27 樹木化
ゆっくりと歩く塩見に、京子は黙って付いて行く。その背中を見ながら、杏子は考えていた。彼はどんな気持ちで仕事をしてきたのだろう。向き合ってきたのだろう。それを考えるだけで、胸が張り裂けそうになる。
塩見葉介は、被害者だった。突然現れた渦によって、その人生を変えられてしまった。最愛の人を失い、未来への希望も失くしてしまった。その元凶と関わり続けなければならなくなった。そんな悲劇があるだろうか。
彼の行動原理には、悲壮の激情と、正義の良心が混ざり合っている。その危険なバランスの上で、彼という人格が構成されている。私はいままでいったい、彼の何を見ていたのだろうか。
その壮絶さに、言葉が出てこない。本当は何かを言ってあげたい。だが、己からでてくるどんな言葉も、不適切だろうと思った。何もできない自分を、ただただ受け入れるしかなかった。
「この水のことだけどな」
塩見はふいに足を止め、片手を湖面に漂わせて言った。「この森で生成される水は、他の水に比べてエーテルの拡散率が高いんだ」
「エーテル拡散率」初めて聞く言葉だった。
「そうだ」
塩見は再び歩き出して言った。「人が大量のエーテルを受け取ると、樹木化が始まる。エーテルの代価として、人の尊厳を失うからだ。反対に、余剰なエーテルを発散消費できれば、人の姿を取り戻すことができるとも言える」
そこでこの水だ、と塩見は付け加えた。
「拡散率が高い水に触れさせ続けることで、エーテルを効率的に抜いていく。その速度が樹木化よりも早ければ、いずれは人間に戻れる。それがエーテル被害者に対しての、唯一の治療法だ」
気が付けば、男の体を置いたところまで来ていた。塩見は屈みこみ、男の体を注視してから、京子を呼びつけた。
「ここを見てみろ」
京子は塩見の背中越しに、指示された箇所を見た。
「肌が再生している。少しだけだがな」
先ほどまで完全に樹木化していた男の足首。しかし池に漬かっている一部が、確かに肌色を帯びている。人間の肌でもあり、樹木の皮でもある。そんな不思議な質感のものが、せせらぎに揺れている。
「本当だ」
「これなら見込みがある」
塩見は立ち上がってポケットに手を突っ込んだ。その表情には安堵が見て取れた。
「このまま行けばいつかは元通りになるだろう。時間はかかるだろうがな。これでルレアは人殺しにならずに済んだ」
その表情はとても優しかった。塩見のそんな表情は、見たことがない。
「良かった。本当に、良かった」
京子の声は震えていた。塩見はその肩へ、そっと手を回す。
「発見が早かったのが救いだった。あのまま数日発見されなければ、手遅れだっただろう。完全に樹木化してしまえば、もう人に戻ることはできなくなる」
杏子のように、と塩見は小さく呟いた。京子の胸が、軋んだ。
「塩見さん」
その名前を呼んだ時、京子の瞳から涙が溢れた。
「あれ、私」
それが頬を伝うまで、京子は自身が泣いているのだという事に、気が付かなかった。目元を擦る京子の姿に、塩見も慌てている。
「どうしてお前が泣く」
塩見はポケットに手を突っ込み、ハンカチを一通り探し、そんなものは持っていないのだと気が付いてから、俯いた京子の顔を覗き込んだ。ぬぐう手の隙間から塩見の慌てふためいている様子が見えるのが、京子にはなぜだか少しだけ嬉しい。
「すみません、突然。大丈夫です」
京子は目元を押さえながら、笑顔を作って見せた。
「なんだか、いろいろな事がありすぎて。感情のコントロールが難しいです」
京子の笑顔をみてほっとしたのか、塩見は肩を下した。
「帰ろう」
塩見は、手を差し出して言った。
「俺達の世界に」
京子は、その手を力強く握りしめた。
ジープは森林地帯を抜け、砂塵を巻き上げながら直進を続けている。車の揺れは依然激しいが、この程度なら会話しても舌を噛まずに済みそうだ。
「これからどうします」京子が聞いた。
「と言っても、課題は山積みだからな」
片腕を窓の外に放り投げてラフに運転している塩見が、目を細めて言った。
