7 R&J

「……次は右で、その次は左で……」

 久しぶりの運転に、京子は緊張していた。知らず内に肩肘が貼り、頭ががんがんと痛い。念仏のように道順を唱えているのは、あまりの方向音痴で、そうしていないとすぐに道に迷ってしまうからだった。残念ながら、本日の助手はそのあたりで役に立ってくれそうにない。

「どうして日本の道ってこんなに分かりにくいのよ」

 しかし、努力が実るとは限らない。ここに来るまでにすでに三回は道を間違えており、到着予定をとうに過ぎた今、ようやく目的地の傍まで来たというところだった。

「いったい何回信号に引っかかれば済むのよ!」

 越中島京子は、運転に向いていなかった。

「まぁまぁ、そんなにお怒りにならなくても」

 ハンドルをどつく京子を見かねて、助手席に座る女が苦笑いする。

「短気は損気、ですよ。これは確か、日本の言葉でしたね」

 ミル・クレ・イープは爽やかに笑った。京子は舌打ちした。

 実際のところ、京子の苛立ちのうち半分くらいは彼女にあった。先ほどまで、まるで過去からタイムスリップしてきた人のように「鉄のダンゴムシが動いてる」と大はしゃぎし、京子の貴重な集中力を奪っていた。二人乗り電気車両のこの車をダンゴムシと名付けた点には感心したが、問題はそこではない。それもこれも、全部あいつのせいだ。

 今朝、出勤するなり上司の塩見に「新舞浜に行け」と車のキーを渡された。車の運転は苦手だと反論するも聞き流され、事情を簡潔に(しかし情報としては不十分だ)説明されたが、気持ちは全く納得がいっていない。ぶっきらぼうな塩見を一度は張り倒してやりたいと思っていた京子だが、今日ばかりは頭突きをかましてやろうかと思った。

「本当にすごい所ですね。日本は。あんな不思議な形の建物がいっぱい」

 任務は、隣で観光気分を味わっているエルフの女を、ある店まで連れていくことだ。塩見の言葉を借りれば、「葛西という男に会え」ば、後のことは分かるようになっているらしい。引継ぎにしても、雑過ぎないだろうか。


「これが日本の空気なんですね。うーん。独特の香り」

 車をパーキングに止める。ここから新舞浜の繁華街までは歩いて向かうことになる。

 新舞浜は主要な道路を除いて路地というものが意図的に排除されており、車をつけることが出来ないようになっている。これは日本のルールに不慣れな異世界人の交通事故被害に考慮したもので、建物の境目などは遊歩道という体裁で整理されていた。言ってしまえば、常に歩行者天国状態なのだ。

「あ」

 車から降りてすぐに、京子は忘れものに気が付き、ダッシュボードの奥をまさぐった。

「これを忘れちゃあいかんのだった」

 それはよくあるネームタグで、出発直前に塩見に手渡されたものだった。透明のスリーブに異世界人限定の滞在証明書が差し込まれている。拾い上げた途端、忌々しい上司のセリフが蘇った。

(ミルの本名は明かすな。仮の名前を発行しておくから、首から下げさせておけ)

「……仮の名前って。ヤクザかってーの」

 誰に言うでもなくそう吐き捨てながら、何気なく表面を見た。文句なしの笑顔の横に、カタカナで「ミル・クレーム」と書かれている。

「センスっ」

 もっとマシな名前は無かったのだろうか。例えばクリームとか。そう頭の中で突っ込んだあと、上司と同じ感性を持ち合わせていることに落胆した。日本の空気を存分に味わっているミルの首にタグを下げながら、心の中で謝った。

「まぁ素敵」

「それを下げている間は、あんまり文句とか言わない方がいいよ」

 仕事が終わったらビールを飲もう。京子は心に決めた。


 車から降りればストレスフリーなのかと言えば、そうではなかった。ミルの知的好奇心は凄まじく、子供のように走り回った。はぐれると危険なので、途中からは手を繋いではいたものの、大型犬と引っ張られる飼い主の図だった。京子は未来の子育てに不安を覚えた。

 目的地に差し掛かった時には、日はしっかりかしぎ、薄暗い路地では街灯や看板が浮かび上がっていた。メイン通りは大型チェーンでひしめき合う中、こうした路地には名の知れた店が分店している。京子は一度も連れて行ってもらったことのない価格帯の店である。

 さらに少し進むと、雰囲気は怪しくなる。歌舞伎町あたりをうろついている感じの方々が増える、といった感じだ。尻尾を丸出しにした猫人族が街行く男に次々と声をかけていたり、ポケットに手を突っ込んでニヤついているおっさんなど。誰にでも愛想を振りまこうとするミルの手を引き、足早に目的地に向かう。

「ここ、ね」

 店と店の合間に埋まるようにして、その階段はあった。奥まで下れば、木製の扉が一つ。見上げれば、金属細工で「R&J」と書かれている。目的の店だ。その少し下には、準備中と書かれた札がぶら下げてある。

「ごめんくださーい」

 扉を押し込むと、頭上で鐘が鳴った。

「おお、おしゃれ」

 店内の様子に、思わず零れる。訪れたことのない大人な香り。京子はバーが初めてだった。

「誰かいますか」

 バーカンターに手を滑らせ、店内を進んで行く。数秒で端から端まで歩けてしまえそうな、小さなお店。酒樽に少し手を加えただけのテーブルや、やたらと高そうだが古びているソファ、木材と茶色で統一された空間に、一歩踏み出すごとに軋む床。大人の隠れ家のような佇まいに、胸が躍る。

「京子さん」

 振り返れば、険しい表情のミルが入り口に立ち尽くしていた。体は強張っているのか、緊張感が伝わってくる。その様子に、京子は制服の下に隠していた警棒を握りしめた。

「誰かいます。エーテルが」

 聞きなれない言葉に戸惑う京子だったが、ミルのただならぬ雰囲気で察した。彼女が見つめるのはカウンターの奥、おそらくバックヤード。京子はその視線の間に、体を滑り込ませた。何かあれば、自分が彼女を守らなくては。

「どちら様じゃ」

 カウンターの奥から、若い女の声がする。

「準備中じゃというのに踏み入ってくるとは、とんだ世間知らずじゃな」

 続いて、女が顔を出した。浴衣姿のその女には、狐のそれのような、大きな耳が付いていた。

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