24 レメニア

 それは一瞬の出来事だった。何が起こっていたのか、それを説明することは難しい。瞬きにも等しい暗闇のあと、今後は強烈な光が押し寄せた。眩しさに目を細め、次に見開いた時には、もう別の光景が広がっていたのだから。

 ジープのフロントウィンドウ越しに広がる景色は、資料でみた夢の国そのものだった。まず飛び込んで来たのは、観光施設の広大な入場エリアと、巨大な地球儀を模した噴水。視野を広げれば、地中海を意識した建物の跡などが見えてくる。そこが憩いの場として設計されたことは、見て取れる。

 だが遠景の形相はまるで異なる。見えるのは、広大な土地。平原の先には森と、そして雪化粧のアルプスがある。夢の国の敷地は外周部からほつれるようにしてその土地に同化していっている。アトラクションを模した山も高級ホテルも、意図的に作られた街並みもそこにはない。視界を遮るものがないから、どこまでも遠くが見通せてしまう。これだけの情報が、一瞬のうちに京子の目に飛び込んできた。

「すごい」

 打ちのめされる京子を置いて、塩見は車から降りた。視線で追って行けば、付近の男に声を掛けている。京子は慌ててシートベルトを外そうとして、自分の首に巻き付けてしまった。うげ、と女子力ゼロのうめき声を上げたあと、急いで飛び降りる。

 振り向けば、渦がそこにあった。日本にあったものと同じように、光が内側に向かって収束を続けている。

 しかし規模がまるで違う。日本のものは直径がキロを超えていたし、独楽こまのように地面に水平になっていた。対してここにあるものは、せいぜい直径が数十メートルで、こちら側に円の中心を見せる扇風機がごとく、ホテルの残骸のような壁面にめり込んで存在しているのである。

 全てが想像外。それは京子を強烈に不安にさせた。後ずさりするようにして、塩見の背中を追いかける。

 塩見はすでに男と会話を始めていた。異世界語だ。

「あれ」

 その男はよく見れば、エルフの男だった。白い肌に、とんがった耳。何より、美形だ。男に対し塩見はカバンから取り出したプリントを突き付け、何やら文句を言っている。男は笑顔を絶やさないが、誤魔化そうとしているのが京子にもわかる。しまいには、塩見がその胸倉に掴みかかった。

「ちょっと! 塩見さん!」

 京子はその背中にしがみつくようにして、男から塩見をひっぺはがした。

「何やってるんですか、いきなり!」

 塩見は尻餅をついている男を見下ろして、言った。

「こいつだ。こいつがルレアの入国を見逃しやがったんだ」

 エルフの男は日本語がわかるらしい。両手を振って、異世界語で必死に言い訳をしている。

「お姉ちゃんを探しに行きたいんだと言われたら、断れないですよ!」

「そこを断るのがお前らの仕事だろうが!」

 塩見は異世界語でまくし立てた。「お前がルールを守らなかったせいで、こっちはこのざまだ。危うくルレアを人殺しにしちまうところだったんだぞ。それでも情に左右された己を認めることができるのか」

 男の視線がジープの荷台に向いた。男は眉を細め、そして押し黙った。

「せめて反省はしてくれ。俺達が決めたルールは、なんのためにあった。みんなにも伝えるんだ」

 男は俯いたまま動かない。塩見の容赦ない言葉が、のしかかっているのだろう。

「いくぞ、越中島」

 塩見は返事を待たずにジープに戻っていった。京子は男に手を差し伸べたが、その手が取られることはなかった。


「遅い」

 ジープに乗り込むと、塩見が露骨に不機嫌だった。貧乏ゆすりの揺れが、車体にも伝わっている。八つ当たりだと気が付いているのだろうか。

「すみません」

 京子は一言だけ謝ってシートベルトを着けた。普段ならくってかかるところだが、ここは異世界。現世とは勝手が違う。余計なことを言って放り出されたりでもしたら、途端に困り果ててしまう。それはあまりにも心細かった。

 ジープは動き出す。建造物を縫うようにして抜け、平原に入る。舗装されていない道が続いている。突き上げる振動は鍛えられた京子の尻にも堪える。

「しかし」無言に耐えられなくなり、京子が言った。「さっきの彼、えらいイケメンでしたね」

 何をくだらんことを、塩見はそんな表情をしている。雰囲気に負けてやる気のない京子は、反対に目を輝かせてみる。

「エルフの男ってのは、だいたいあんなんだよ」

 しぶしぶ、塩見が口を開く。「エルフの女が美人に見えるように、エルフの男はだいたいイケメンに見える」

 その言葉に、京子は思わずクスクスと笑った。

「何がおかしい」

「いやあ、だって」京子は塩見を指さして言った。「日本の男性は感謝しなくちゃいけませんね」

「意味がわからんな」と塩見。

「あんなイケメンばかりが日本に押し寄せたら、日本男児の出る幕はなくなっちゃいますよ」

 塩見はまるで苦水でも飲んだかのような表情で京子を見ている。京子はそれが面白くて仕方がない。

「まぁ、俗にいうイケメンが好みってわけじゃ、ないんですけどね」

「一応言っておくが」塩見は口角を上げて言った。「相手にも選ぶ権利があるんだぞ」

「言いますね」京子は風船のように膨れた。

「塩見さんは、女性に対する気遣いというものを少しは持ち合わせてほしいですね」

 京子のいじけた様子に、塩見はふっと小さく笑った。

「そんなもの、とうの昔に忘れた」

 どういう意味だろう。考えさせられた京子は二の次が出てこない。なんとなく触れてはいけない部分な気がした。

 窓の外に延々と広がる大自然。空気は生っぽくて、濃い。むせ返る程の緑の香りと、土埃の匂い。日本のように山間やまあい隆々りゅうりゅうという感じとは違って、ただただ広く、そして何もなかった。わだちすらないこの大地を、とりあえず森と平原の境目を進んでいるというのだけは分かった。

「ところで、どこに向かっているんです?」

 少しの間のあと、塩見は説明した。

「ここから少し行くと、森が濃くなってくる。川で行き止まりになるから、その川沿いに少し。車で進めなくなった所あたりが目的地だ」

「結構遠そうですが」

「いや、意外とすぐさ」

 眉間に皺を寄せた塩見が、確認するように言った。

「いけば、わかるさ」

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