29 日本側で
異世界側の渦の前に、塩見はいた。車を停め、そこで働く人たちに声を掛けて回っている。その様子を、京子は車の傍で見つめていた。用事を済ませてくるからお前はここで待っていろと言われたのだ。
「塩見さん、人望あるんだなー」
塩見が行けば、まるで旧友にでも会ったかのように明るく迎える異世界人たち。身振り手振りをしながあら、異世界語で何やら盛り上がっている。塩見も塩見で、やり手営業マンのようにその話に花を咲かせている。そんな会話スキルがあったなら、少しでも自分に使ってくれたらよかったのに、と、京子は少し面白くなかった。気にすれば気にするほど腹がたってくるので、特に意味もなく周辺を観察したりもした。
夢の国の跡をうまく活用したこの場所は、舞浜国際渦港に似た機能を設けているようだった。
渦の前には常に何人かが張り付いている。先ほどのエルフの男性や、ドワーフ、そしてライオンのような毛並みを持つ逞しい男もいる。彼らが門番なのだとすれば、あれに立ち向かっていくのは相当な勇気がいるだろう。
少し離れた場所には半倒壊した小屋があるが、中では日本語の講習が行われている。教鞭をとっているのは現代日本のファッションに身を包んだエルフの女であり、対して机に座っているのは原始的な身なりの異世界人たちである。暖かい気候だからなのか、基本的にその露出度は高く、日本で言うならビーチファッションに近いだろう。特に猫人族の女性のそれは少し問題があるのではないかと言いたくなるほど露出が多く、隠さなければならない所だけを隠しているだけといった感じだ。なるほど確かに、こんな感性で日本の街を歩かれたらたまったもんじゃない。日本中の男達が狼になってしまうだろう。
そしてその横には、日本製の会議テーブルが立ち並んでいる一角がある。京子が興味を惹かれて近づいてみれば、日本の事務室の光景がそこにはあった。筆記用具から印鑑、そしてノートパソコンにプリンターまである。驚くことに、それらを操作しているのは異世界人だった。電力の確保はどうしているのかと不思議に思いコードを辿ってみれば、小屋の裏からガソリン式発電機に繋がっていた。なるほど、と京子は唸った。どうやらこの場所で、日本への入国に必要な書類の原本を作成しているらしい。
京子が日本で手続きする上で最も疑問だったのが、この仮書類たちを誰が作っていたのかという事だった。異世界側の情報はあまり明かされていないから、その文化レベルを想像することは難しい。拙いとは言え、こうして紙と印刷媒体が出てくるのだから、文化レベルはきっと大差ないのだろうと考えていた。テレビがあると思っていたのも、そういう事情がある。
実際は、ローテクだ。豊かな自然の中で、自然の一部として生きている。そういう意味で、やはりこの場所だけが異質なのだ。
「越中島、ここにいたのか」
気が付けば背後に塩見がいた。ただ話しかけられただけなのに、必要以上に心臓がはねる。
「俺の用事は済んだ。日本に戻るぞ」
「あ、はい」
その背中に、京子はついていく。車に向かう途中、そこら中の人が自分たちを見ていた。試しに手を振ってみると、不思議そうな顔が向けられる。ちゃんと手が振り返ってきたのは、日本風のファッションをしている異世界人だけだった。
「読みが外れたか」
車に乗り込むなり、塩見が言った。顎を手で触れ、うーんと唸っている。
「何がですか」
「チラシだ」
京子は思わず、「ああ、あれか」と返事してしまった。眉を細めた塩見の視線に、京子は目を逸らした。
「ここにもあると思ったんだがな。壁にも貼っていないし、見たことがある奴もいなさそうだ。ここでは配られていないのか」
塩見は見つからない答えに頭を掻きむしり、八つ当たりのようにエンジンをかけた。
「そもそも」京子はシートベルトを締めながら答えた。
「ミルさんは、街で見かけたって言っていたんですよね。エルフの。そこに行かなければわからないんじゃないですか」
帰る前に行ってみますか、と尋ねる京子。
「まぁ、そうではあるんだが」
眉間を指で抑え込んだ塩見は、唸るようにして言った。
「余計なことはするなよ」
それは検見川のセリフだった。さすが長年の付き合い、抑揚声質までそっくりである。二人は顔を見合わせて少し笑った。
「白髪の理由にされちゃあ、たまりませんものね」
「まったくだ」
塩見は肩を竦めてため息をついたあと、ハンドブレーキに手を伸ばした。
「それと、こうも言われたんだった」
車はゆっくりと渦に吸い込まれていく。眼前に強烈な光が押し寄せ、視界がぼやけていく中、塩見が言った。
「お前は探偵じゃない、ってな」
京子の笑顔が、光に溶けていった。
日本側に到着して窓を開ければ、一番に押し寄せたのが潮の香だ。内陸側だった向こう側との明白な違いを肌で感じ、実感する。日本に戻ってきたのだと。
長い鋼鉄のスロープをゆっくり上っていく。右手側に広がる海は、傾いだ日差しによって朱色に染められている。煌めく波と、風。たった数時間離れていただけなのに、当たり前のこの風景が愛おしかった。海に行きたい。京子はふいに、そんなことを想った。その時、隣にはいるのが塩見だったら、きっと楽しいだろうな。つい先日までは知らなかったこのおかしな感情が、今は心地好い。
そんな穏やかな気分は、一瞬にして打ち砕かれた。
「おい、あれ」
鋼鉄の扉を目前にして、塩見がその先を指さした。車が上昇するにつれ明らかになっていく、その人の群れ。よく見ればカメラや音声マイクを持った人たちが、塩見達の存在に気づきざわついている。取材陣だ。
「いったい何が」
スロープを登り切った所で、車は一瞬にして取材陣に取り囲まれた。車を動かすことが敵わないほどの群れに、京子は慌てて窓を閉めようとしたが、それよりも先に大きなハンドマイクと腕が押し込まれた。
「塩見主任! 今後の事件についてお話をお聞かせください!」
事件?
二人は顔を見合わせた。その意味を二人が理解するよりも早く、リポーターの女性が叫ぶようにして言った。
「異世界人の女性が被害にあったという事ですが、間違いありませんか。被疑者の男性もケガを負ったのは、魔法を行使したからではないかと噂になっていますよ!」
塩見は目を見開いた。
それは間違いなく、ルレアの事件だった。
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