25 世界の在り方

 塩見の言葉通り、ほどなくして川へとぶつかった。この辺りに来ると緑も深みを増している。塩見は草木の隙間を縫うように、川沿いを上流に向かい始めた。巨大な木の根を乗り越えるたびに、アトラクションも驚きな揺れが京子を襲った。すぐに気持ち悪くなり、窓を開ける。

「吐いていいぞ」

「吐きません」

 数分行っただろうか。

「着いたぞ」

 車でこれ以上進むのは困難だという所まで来て、塩見が車を停めて言った。目前には巨木が立ち並び、それに巻き付いたツタ植物が繁殖している。

「歩けるか」

 いつのまにか下車して助手席側まで回った塩見が、ドアを開けて手を差し伸べている。京子は素直にその手を取って飛び降りる。着地際に足元がぬるっと滑り、危うく転倒しそうになったところを塩見に助けられた。

「大丈夫か」

「すみません」

 油断した。意外にも安定感がある逞しいその腕に、男を感じる。気恥ずかしさに沸騰しそうになり、その手を振り払ってしまった。その後悔と同時に、すぐに気持ち悪さがせり上がってきた。

「少し休んでいくか」

 背中をさする塩見の手が、嫌じゃない。京子の頭に、「つり橋効果」がよぎった。

「いえ、行きましょう」

 しかし今は、そんな非現実に酔いしれている場合じゃない。あの車の荷台に、樹木化した男が乗っている。その男を救える者がいるのだとすれば、それは自分たちにおいて他はない。その現実は、京子の責任感を一層強くしていた。

「わかった」

 二人は荷台に回る。鋼鉄のハッチを開け、再び棺桶のような木箱と対面する。中身を想像して息を飲む京子を傍らに、塩見はそれを開封していく。蓋と詰め物が取り除かれると、やはりそこには樹木化した男の体が、日本にあったときと何も変わらない姿で収まっていた。人が樹木化する。その現実が、再び京子の前に立ち塞がる。

「慎重にな」

 塩見は荷台にあがり、頭の側を箱から持ち上げた。京子は足の側を取り、滑らせるようにして箱から取り出す。一部が枯木のようになっているとは言え、元は人間の体。二人で持ち上げるにしても、かなり重たい。

「距離はたいしたことない。だが落とすのは最悪だ。きつくなったらすぐ言えよ」

「はい」

 二人はミーティングテーブルを運ぶようにして男の体を持ち、息を合わせながら森を進んで行った。緑は深く、差し込む日差しも少なくなってきている。見たことも無い動植物がそばでうごめいているが、気に留める余裕は京子にはなかった。京子は全神経を足元と腕、そして塩見の呼吸に集中させた。

 百メートルくらい行っただろうか。

「あそこだ」

 塩見が首だけで進行方向を差した。京子は首を動かすだけの筋肉的余裕はあまりなく、目線だけを泳がせてみる。視界の端に、池らしき水のたまり場が見える。

「いけるな」という塩見の言葉に、目線だけで頷いた。

「よし」

 数メートル進んで、塩見が言った。「ここに置くぞ。ゆっくりな」

 足元を見れば視界に池が入ってきそうなほどのほとり。その半分が池に沈んでしまっている木の根元に、男の体を下した。塩見は男の体を巨木にもたれかからせるようにしてたてかけた。男の足首が、池に浸っていた。

「これでいい」

 塩見は額の汗を拭って言った。

「あとは、神頼みしかない」

 京子はあたりを見回した。森林の中に、池がある。幾重にも重なった葉を透かして届いた光は、池を深い緑に染めている。近くで見ればその透明度は恐るべきほど高い。池はその半分を森に、そして半分を岩壁に面しており、岸壁の上層は見上げられぬほどに高い。よく見れば、岩盤を伝うように水が滴っており、それが幻想的な輝きを放っていた。

「塩見さん」

 京子は視線で説明を求めた。塩見はわかっていると言った表情で頷き、言った。

「その前に、会わせたい奴がいるんだ」

 塩見は親指を立て、背面を差した。「会ってくれるか」

 京子に断る理由は無かった。京子が頷くと、塩見は「こっちだ」と言って、池のほとりを歩き始めた。京子は数歩下がって、それに着いていく。

「エーテル、というものがある」

 塩見は独り言のように言った。

「この世界にはごくありふれた性質のものでな。それは何か、と言われると言葉に表すのが難しいのだが、自然そのもの、と言うのが一番正しいか」

 塩見は続ける。「俺達の世界に電気が当たり前のように存在しているように、この世界にはエーテルが当たり前のように存在している。そしてそれは、自然のサイクルの中に組み込まれている」

 京子は黙って聞いた。数か月前なら、エーテルの話など鼻で笑い飛ばしていただろう。だが今なら、それが全て真実だと受け止められる。それだけのものを、その目にしてきたのだから。

「この世界の生物は、多かれ少なかれ、エーテルの恩恵を受けている。なぜか、と聞かれたら、それは哲学者に聞けとしか言えない。とにかく、この世界はそういう風にできている。俺はそれを理解するまでに数年かかった」

 塩見は指を天空に差して言った。

「魔法、ってあるだろ。あの魔法ってのは、エーテルを触媒として発現させるものなんだ」

 信じられるか、そういって一瞬振り向いた。

「とはいえ、そこらへんは耶霧に教えてもらったんだがな」

 塩見は再び歩き出して、続けた。

「エーテルは自然のサイクルの中にある。エーテルを消費したなら、エーテルをまた自然から回収する。エーテルは魔法の他にも、生命活動によって徐々に消費されるから、必要に応じてまた補充する。そのバランスが大事なんだ。それを、この世界の住人は肌で分かっている。俺達が生まれながらにして誰かを愛することが出来るように、誰に教わる訳でもなく、それが出来るようになるんだ。もちろん、幼いうちは恋愛はおろか食べることら覚束ないように、エーテルのバランス感覚というのも、成長するにつれ成熟するものらしいが。とかく、エーテルはこの世界の住人にとって切っては切り離せないもの。それを前提で聞いてくれ」

 塩見は続ける。

「俺達の世界には、エーテルがない。正確には、無かった、だ。あの渦が現れるまでな。あいつのお陰で、俺達の世界にはエーテルがもたらされてしまった。ここで考えなくてはならないのは、世界のバランスだ」

 眼前の大きな岩を乗り越えながら、塩見は手を差し出した。それに手を伸ばせば、京子の体が強く引かれる。塩見は再び歩き出し、語りだした。

「質量保存の法則ってあるだろう。あれと同じだ。何かを得るには、同等の何かを失わなければならない」

 塩見は、立ち止まって言った。

「では、エーテルを得た人間は、代わりに何を失うのか」

 ポケットに手を突っ込み、立ち尽くす塩見。彼の前には、巨木があった。その身を池にうずめた、孤独にそびえたつ、美しく立派な木だった。人間だったなら、間違いなく美人だったであろう。

 そこまで来て、京子は自分の感覚に違和を覚えた。私はなぜ、そんなことを思ったのだろうか。

 

「紹介するよ」

 塩見は、ゆっくりと振り返った。

新町杏子しんまちきょうこ。俺のフィアンセだ」

 塩見の手は、間違いなくその巨木を差していた。

 塩見は、言った。

「俺の知る、最初のエーテル被害者。そして、俺がこの世界で失ったものだ」

 巨木は、他のどれよりも美しかった。

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