8 リズム・アンド・ジャズ

「おや、お主」

 女はこちらの姿を認めると、ゆらりと歩み寄る。思わず腰を落として構える京子だが、

「よいよい、構えんでも。わっちはこの店の者じゃ。楽にしてくりゃれ」

 と手のひらで諭される。相手の様子に緊張感は無い。

「これ、そこのエルフ。お主もくつろげ。そうエーテルを放たれていたのでは敵わぬ」

 二人の異世界人種の視線が交錯する。そして、緊張から解き放たれていく。どうやら、京子にはわからない方法で意思疎通を成し遂げたらしい。

「失礼しました」ミルが頭を下げると、

「良い、最初はよくあることじゃ」と狐女はにこやかに笑った。

「葛西という男に会え、と言われてきたのだけれど」

 京子が切り出すと、狐は得心が行ったように手を打ち、「なるほど」とこぼした。

「お主が葉介の部下とやらじゃな。合点が行った。まぁ、まずはそこにかけるが良い」

 狐女は振袖をかざし、酒樽のテーブルへ着座を促す。京子達は顔を見合わせ、そこに腰かけた。

「この店の主は今、買い出し中じゃ。時期、帰ってくるころじゃと思うが」

 そう言って、華奢なグラスに注がれたスパークリングウォーターが振る舞われる。京子はそれを一気飲みした。

「あの、貴方は」それを受け取りながらミルが聞くと、

「おお、そうじゃった」と狐女。

「申し遅れた。わっちは狐人族の耶霧じゃむ。この店の従業員じゃよ」

 耶霧はコンガのような形をした椅子を引きずり、京子達の輪に加わる。

「となると、噂のご令嬢はそなたじゃな」

「ミル・クレ・イープと申します」

 京子は慌ててミルの口を塞ごうとしたが、間に合わなかった。早速本名を口にしてしまっているが、耶霧が向ける視線の柔らかさを見れば、事情は理解しているだろうことは伺い知れた。

「これは先輩としての忠告なのじゃが」耶霧が続ける。「無作法にエーテルを垂れ流すのは避けた方がよいじゃろう。こっちの世界では、大切なことじゃ。みな驚いてしまう」

「はい、肝に銘じます」

 二人の会話の意図が、京子には全く分からなかった。それが顔に出ていたのか、耶霧が人差し指をたてる

「おぬしら世界の人間には、理解の及ばぬところよ。気にすることはない」

 異世界について勉強に明け暮れた京子だったが、そんなことはどこにも書いていなかった。エーテルの存在自体、眉唾ものだとすら思っていたのに。

「そこいらのことは、今後、わっちが教えよう。何せ、お主はここで働くことになるのじゃからな」

「えっ」と飛び跳ねる京子に、耶霧は振袖を左右に揺らし、

「お主のことじゃない、エルフの方じゃ。何も聞いておらんのか?」

 聞いてない。京子がそう答えようとした時、鐘の音とともに扉が開いた。

「ただいま」

 扉を潜り抜けてきたのは、強面の男だ。その肩と腕に紙袋を抱え、それらをドシンとカウンターに置いた。

「主よ。客じゃ」

「みりゃあわかるぜ、耶霧。お前がもてなすってことは、件の連中か」

 男はこちらに近づき、尻のポケットから名刺ケースを取り出すと、一枚を京子に手渡した。

「葛西だ。この店を経営している」

「舞浜渦港入国審査課の越中島京子です」

「あんたが塩見の部下か。話は聞いてるぜ。よろしく」

 葛西が手を差し出し、京子はそれを握る。その手は大きく、決してひ弱ではない京子のそれの二倍近い。

「どうも。私はまったく何も聞いてないのですけどね」

「はは、あんたも大変だな。どうせ、行けばわかるとか言われたんだろう」

 葛西はカウンターに向かい、紙袋を手際よく開封していった。

「よくお分かりで」

 果実や酒の瓶がカウンターに並べられていく。この男、これだけの量を一人で持っていたというのだろうか。

「諦めな。あいつにそこら辺のことを期待するだけ無駄だぜ。こっちからしつこく聞くしかねぇ。と言っても、それで答えるかはまた別なんだが」

「薄々気が付いています」

 配属されてから、今日で一か月。京子はいまだに入国審査業務を指導されていない。背中を見て学べとでも言われているのかと当初は思っていたが、最近では単に甲斐性が不足しているのだと認識を改めている。

「悪意がねぇだけ厄介だ。ああいうヤツの周りには、苦労人が増える。モスコでいいか」

「車なので」

 この男も塩見に振り回されている一人なのだろう。そう思うと、急に親近感が沸く。

「肝心なところは丸投げだからな」葛西はグラス四つを器用にテーブルに並べ「おかげで俺が説明することになる」と言って腰かけた。京子の前にはレモンがのったグラスが置かれている。

「レモンスカッシュだ。アルコールは入ってない」

「どうも」

 口に含むと、肩の荷が下りるような感じがした。爽やかな香りが、疲れた心に心地よい。葛西のバーテンとしての腕は確かなようだ。

「さて」葛西は両腕を膝に押し付け「どこまで知ってる」と京子に相対した。

「それが、本当にここに行け、とだけ」

「そうか。まぁ、だよな」

 葛西はその丸い頭を撫でまわした。

「結論から言えば、そのエルフの嬢ちゃんは、この店で働くことになった」

 その言葉に、京子とミルは顔を見合わせた。

「行政上の調整は塩見がつけているはずだぜ。これをもってエルフの嬢ちゃんは、日本への滞在許可を得たってことだ」

 その瞬間、言葉にならない歓喜が沸き起こった。ミルは勢い余って京子に抱き着いている。

「ここでの振る舞いなどは、わっちが面倒を見よう」

「皆さん、ありがとうございます!」

 京子はこの熱量から置いてきぼりになっていた。どういうことか、頭を整理し始めると、上司の検見川と視察した新木場の工事現場を思い出した。

「私、ついに来たんだわ。憧れの、ニュー・アンダー・リゾートに」

 ミルは胸の前で手を合わせ、瞳を輝かせている。

「ああ、そのことなんだがな」葛西は首を撫でまわし、「この店の名前はリズム・アンド・ジャズってんだ」

「りずむ・あんど・じゃず?」ミルの目が点になる。

「まぁ良いではないか。お主は日本で働けるのじゃから」

 耶霧がミルの手を取り、気を引き、ミルは「ええ」と頷いている。

「ニュー・アンダー・リゾート?」

 京子が言った。その言葉は静寂を生み、耶霧と葛西は苦い顔を向けている。

「えっ?」

 新卒の京子は、その手の情報に疎かった。

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