14 舞浜事件

 東京五輪レガシー計画の成否を世論に問えば、失敗だったというだろう。その印象を決定づける最大の要因は、新木場に設けられた選手村事業である。他の事業はさておいて、世論はこの一点のみで語られていたと言っても過言ではなかった。それほどに、この事実はインパクトが大きかったのである。

 選手村跡の有効活用計画自体には、何も問題がなかった。むしろ、競技場などに比べれば順調とさえ言えた。にもかかわらず失敗と言われるに至ったのは、そののち数年間に渡って「入居者ゼロ」という事実があったからだ。原因は、渦にあった。

 突如として舞浜に現れた異世界への門、渦。渦はその発生と同時に、夢の国の敷地半分を奪っていった。そこにあったものが、忽然と姿を消してしまったのだ。行方不明者数一七六二人。この事件は、日本中のみならず、世界中を混乱に陥れた。現地取材中に市民が発した「夢の国から帰ってこない」という言葉は、皮肉にもその年、最もメディアに登場したフレーズとなった。

 しかし数日後に、事態は急展開を迎える。その渦から、帰還者が現れたのだ。それは続々と数を増やし、最終的な行方不明者数は、一桁にまで修正された。

 この奇跡的な帰還劇までを、世間では「舞浜事件」と呼んでいる。

 新木場は、この舞浜事件の影響をもろに受けた。新木場と舞浜はほど近く、またいつ同様の事件が発生するかもわからない状況で、好き好んでそこに住む人などいなかったのだ。避難勧告が解除されてからも過疎化は進行し続け、人が働きに出ている日中はゴーストタウンの形相だった。人口が増え始めるのはそれからしばらくした後、新舞浜国際渦港が開港されてからである。

 政府は町の再生計画として、舞浜周辺を異世界との交流都市として設定することにした。舞浜を入り口として主要な機能を集約させ、新木場はそこで働く人の生活圏として機能させることが決定し、新舞浜は、その中で生まれたのだった。再び、夢の国をそこに創る為に。

「現時点で入居者は五割というところらしい」

 夕暮れ差し込む京葉線の車内、窓際に立つ塩見が、かばんから資料を取り出した。京子はそれを押し付けられる形で受け取る。

「これは」

「蘇我に調べさせた」

 京子は眉を細めたが、塩見は目線を合わせなかった。

「見事に異世界人ばかりですね」京子が資料に目を落として言う。「それも女性」

 並ぶ名前の殆どはカタカナで、異世界語を日本語読みしたものだ。

「別に異世界人に限定しているわけじゃないんですよね」と京子。

「ああ」塩見は腕時計を見て、ポケットに手を突っ込んで言った。

「異世界人がどこでも歓迎されているわけじゃないということだ。いくら価格が安いと言っても、得体の知れない連中と一緒では、安心できないんだろ」

「得体の知れないって」京子は眉間に皺を寄せた。

「そういう見方もあるということだ。その逆もな」

「逆?」

 車体の減速とともに、車内放送が流れる。塩見はドアに向かって、小さく言った。

「連中から見た、俺達のことだよ」

 京子がなにかを聞くよりも先に、扉が開いた。塩見は躊躇わずにホームに進んでいった。


「それで、作戦なんですけど」

 新舞浜の通りにある、チェーンレストラン。窓際のソファ席に向かい合う二人に、ウェイターが料理を届ける。塩見にはデミグラスソースハンバーグが、京子にはペスカトーレパスタが置かれた。

「なにかあるんですか?」京子がナプキンエプロンを巻きながら聞く。それに対して、塩見は「ない」と答えて、ハンバーグにナイフを入れた。

「ないって」京子は一口目を食らいついた塩見を睨みつける。「そんなことで大丈夫なんですか。相手はあの北の風俗王ですよ」

「だからこそだ」塩見は京子に目を合わせない。「そういう相手だからこそ、小細工なんて意味がない。正面切るがベストだ」

 京子は不安と不満を飲み込むように、一口目を口にした。口を拭いた塩見が言う。

「別に俺たちは悪いことをしに行くわけじゃないんだからな」

「でも、これじゃ私達が悪者みたいですよ」

 京子は手元に置いた端末を覗き込んだ。そこには一人の紳士が映っている。白髪混じりの長髪を撫で上げ、こちらを真っ直ぐと見つめる双眸が、品性を感じさせる。

「ルックスじゃあ、完全にあちらが正義ですね」

 習志野ならしのあらた。北の大地北海道は「すすきの」で成功した老君で、「北の風俗王」の通称で知られている。彼を有名にしたのは、新舞浜で初の異世界人雇用と水商売店「ニュー・アンダー・リゾート」での成功だ。連日のメディア取材に快く応じ、当時から露出が多かった。インテリを感じるルックスと物腰から、「なりたいおじさまランキング」で常に上位に君臨している、芸能人と言ったほうがいい。

「ルックスがなんだ、なんの役にも立たん」塩見は不機嫌そうに背もたれに手を回した。

「それ、ひがみにしか聞こえないからやめたほうがいいですよ」

「お前」塩見はため息をついた。「上司に気を使えないのか」

「塩見さんが部下に気遣いできるようになったら、考えます」

 塩見は「まいったな」と言って首を撫で回した。

 コーヒーを飲みながら、塩見は考えていた。目前の越中島。最近の若者にしては、骨がある。物怖じしないし、裏表がないその素直さに潔さを感じる。女性としては少々ガサツではあるが、こうして食べ物を食べているところを見ると、育ちの良さを感じるのだ。人の顔色を窺わないのは、そうする必要がなかったからだ、と塩見は推測する。それだけに、己の身勝手に付き合わせるのは、気が引けた。

「でも」口を拭きながら京子が言う。「塩見さんは、なんでそんなにこだわるんですか」

 塩見は返事の代わりに京子を見た。京子は続ける。

「だって、仕事っていうには、踏み込みすぎですよね。言ってしまえば、私達はあの窓口でそこを通る人達をただ手続きしていればいいんですから。その後のことまで面倒を見ていたら、きりがないですよ」

「なるほど」塩見はカップを置いて言った。「それがお前の仕事感か」

 京子は首を振った。「概念の話です」そしてコーヒーを手に取って言った。

「そりゃあ私だって、想いが無いわけじゃありませんよ。こんなんでも、理想とか、こうあるべきとか、そういうのは持ち合わせています」

「ほう」塩見は肩を竦めた。「結構なことだな」

「茶化さないでください」京子は口を細めた。「塩見さんだって持ってるじゃないですか。だいたい、そういうのを持てって言ったのは、塩見さんですよ」

「そうだったか」

「そうです。初日のことを忘れるなんて、いい度胸ですね」

 塩見は文字通りお手上げだった。上げたついでにウェイターを呼びつけ、「彼女になにかデザートを」と告げると、「デラックスチョコレートサンデー」と京子は即答した。塩見はあまり使わないタイプの店だったが、京子は違うらしい。

「理由か」

 ウエイターが去ったのを見てから、塩見は言った。

「後悔したくないからだ」

 京子は、小さく付け加えられた「もう二度と」という言葉に、心臓が締め付けられた。

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