「男の回復には数週間が必要だ。ある程度まで戻れば、あとは日本でもなんとかなる。その頃合いを図るためにも、何回かはこちらに通う必要があるだろう。中身は性犯罪者かもしれないが、命に関わる問題だ。犠牲者を増やす訳にはいかん」
京子は人差し指を口元にあてて言った。
「エーテルによる樹木化って、よくあることなんですか」
京子にとって、一番納得できないのがこの点だった。京子が異世界文化に興味を持ち始めてから最近まで、異世界人に関する事件に覚えは無かった。エーテルは都市伝説、樹木化についていえば、噂ですら聞いたことがない。最悪の場合、死に至る樹木化。そんなリスクがそこらへんに転がっているのだとすれば、とんでもない事態だ。
「いや」
塩見はその想像通り、首を横に振った。「それならもっと問題になっている」
「ですよね」京子は唸った。
「そもそも」塩見は言った。「ここの連中ですらレアケースだ。日頃からエーテルに触れていれば、起こりえない話でもあるからな」
「じゃあなんで、あの男は樹木化してしまったんですか」
それを口にしたあと、京子は思わず口を覆った。塩見にとっては酷な質問に思えたのだった。
「樹木化には条件があるんだ」
しかし塩見は特に気に留める様子もなく答えた。
「エーテルの過剰放出者に、近距離で接近すること」
塩見は続けた。「我々日本人がエーテルによって樹木化するには、大量のエーテルが必要だ。エーテルをコントロールできる異世界人なら、ほとんど放っていないから、気にすることはない」
「ということは」京子が人差し指を立てて言った。「コントロールできない異世界人との接触が条件」
「そうだ」
塩見は眉間に皺を寄せて言った。「そしてその条件を満たしているのが」
「子供」
京子は塩見の話を思い出していた。杏子が樹木化した時、触れていたのは異世界人の子供だった。そしてルレアも。
「エーテルのコントロールが拙いと、感情の爆発などにより大量のエーテルが放出されることがある。今回の話で言えば、ルレアは身の危険を感じたことで、大量のエーテルを無自覚に放った。それをもろに受けた男は、ああなった」
男の姿勢を思い出す。馬乗りになっていたのだとすれば、説明が付く。
「だから塩見さんは年齢に拘っていたんですね」
塩見の入国審査の基準は、京子にとって謎の一つだった。マニュアル外の基準で入国拒否したり、かと思えば就労先を見つけてきてあげたり。その中で最も拘っていたのが、年齢だった。
「でもそれなら、入国査定を厳しくしていけば、防ぐことはできそうですね」
入国審査の基準作成は行政が行うが、塩見ら入国審査課の意向も重視される。現場の生の声を反映させると言えば聞こえは良いが、それほどまでにこの案件は未成熟であるとも言える。
「それがそうでもないんだ」
塩見の表情は暗い。杏子にはそれがわからない。
「なぜですか」京子は思わず身を乗り出した。「私たちが取り締まりを厳しくすれば、エーテルの扱いに未熟な子達は入国できなくなりますよね。耶霧さんとかの協力もあれば、なんなら能力検定とかもできそうですし。エーテルを暴走させるような人がゼロなら、エーテル被害者もゼロになるって、そういうことじゃないんですか」
その問に、塩見は即答しなかった。伝えるべきか、迷っているようにも見えた。「塩見さん」
杏子の催促に、塩見は深呼吸してから、言った。
「異世界人は、渦以外からも現れるからだ」
「それって、どういう」
その瞬間、京子の脳裏に、今までの出来事がフラッシュバックした。
「もしかして」
ニュー・アンダー・リゾート就労者の退職理由。
彼女たちがお金より大切にしていたもの。
「異世界混血児」
もし、その子達に異世界人の能力が備わっていたら。
エーテルの扱いを誰にも教わらずに成長してしまったら。
京子は自身から血の気が引いていくのを感じた。
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