12 その男、何者

「おお、京子ちゃん。いらっしゃい」

 越中島京子は、重い木製扉を潜り抜けると、カウンター席に座った。

「その京子ちゃんっていうの、辞めてもらえます? マスター」

 葛西のたくましい背中に向かって言ったが、返事は無い。カウンターに頬杖をつき、むすっとしていると、ソルティドッグが置かれた。京子のお気に入りだ。両手で抱え、そっと口をつける。至福の時だ。

「それにしてもお前、暇なのか」

「暇に見えます?」

 店内を見渡せば、ミルがお盆を抱え、客との話に花を咲かせていた。こちらに気づいたミルに手を振れば、笑顔が返ってきた。

「そりゃあ、これだけ毎日来ればな」

 カウンターの奥では、耶霧じゃむがうなだれた男性客の相手をしていた。多くの男は耶霧に母性を感じるのか、こうして愚痴を垂らされている所をよく見る。耶霧もこちらに気がつき、魔性的なウィンクをくれた。

「暇じゃあ無いですよ。毎日仕事は忙しいし、相談できる相手もいないし。そればかりか、本来は私の分じゃない仕事まで。どっかの誰かさんのお陰でね」

 くっと一気に飲み干し、叩きつけるようにグラスを置いた。

「塩見か」葛西が聞くと、京子は首を振った。

「あんな人のこと、考えたくもない」

 眉をへの字にする京子に、葛西はかける言葉が無い。グラスをそっと回収し、おかわりを置いた。

 ミルをここに連れてきた日から、バー「R&Jリズム・アンド・ジャズ」は京子のお気に入りの店になっていた。大人っぽい世界観への憧れから脊髄反射的にバーに興味を抱いていたが、そんな京子にとって、ここはそれを体現したような空間だった。普通に生きていれば接点が無さそうな人間たちの多様な面が垣間見え、都度新しい発見がある。それでいて、実家に来た時のような安心感がある。大人の隠れ家、それを自分が持てていることが嬉しかった。

「ねぇマスター」ふいに京子が言うと、葛西の背中から「なんだ」と返ってきた。

「塩見さんのことなんだけど」

 子供のようなふくれっ面に思わず笑いそうになる葛西だったが、身を乗り出し、親身に聞く体裁を整えた。

「最近、ずっと午後出勤なんですよ。かと思えば、時短で帰っちゃうし。何か聞いても教えてくれないし。どう思います」

 京子の不機嫌の理由はこれだった。最近の塩見は昼過ぎにならないと出社せず、その顔色は青ざめており、体調が良いようには見えない。そして京子があがるよりも早く、いつの間にか退社しているのだ。お陰で京子の仕事量も増えていて、赴任したばかりだというのに、ちらほらと残業が必要になってきている。

「でもさ」京子は突っ伏して、言った。「それでも上司じゃないですが。あんな体調悪そうにしてたら、なんかかわいそうで。仕事とかも、大丈夫かなって」

 京子の残業の理由は、塩見のフォローだった。塩見のことだ、自分の分の仕事は放っておいてもうまくやるだろう。だが、京子は塩見の負担を減らすべく、自分に求められている以上の仕事をこなしていたのだった。それは自分の性格によるもので、言ってしまえば好き好んでやっていることも自認しているが、それだけに、あの塩見のぶっきらぼうな態度が気に入らなかった。煮え切らないのだ。

「あいつの助けになりてぇんだな。京子ちゃんは」

 京子は返事をしなかった。図星だったことが恥ずかしかった。自分の幼さに、ちゃん付け呼ばわりされるのも仕方がないと思えてきた。

「待つのも、女の務めじゃぞ」

 話を聞いていたのか、耶霧が優しい笑顔を向けていた。気が付けば、目前の男性客は眠りに落ちている。

「なんか生意気」悔し半分の京子の言葉は、「ふん」と鼻で笑われてしまった。

「わっちからしてみれば、お主など赤子同然よ。赤子の下心など、鼻で笑うわ」

 その言葉に、京子の顔が一気に真っ赤になった。

「下心って、ちょっとやめてよ! そんなんじゃないから!」

 大手を振り否定し、酒を一気に飲み干す。その飲みっぷりに、葛西の顔が引きつる。

「なんじゃ、違うのか。てっきり、来る日も来る日も葉介のことばかりが頭に浮かんで、いてもたっても居られぬから、こうして背伸びをして通っておるのかと、そう思っておったぞ」

 したり顔の耶霧を睨みつける京子の目は、既に座っている。

「ていうか」はっと思いついたように京子が言う。「耶霧はいったい幾つなのよ」

「そうじゃな、お主ら日本人の尺度で言うなら、五百はゆうに超えておるよ」

「五百!?」京子は目をひん剥いた。

「ちなみに、あのエルフも百六十を超えておるぞ」

 耶霧の言葉に京子の開いた口が閉じない。

「わっちらが長生きだと言うことくらい、知っておったじゃろうに」

 そう言って耶霧は胸元から煙管を取り出し、吸った。

「知ってたよ。だけどさ、それで私より若々しいって」京子は頭を抱え込んだ。

「そう言えば」思い立ったように京子が言った。「耶霧って、塩見さんのこと、名前で呼ぶよね。仲いいの?」

 吐き出した煙を器用に輪っかに仕上げた耶霧が言う。

「仲がいいも何も、あやつとはもう何年もの付き合いじゃ。それこそ、向こう側におったころからのな。いわゆる、腐れ縁じゃな」

「ふーん。え?」京子の目が見開いた。「今なんて言った?」

「腐れ縁かや」

「違う、その前。、って」

 耶霧と葛西は顔を見合わせた。

「お主、何も聞いておらんのか?」

 京子は首を左右に強く振った。京子が知っているのは、異世界語が話せること、そして異世界に行ったことがある、という所までだ。そもそも、あの男は自分のことを何も語らなすぎる。

「今の言い方、まるでずっと異世界にいたみたいだった」京子は言って、頭を抱えた。「日本人の異世界長期滞在は出来ないはず。でも、そう考えてみれば、あの人の異世界語のうまさは異常、自然すぎるんだ。まるでネイティブスピーカーのような」

 塩見が異世界人対応をしている所を何度か見たことがある。意図が正しく伝わらず困っていた所を助けてもらったこともあった。京子の知らない言い回しもあった。それは経験を積めば身につくものなのかと思っていたが、考えてみれば、そんな常用語が教材に載っていないなんてことが、そもそも在り得るのか。現地の人にしかわからない言葉で話していたと考えれば、辻褄が合う。

「塩見さんって、一体何者?」

 その問いに、誰も答えはしなかった。

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