28 想い
高層マンションが立ち並ぶ一角に、高級車が滑り込んでくる。エントランスに停車した車内から、ハットをかぶった紳士がひとり、降り立った。紳士が何かを運転手に告げると、車は静かに走り去った。
目の前には、見上げるのも一苦労なマンションがある。紳士は帽子を目深にかぶり、杖を片手にその中へ歩いていく。
扉には厳重なセキュリティが施されている。紳士がナンバーロックに入力すると、その扉は静かに開いた。紳士は辺りを確認してから奥へと入り、エレベーターで最上階へと上がっていった。紳士は迷いなくその部屋に向かっていた。チャイムを押すとしばらくしてドアが開き、一人の女性が顔を出した。
「習志野社長」
女は少々の驚きとともに、嬉しそうに破顔した。その喜びが、頭上の猫耳に表れている。
「入っても?」
習志野の言葉に、女はすぐに招き入れた。習志野が帽子を取ると、女は手慣れた様子でそれを受け取った。
「済まないね、急に」
習志野が靴を脱ぎ終わると、女の手が差し出されている。習志野はそれを取り、膝をかばうようにして立ち上がると、部屋の奥へと歩いていく。
「いいんですよ。社長はお忙しいんですから」
女は習志野の靴と杖を整え、玄関に鍵をかけた。
扉を開けると、空調が整った静かなリビングがあった。柔らかな日差しが、一面に広がる窓から差し込んでいる。手触りがよさそうな絨毯に、シンプルなソファ。その足元にタオルケットが広げられ、そこに赤子が眠っている。
「ちょうど眠ったところなんです」
心地よさそうに眠る赤子を見て、習志野は穏やかに顔の皺を増やした。起こさないように、ずれたタオルケットをそっと直す。夢でも見ているのだろうか、口元を動かし、にこやかに笑っている。
「大きくなったな」
子供の成長は速い。ひと月もすれば、様子が変わってしまう。習志野は新ためてそれを実感した。その愛おしさに、幸福感がこみ上げてくる。
「今、いくつだったか」
「一昨日、一歳二か月に」
そばのローテーブルにグラスを置きながら、女は答えた。習志野の横に正座し、その猫のような尻尾を器用に使って、娘の顔を撫でている。くすぐったさに悶える姿がまた愛おしい。
「これこれ、起こしたら可哀そうだ」
「大丈夫ですよ。一度眠ったら、なかなか起きませんから。ね、ミライ」
女の言う通り、眠気には勝てないらしく、ミライは寝返りをうってまた眠った。習志野に背を向けるようにして寝息を立てるミライ。その頭には、大きくはっきりと猫耳がああり、そして臀部には、母親譲りの立派な尻尾が生えている。
「保育園は、まだ決まらないのかね」
その頭を撫でながら、習志野は言う。横に座る女は肩を落として、言った。
「ええ。無認可もあたってはいるのですけれど」その尻尾が、力なく垂れた。
「理由は問い合わせているのかね」
「それが」女は一度言い淀んだが、首を振って続けた。「はっきりとは言わないんですが、きっと」
女はそう言って娘の尻尾に触れた。
「この子は他の子と何も変わらない」
習志野はその子の頬に触れながら言った。
「清く美しく、そして愛おしい。穢れのない、魂よ。その幸せになる権利は、誰も奪うことはできない。だというのに、人の世は、なんと愚かな事よ」
異世界混血児の入園拒否問題。決して明るみには出ない、日本国内で行われている人種差別事案だった。異世界人を早くから受け入れ成功してきた習志野には、理解しがたく、そして非難すべき問題だった。
「孝弘は何と?」習志野はグラスに手を伸ばして言った。
「焦らなくていい、と」
女は続けた。「お金に困っている訳じゃないから、無理はしなくていいんだ、って。世間には、子供と一緒にいたくても働かなくてはならない親もいる。そう考えれば、幸せだろう、と」
習志野はため息をついた。
「あやつ、いっちょ前に」
習志野が苦笑すると、女も笑った。
「だが、一理ある」
習志野は女を見て言った。「どうせなら、この時間を大切にするといい。店のことは心配はいらない」
習志野が「君がいないのは寂しいがね」、と言うと、女は深く頭を下げた。
「さて、それでは」
習志野が立ち上がろうとすると、女は素早く肩を貸した。
「もう行かれるのですか」
「この後、少し予定があってね」と習志野。
「お店のことなら、孝弘くんに任せてしまえばいいのに」
女は玄関まで先んじながらも、寂しそうだ。
「そういう訳にもいかん」
習志野は帽子を受け取りながら言った。「あやつはあやつなりに頑張っている。今は店の経営に集中させてやりたい」
親ばかが過ぎるかね、と習志野が聞くと、女は何も言わずに首を横に振った。
「そうだった」
習志野は靴を履き終えると、何かを思い出したように振り返り、胸元から封筒を取り出した。少し厚みのあるそれを、そっと女に差し出す。
「いつもすみません。社長」
「その、社長、というのは、どうにかならんか」
封筒を受け取る女に、寂しそうな習志野の目向けられる。
「我々は家族になったのだ。私は社長としてではなく、祖父として、孫に会いに来ているのだから」
その言葉に、女は優しく笑った。
「わかりました。お義父さん。いつもありがとうございます」
その笑顔につられて、習志野も眩しそうに笑った。
「また来るよ」
玄関を静かに締め、習志野は歩き出した。エントランスに降りれば、図ったかのように先ほどの車が滑り込んでくる。車に乗り込んた時には、習志野の顔は祖父のそれではなく、経営者のそれとなっていた。
「出してくれ」
習志野は窓の外の景色を眺めた。立ち並ぶマンションたち。日中の人の気のないこの場所で、工事現場の活気だけが浮かび上がっている。そこで働くドワーフ達を見つめながら、習志野はつぶやいた。
「待っていてくれ、ミライ。この手で、私が」
高級車はゲートを抜け、首都高速へと消えていった。
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