は揺れている。

 古傷が開くようにいつかの懊悩をぶり返してしまい、容赦ない追い打ちをかけてくる。

 座敷の向かいで、肘をついてカルーアミルクに口をつける冬島が、ずっと過去の二人のことを口にしている。

 風間は分かっていた。お互いに、本当は乗り越えられてなんかいないこと。

 亡霊のように行き場のなく漂う思いが、今までもこれからも苦しめるだけだということに。

 それでも、風間が決断を変えることはない。

 一時的な苦しみから逃れるだけの二人にこれからなんかないし、遠くないうちに壊れていってしまうことも、他でもない風間自身が冬島を苦しめてしまうことも、分かっていた。

 なにより、あの時どうしようもなく好きだった彼女が、いつかは違う誰かと結ばれてしまうことを願ってやまない。

 どうしたって、優しくはなれないんだ。

 冬島が風間に持ったままの誤解も、風間が冬島だけに向ける特別な愛情も、もう届くことはない。

 届けるのは、お互いを殺す一つの別れだけだ。


 風間は高校時代の演劇部の部長であり、冬島にとっては憧れの先輩だった。

 年は一つ違い。当時は冬島が名ばかりの副部長を務めていた。

 別名、演劇部のパシリと陰で言われていたことを彼女は知っている。

 そんな自分に風間だけは、よく面倒ごとを押し付けられていた冬島を手伝ってくれた。

 また、それをきっかけに口下手な冬島は言葉を交わせるようになり、好意を強めていった。憧れの風間と放せる時間は宝物でしかなくて、嫌だった面倒ごとさえも楽しみになった。

 ――風間にもっと近づきたい。

 ただその一心で、初めてのお化粧をし、読みもしないファッション雑誌を買い、笑顔の練習もして、彼を想う一人の夜も迎えた。

 連絡先も文化祭の準備をきっかけに交換し、ますます冬島は風間のことが好きになっていった。

 そしていつからか、自分の行動基準が風間の好みに合うかばかりになっていた。

 俗に言う、依存というやつだ。

 それは風間の望むところではなく、むしろ窮屈で窮屈でしかたなかった。

 このままでは風間自身が塗りつぶされるような得体の知れない気味悪さに。

 本音の言葉を交わすより早く、その場から姿を消して逃げ出すことを選んだ。


 酒に酔う冬島は、気づいている。

 自分が尽くせば尽くすほど、風間との距離が開いていたことを。

 けれど、当時は何一つとして分からなかったことも。

 ……初めは些細な兆候だった。

 なんとなく一緒に出掛けようと誘っても、断られるようになった。

 それから少しずつ会話の頻度も減っていき、風間の卒業式前に至っては、ほとんど口もきいてもらえなくなっていた。

 冬島はそれを「自分の愛情表現が足りていない」からだと、もっともっと尽くさねばならないと思った。……思ってしまった。

 それは致命的な誤りであることは言うまでもない。

 ――なぜ、これだけ風間のことを思っているのに、風間のためならどんなことでも乗り越えて生きていけるのに、別れるなんて言うのか。

 最後の瞬間を迎える数分前、冬島は問うた。

 ――そういうとこだよ。

 風間は短く答え、今と同じように薄っぺらい笑みを口元に貼り付けていた。

 実質冬島の依存こそが風間に別れを決心させたことなのだと知った日、風間がその場を去った後には、周囲の目も憚らず一人で笑い転げたものだった。

 そして、過去十七年生きてきたの中で、一番泣いた年だったのは忘れない。

 

 ――自殺しよう。もう生きてはいけない。


 風間に見放されてからしばらく経った、暖かい春の日。

 今まで心の支えにしてきた風間がいない時間には一向に慣れる様子もなく、新学期がスタートしても冬島はずっと一人だった。

 一人でずっと、考えていた。

 それから、自問自答の結論を得た。……再び風間の元に戻ることは出来ないこと。誰からも求められない、いや、風間に求められない今の自分には生きている価値がないこと。

 やっぱり死ぬにしても苦しかったり、痛いのは嫌だ。いや自分に至っては、それくらいがちょうどいいのかもしれないけど、それでもやっぱり……。

 ――手頃なのは、オーバードーズあたりかな。

 家中の風邪薬や、胃薬などを全部集めて。

 最後に、風間と別れてから作ったSNSの捨てアカウントでログインし、風間のアカウントを覗き見ることにする。自分のアカウントでは、風間からブロックされてしまい、見れなくなってしまっていたからだ。

 今日も実は何度か見ているが、ほんの少しの更新でも見たい。

 最後に、一度だけ。ほんの少しだけ……。

 大学生になった風間が、どんな生活をして、どれだけ笑顔が溢れる時間を過ごしているか。

 ただそれが知れれば良かったのに――。


『さっき高校生の頃付き合っていた彼女のことを思い出した。

 どうしてかよくわかんなかったけど、今どうしてんのかな、って急に気になった。変なの(5分前)』


『今思うと、完璧に言い訳だけど、あの子俺ばっかり大切にしてる感じで、それが辛くて別れたんだよな……。もっといろいろ言えたはずなのに、全部見ない振りした俺は死んだらいいのかも知れない(3分前)』


『俺が言えた義理じゃないの分かってるけど、ちゃんと自分のことを考えて生きて欲しいなって今も思ってる。

 伝えられなかったのは後悔。ただ俺から解放された彼女が、幸せな今を過ごしてることを願ってる(30秒前)』


 見なきゃ良かった。

 今まさに自殺しようとしていました、なんて言えない。

 そっか、死んじゃいけなかったんだね。風間くんが、そう願うなら生きなきゃ……。

 冬島は目の前にある薬の山を片付け、一言だけ返信をしようとタイムラインを更新した。

 あれっ!? 消えてる……。

 何度更新しても変わらない。動揺して、更新し続けてしまう。


『変なこと言った。でもさっきの話、嘘と思ってない。

 これだけ見た人はスルーしてください』


 往生際悪く繰り返した結果、それだけがぺろっと表示される。返信ボタンを押して、


『初めまして。彼女さん、きっと大切にされてたんだって、いつか分かってくれるといいですね。私も似たようなことがあったので、つい返信してしまいました。突然ごめんなさい』


 送信。

 それから、捨てアカウントを文字通り捨てた。


「そろそろ帰ろうか」

 そう言って風間は店員に手を挙げて合図する。

「お前は払わなくていいから」

 笑って、万札を二枚トレイに載せて、ややあってお釣りを受け取る。

 無言のまま席を立ち、少し前までひどく酔っていたのが嘘のようにクリアになった冬島の意識が、この時間を終わらせたくないと悲鳴を上げている。

 それを握りつぶして、風間の半歩後ろをついて歩く。

 駅まではほんの徒歩五分の距離しかない。

 人気のない、駅前の商店街にはどこかのスナックからご機嫌なカラオケが聞こえてくる。何か話しても、きっとお互いの声が届くことはないだろう。

 一歩、また一歩と、小さな歩幅で進めていく。

 小さな駅のロータリーではタクシーが暇を持て余していて。

 改札へ続く短い階段の頭上には、もぬけの殻となったツバメの巣が残されていた。

 改札を抜ける。

 風間が立ち止まったのに釣られて、冬島も立ち止まった。

「じゃ、ここでお別れだね」

 冬島は地面から視線を引き剥がして、風間の目を見た。心なしか、赤みを帯びている気がする。

「うん。今日、久しぶりに会え……て……」

 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……。このまま終わらせるなんて……。

 堪えていたものが堰を切ってあふれ出し、言葉にならなず嗚咽を漏らす。

 涙を腕で拭い、大きく息を吸い込んで。

「――風間くん」

「……ん」

 続きを言おうとして失敗した。

 またつい地面を見てしまった意気地なしを心の中で罵倒する。

「ずっと、……ずっとね、」

「うん」

 視線を上げて、声を絞り出す。

「私は、あなたのことが好きでした」

「そっか」

 イエスでもノーでもない。

 冬島はそんな風間の返答が彼らしいと嬉しくなり。

 風間はまた向き合えない自分に嫌気が差した。

 ――だから、もう大丈夫。

 心はこんなにも痛いのに、どうしてかストンと腑に落ちた冬島は、泣きながら精一杯の笑顔を作る。


「――バイバイ」

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